いつか見た夢
それから、西園寺さんちの若夫婦は、ふたりで新婚旅行へと旅立った。
母はたった一言、
「牡丹より先に死んだら許さない」
なんて傑兄ちゃんを脅していた。
母は父を愛しているのだなあと思うと、アタシは柄にもなく感動してしまった。
次男・護と次女・桜は、今頃沖縄でふたり仲良く暮らしている。長男と長女の結婚式が済んだ夜、護兄ちゃんが傑兄ちゃんに言ったのだ。
例の、桜姉ちゃんを内縁の妻にするっていう話。
傑兄ちゃんはただびっくりしていて、牡丹姉ちゃんは泣き出した。
「私たちのために、ふたりが不幸になるなんて耐えられない」
そう言う牡丹姉ちゃんに、桜姉ちゃんはにっこりしていた。
「不幸じゃないわ。護くんがいるから、私、東谷 桜のままで幸せになれる」
そんなふうに言い切った桜姉ちゃんが、なんだかすごく、かっこよく見えた。
そんなことがあったから、傑兄ちゃんが提案したのだ。
沖縄でダイビングスクールを開きたい。だからそこで護にはインストラクターをやってほしい。
それで真ん中っ子たちは決意して、苗字はばらばらのまま、沖縄で家庭を持つことになった。
で、アタシと学の末っ子ペアはというと、相変わらず学校に通って、相変わらず道ならぬ恋に悩んでいた。
新堂先生はルノアールの絵に似た彼女を忘れはしないし、傑兄ちゃんは牡丹姉ちゃんを離さない。
それは曲げようのない現実で、その力の前に、アタシたちは平伏すしかないのだった。
「ねえ、椿ちゃん」
学はアタシの名前を呼ぶ。
「きっと、一生に一度の恋だったよね」
そんなことはない、とは、言えなかった。
この1年間、彼に抱いた想いを恋と呼ぶならば、アタシはきっと、もう恋には落ちないだろう。
これほどの激情を味わったのは初めてで、学もそうだったんだなと確信する。
「ぼくも先生のこと、世界で1番好きだった」
学はそう呟いて、アタシの脳裏にはあの日の部室が蘇る。誰もいない空間で、学の告白が静かに響いていた、あの日の放課後が。
「ねえ、椿ちゃん。これでおしまいじゃないなんて、なんか変な感じだよね。これからもずっと、生きてくなんて」
「そうだね」
相槌を打ちながら、アタシも妙な気分になっていた。
漫画や小説みたいに、きりのいいところで「はい、おしまい」ってわけにはいかない。
アタシたちの人生はまだ続く。
下手したら、あと何十年も。
「もしさ、椿ちゃん。もしこれからもずっとずっと、今より好きな人が出来なかったら」
学は言いながら、空を見上げた。そしてアタシの顔を見る。
「ぼくたち、結婚しちゃおうか」
それはまったく、思いがけないプロポーズだった。フリーズするアタシの顔を見て、学は笑う。
「ぼくは椿ちゃんのお婿さんになって、椿ちゃんはぼくのお嫁さんになって、それでずっと、ぼくは先生を好きでいて、椿ちゃんは傑兄ちゃんを想うんだ」
どう? なんて尋ねられて、アタシは思わず吹き出した。未来の展望が、見えた気がした。
ずっと好きなままでいる。
ずっと彼を想っている。
その隣には、同じように生きる学がたたずんでいて、アタシたちは互いを見ながら想いを過去に馳せている。
「じゃああんたは、一生アタシの子分なわけね」
そう言って笑うと、学は当たり前だと頷いた。
「椿ちゃんは、ぼくの親分だもん。これからも、ずーっと」
そんなことを言ってくれる学が愛おしかった。それは親愛の情であって、恋愛感情ではなかったけれど。でもそれが、驚くほど心地好かった。
「人生は長いんだからさ」
学は言って、アタシを見つめた。
その視線の先に自分はいないということに、なんだかすごく、安心した。
いつか見た夢のように、傑兄ちゃんへの恋心を忘れる時が来るのだろうか。
来ない気がした。
10年たっても100年たっても、彼を好きなままでいられる気がした。
それは錯覚だと分かってはいたけれど、今のアタシが、正直に感じている気持ち。
これは永遠だと信じたい。
禁断の恋に悩んだ日々も、たくさん泣いたあの夜も、アタシの中に蓄積されて、宝物みたいにしまわれる。
「じゃあ、その時はよろしく」
そう言い返して、アタシと学はハイタッチをした。再会を喜んだあの日みたいに。
人生がこれからも続いていくのと同じように、アタシたちの恋も続く。例えそれが、叶う日は来ないと分かっていても。
これがアタシ、東谷 椿17歳の、1年間の恋のお話。