第二話 (2) 『愛の逃避行』
夜。
丁度深夜零時を回ろうとする頃。
僕は電気が完全に消えた男子寮を外から眺めていた。
「これ、ばれたら反省文どころの騒ぎじゃないだろうなぁ……」
誰にともなく呟いて、こんなところでのんびりしている場合じゃなかったと、僕は歩き始めた。
夜、就寝時間後に寮を抜け出して、音楽棟で落ち合おう。
そうララちゃんに言われた時はなんの冗談かと思ったけれど、寮から抜け出す方法を事細かに説明して貰った後、彼女が本気だという事を悟った。
彼女の策は以下の通りだ。
まず、就寝時間には宿直の先生が一部屋ずつ順番に回って生徒がいるのを確認した後、消灯する。
全ての部屋を消灯し終えると、先生は寮の玄関に鍵を閉め、セキュリティーをかけてしまう。
このセキュリティーが厄介で、外側からでも内側からでも、扉を開けるとけたたましい警報がなるようになっている。
『つまり、先生が扉をロックしてしまえばアウトだ。その前に抜け出す必要がある』
寮の出入り口は正面玄関を含め二カ所あるが、そのどちらもセキュリティーがかけられている訳だから、確かにその通りだ。
『宿直の先生が消灯し、他の部屋を回っている間に抜け出す。これしかない』
『まぁそれはそうだろうけど……でもララちゃん、その作戦には致命的な穴があるよ』
『なんだ?』
『うまいこと先生の目を掻い潜って抜け出せたとして、どうやってその後寮に戻るのさ』
抜け出した後、先生は扉を閉め、セキュリティーをかけてしまうだろう。
自分の部屋に戻れないんじゃ、抜け出したって意味がない。
そう言うと、ララちゃんはなんだそんな事かと肩をすくめて答えた。
『そんなもの、朝まで戻らなければいいだけの話だろう』
『……はい?』
『朝になればセキュリティーは解除され、扉も開く。何食わぬ顔で朝の準備にいそしんでいる皆に紛れてしまえば、全く問題ない』
『い、いやいや、冗談だよね?』
『あまり冗談は得意な方ではないが?』
『そういうことじゃなくて!』
それはつまり、ララちゃんと一晩音楽棟で一緒に過ごすという事だ。
別に僕にやましい気持ちは一切ないし、何ならララちゃんにだって微塵もないだろうけれど、周りから見ればそうもいかない。もし見つかってしまったら、本当にただじゃ済まない。下手すれば停学だってあり得る話だ。
そこまでのリスクを負ってわざわざ寮を抜け出す理由が、一体どこにあるというのだろうか?
『くく……言っただろう? 愛の逃避行だよ、カナタ。共に存分にスリルを味わおうじゃないか!』
不敵に笑ったララちゃんはいつも通り自信満々で、やめる気なんてさらさらなさそうで。
僕は不承不承にも首を縦に振るしかなかった。ララちゃんがそこまでの危険を冒してやろうとすることに少し興味もあったし、彼女が言うと、事もなくうまくいきそうな気もしてくるし……そして何より、きっと僕は違う事を考えていたかったんだろうと思う。
夢莉さんの事を。あの謎の少女の事を。
今はまだ直視する勇気がなかったんだと思う。
鈴虫か、はたまたコオロギか。それとも全く見当違いの虫なのか。
どれが正しいかは分からないけれど、とにかく深夜を回り、人気が全くなくなった構内は、そのくせそこそこに騒がしかった。
虫の音をバックミュージックに聞きながらいそいそと音楽棟の方へ向かっていると、がさり、という音と共に人影が現れた。
その時僕の頭を過ったのは、「こんな時間に一体誰が?」ではなく「あ、停学決定だなこれ」だった。そんな、半ばあきらめた気持ちで立ち止まった僕だったけれど、生垣の間から飛び出してきた人物の顔を見てほっと息を吐いた。
「江口さん、でしたか……」
「ふふ、こんばんは日向さん。どきっとしました?」
色香に溢れた声で江口さんはそう言うと、僕との距離をぐっと縮めた。
「あはは……停学を覚悟するくらいには。すみません面倒なことに巻き込んでしまって……。ララ――――麗華さん、ですよね?」
