閑話 (1) 『麗華稀月の物語』
トイレの個室に入り、壁を思い切り殴る。
だんっ、と激しい音が一瞬響いたが、そんなのはすぐに掻き消えて、後には私の右手のじんじんとした痛みだけが残った。
吐き出した息は震えていた。
一体何をしているんだと自嘲気味に笑いながら、熱を持ち始めた右手の甲をゆっくりとさする。
今私の中で渦巻く濁り濁った感情を一言で表すならば、やはり悔恨の念、だろうか。
教室でカナタを見つけ、彼の異変に気付き、ようやくあの女の尻尾を掴むことができたと思った、その矢先の出来事だ。
掴んだと思った尻尾は煙の様にふわりと立ち消えた。
「くそっ……」
それだけじゃない、私は……私は負けた。
完膚なきまでに負けてしまったのだ。
カナタがスマートフォンで撮影したという写真を見て、私は分かってしまった。
この事件の全容を理解してしまった。
そして理解したからこそ、敗北を悟った。
何故なら――――私は何もできないからだ。
真相を知ってしまったにも関わらず、真相を知ってしまったがゆえに、私は舞台から引き下ろされ、役を剥奪され、傍観者になることを余儀なくされた。
「くそっ……」
がんっ、と。
再度壁を殴る。さっきよりは少し控えめに。
音はすぐさま静寂に飲まれ、壁は何事もなかったかのようにそこに鎮座し続ける。
私の拳が痛むこと以外は何も残らない、無駄な行為だ。だけど、殴る。何度も何度も殴る。
「くそっ……くそっ……くそっ!」
いくら汚く言葉を吐き出しても、いくら短絡的な感情表現をしようとも、胸の中でとぐろを巻く負の感情は消えることがなかった。
ただそこにあり続けた。もったりと。
「すまない……カナタ……」
本人には決していう事ができない懺悔の言葉は、私を嘲笑うようにどこかへ消えていく。
どれくらいの時間そこにいただろうか。
頭を切り替え、私は自分に言い聞かせる。
何もできない私だけれど、それでも今は出来る限りのことをしよう。
傍観者として、端役として、なんとか彼をサポートしよう。
そろそろ時間だ。私は彼との約束を果たすため、行動を始めた。