「えぇ、よく分かりましたね」
「彼女なら、念には念を押して、誰か見張りを配置するかなと思っていたので」
寮と音楽棟の間には、一部の先生方が寝泊まりしている寮も存在している。
今回の計画に万全を期すのであれば、何か策を講じているかもしれないと、薄々は感じていたのだ。
それにしても、その相手がまさか江口さんだとは思わなかったけど……。
「おおよそ日向さんが思っている通りで間違いありません。本来ならこういう校則違反に私は手を貸すつもりはないんですが……事情が事情のようなので、今回だけは特別です」
「ありがとうございます……」
ララちゃんがどんな風に江口さんに頼み込んだのかは分からないけれど、少なくとも今回の事を誰かに告げ口する気なんてさらさらない事は、江口さんの目を見ればわかった。
図書館の妖精でもある彼女は、たっぷりとした憂いに満ちた声で言った。
「ここでもたもたしているのも良くありません。どうぞ、先に進んでください。それが貴方にとって良い結果をもたらすことを、私は信じています」
「……はい」
「……もし――――」
江口さんの前を通り過ぎようとした時、江口さんは再度小さく声を上げた。
「もし、麗華さんでもない、クラスメイトや先輩、後輩の誰でもない相手に相談をしたくなった時は、放課後、A26番の棚に入っている永涯文庫出版の『懐かしきあの頃に』に手紙を挟んでみてください。一週間……いえ、翌日には返答が入っていると思いますよ」
「……江口さん……」
「さぁ、行ってください」
「ありがとう、ございます……」
ララちゃんは、江口さんに今回の事をどこまで話したのだろうか。
少なくとも、相談する相手の中に、あれだけ一緒に居た夢莉さんの名前を出さなかったことから、ある程度は想像がつくけれど。
僕は再び音楽棟へ向けて歩き出した。
◇◇◇
「どうやら、うまく抜け出せたようだな、カナタ」
「まぁね。正直、誰かに見つかりやしないかとひやひやしたよ……」
「まぁそれは問題ないだろう。一応手は講じておいたからな」
恐らく江口さんの事を言っているのだろう。
本当に抜かりのない子だ。
そんなララちゃんは、音楽棟の中にあるプレハブ小屋の後ろに隠れて待っていた。
「で、これからどうするの?」
夏とはいえ、夜はそこそこに冷える。おまけに僕もララちゃんもパジャマにガウンを羽織っただけの薄着なわけで、一晩外で過ごすのは健康上あまりよくないだろうと思う。
かと言って、音楽棟は夜間施錠されているから入れないとはずなんだけど……。
そんな事をもやもやと考えている僕をしり目に、ララちゃんはプレハブ小屋の窓の一つに手をかけ、引きあげた。
甲高い金属音と共に、窓はきしみながらも人一人が入れるくらいの空間を作った。
「さっさと中に入るぞ、カナタ」
「ど、どうして……?」
「そんなの、私が今日の夜に開けておいたに決まっているだろう。音楽棟は、施錠はされるが窓が開いているかどうかのチェックまではされていないんだ」
こともなげにそう言うと、ララちゃんは音もなくするりと中に入り込み、ちょいちょいと小さな手で手招きした。
なるほど、なんでこんなところに呼び出したのかと怪訝に思ってはいたけれど……どうやら一晩過ごせる場所を確保できるから、ということらしい。
用意周到な事だな、と僕は小さく笑い、ララちゃんの後を追って中に入った。
「よし、ここに隠れていれば夜の内は絶対見つからない。後は夜明け前に寮の近くに潜伏して、入り口の鍵が開くのを待つだけだな」
部屋の中は月明かりが届かないこともあり、外よりも真っ暗だった。
まだ暗闇に慣れない目を必死で凝らすと、ララちゃんがアップライトプピアノの陰にうずくまっているのが分かった。
更によく見ると、とんとんと自分の横を手で叩いている。
ここに来い、という事なのだろう。僕は頷いてアップライトピアノの下に潜り込んだ。
一瞬木の香りがしたが、すぐにそれは強い柑橘系の香りに取って変わられた。
「……えーっと……」
よくよく考えてみれば。
ララちゃんに言われるがままに、あれよあれよと流されて、こんな時間に、こんな所まで来てしまったけれど。
今僕は、ララちゃんと二人きりでいるんだ。
しかも、身を包んでいるのは見慣れた制服ではなく、薄手のパジャマとガウンで。
時間は深夜で。
場所は(少なくとも今だけは)絶対に先生に見つかる事のない音楽棟のプレハブ小屋の中で。
そんな異質な状況を改めて認識した僕は、今更ながらに緊張し出すのを感じた。
いやいや、緊張するタイミングがおかしすぎるだろう、とツッコまずにはいられないけれど、暗闇に慣れてきた目が、ララちゃんの薄緑色の寝巻姿をとらえてしまったのだから仕方がない。
僕は一先ず目を逸らし、窓から見える夜空を見上げた。深い紺色のベルベットを敷き詰めたみたいな空には、粉砂糖を振りかけたみたいに細やかな星々が、それはもうとんでもない数散らばっていた。
こういう光景を目にすると、あぁ流石田舎だなぁ、と思わずにはいられない。
「それで、なんでわざわざこんな事をしたの?」
「なぁ、カナタ。君、緊張しているだろう」
「人の苦労を一瞬で踏みにじるね君は」
そうだよ? そうですよそうですけど⁈ 何か問題でも⁈
必死に無難なセリフを口にした僕の心を見透かすように、彼女は笑って言った。
「くく……それは良かった」
「何がだよ」
「いやなに。何も思われなかったらそれはそれで悲しいなぁと思っていたからね。単純に嬉しいのさ」
「……?」
ララちゃんの言っていることがよく分からず、疑問符を浮かべた僕の事など気に留めず、彼女は「で、君をここに連れて来た理由だが」と話を進めた。
ほんとにマイペースな子だ。
「君とじっくり話をしたかったからだよ。誰にも邪魔されず、時間も気にせず、心行くまで、ね」
「……え、それだけ?」
「それだけとはなんだ」
「いや、だって……」
話すだけなら、放課後でも自習時間でもできるじゃないか。
確かに、教室も中庭も、二人きりになれる空間は少ないかもしれない。
二人きりの所を先生に見られると、色々と面倒かもしれない。
けれど、だからといってわざわざ外出を禁止されている夜間に抜け出す理由にはならないじゃないか。そう、言おうとして。
「……」
やめた。
相手はあの麗華稀月だ。
僕の考えていることくらい、既に、とっくの昔に考え終わっているはずで。だとすれば、ここに僕を呼んだ理由には、やはり正当で真っ当な理屈をつけることができるのだろう。
「そうだよ、カナタ。そんな事は分かっているのさ」
「……そう、なんだろうね」
なら、どうして。と目で問う僕に、彼女は語る。「理由は二つある」、と切り出した。
「君は今――――混乱している。いつも一緒にいた相手が、いつの間にかすり替わっていたという異常な事態に、まともに思考を働かせることができていない。だから、私と一緒に状況を整理しようじゃないか。それがまず、一つ」
混乱……混乱、か。
そうなのかもしれない。僕は曖昧に頷く。
「そうだな、混乱というのは語弊があるかもしれない」
「……」
相変わらず僕の心を読んだみたいに……。
「正しくは、勇気が出ない、だ」
「……っ」
「君は七々扇夢莉が消えた理由を、そして、あの謎の少女の事を。考えることが怖いんだよ」
「……どう、して……?」
思わず口からこぼれたその言葉には、いくつもの理由が含まれていたように思う。
どうして、僕の心をそんなにも正しく理解できるのか。
どうして、それがここに僕を呼び出した理由になるのか。
そして。
どうして僕は、勇気が出ないのか。
「……どうして、だろうな」
「ララちゃんにも、分からない?」
「君の事は、君にしか分からないよ」
だけど、と彼女は続ける。
「君がそれを知るための、その手助けを。私はするよ」
「手助け……?」
「あぁ、そうだ。何を投げうってでも、例え自分が停学や退学の危機にさらされようと」
「……あ」
そうか。そういうことか。
だからこそ、ララちゃんは今日、ここに僕を呼んだのか。
「いくら言葉で言ったところで、君はそれを信じないかもしれない。君はとても……とても、繊細だ。だから行動で示す必要があると思ったんだ」
君まで危険に晒していては元も子もないがな、とララちゃんは自嘲した。
けれど、僕は知っている。彼女が、寮から抜け出す計画の成功率を限りなく高くなるように尽力してくれている事を、僕はもう知っている。
「私は『寄り添う天才』なんて呼ばれている。……過ぎた名前だよ。私はそこまで大した人間じゃない。名前負けしていると思う事も、多々あるさ」
「そんなことは……」
「だけどね」
彼女の肩が、触れた。
薄い数枚の布越しに感じるララちゃんの肩はとても薄くて、小さくて。どうしようもなく、女性であることを感じる。それでも、彼女は頼もしい。頼もしすぎるくらいに、頼もしい。
「私はその名前を請け負うよ。名前に恥じないよう生きようと思えるから。名前に負けない様、振舞おうと思えるから。だから――――」
僕よりも小さな体で。堂々と彼女は言う。
「だから今、私は君に寄り添おう。決して君を裏切らないと、一人にしないと、私は誓おう」
凡人、奇人、変人、猿人。
秀才、賢才、鬼才、天才。
そのどれもに寄り添う彼女は、今、僕に寄り添っている。
僕の隣で、僕と肩が触れ合う距離で。すぐそばにいる。
「……それは……とっても贅沢な話だね」
「あぁそうさ。今だけは君の専属だ」
「あはは……高くつきそうだね」
「まぁオプションによるな。問題解決人生相談鬼門難問程度なら容易いが、あらゆる欲望のはけ口になって欲しいと頼まれてしまうと、私もそれなりの料金を設定する必要が――――」
「そんなお願いしないから」
「いや、こんな状況でも?」
「…………こんな状況でも」
「二秒、間があったな。あぁ、私はその二秒の間に何をされたんだろうなぁ」
「な、何も考えてないから! 変な事言わないでよ!」
「おっと静かに。夜間とは言え、大声を出すのは感心しないな」
ララちゃんの細い指先が僕の唇にあてがわれた。
それを意識した瞬間、足に腕に肩に。色々なものが当たっている事に気付き、僕は動くに動けなくなってしまう。
「さすがに今は、何か考えたな?」
「……許してください」
「くく、正直でよろしい」
「いてっ……」
僕の唇を触っていた人差し指で僕の鼻をはじくと、ララちゃんは笑った。
その笑顔はいつになく優しくて。僕はまた、彼女の手のひらの上で踊らされていたのだと悟る。
「……はぁ……全く、敵わないな」
「少しは、ほぐれたか?」
「お陰様で」
ララちゃんは、どこまで分かっているのだろうか。
彼女の慧眼は、僕の返答を、僕の心の機微を。どこまで予測し、把握しているのだろう。
なんにしても僕は、彼女との会話のお陰で、少し心が軽くなったのを感じていた。
「……ちゃんと考えるよ」
「何をだ?」
「全部、かな」
何故、夢莉さんは消えてしまったのか。
どうやって、夢莉さんは消えてしまったのか。
なら今夢莉さんのフリをしている少女は誰なのか。
僕はどうして、この事実を直視する勇気が中々出なかったのか。
そして――――。
「……ん? どうした?」
「……いや、なんでもない」
「……? まぁいい。なら、今からやるべきことは一つ。状況の整理だ。ゆっくりでいい。時間はたっぷりあるんだ。少しずつ精査していこう」
「うん」
そして僕たちは、雑談を交えながら、時にじゃれ合いながら。分かっている事、分からないことをゆっくりと整理し始めた。
結局、腕時計の短針が三と四の間に位置した頃に、僕は眠気に耐え切れず意識を手放したのだけれど。
僕の頭から一つの疑問が離れなかった。
彼女は。
ララちゃんは。
一体どこまで分かっているのだろうか、と。




