第2話 仕様書のない本番環境
視界の奥で、白い光がちかちかと明滅していた。冷えきったオフィス、机の端に転がった空き缶、キーボードをたたく乾いた音。それがふいに、木造の太い梁と、だいだい色に揺れる淡い光へとにじんでいく。
“おい、テオ! しっかりしろ!”と、荒っぽい声がした。油と金属の匂いが染みついた、硬くて大きな手のひらが背中に触れる。声の震えが、そのまま肌に伝わってきた。体がふわりと持ち上げられ、板張りの床の冷たさが遠ざかる。画面に浮かんだ『正常終了』の文字と、回路板に刻まれた魔導銀の細い線が、渦を巻いて重なり合い、やがて暗闇へと溶けていった。
◇
八柱暦4096年12月29日、光の日。目を覚ますと、見慣れた天井の梁がまっすぐに伸びていた。窓の外からは、屋根の雪が解けて落ちるかすかな水音と、石畳を行く荷馬車の車輪の音が届く。首元まで引き上げられた毛布は分厚く、体の芯までじんわりと温かい。起き上がろうとしたが、肩から先が鉛のように重く、身じろぎしただけでベッドの木枠がぎしりと鳴った。
「……気がついた? テオ」
枕元の椅子で編み物をしていた母さんが、手を止めて身を乗り出してきた。目の下にうっすらとくまが浮いている。額に当てられた手のひらが、ひんやりとして心地いい。
「よかった、熱は引いたね。まったく、どれだけ心配したと思ってるの」
「……母さん? 僕、寝てたの?」
「寝てたどころじゃないよ。昨日の明け方、作業場の床で倒れてるのをハンスが見つけたの。呼んでも揺すっても起きないし、息は荒いし、お医者さんを呼んで大騒ぎだったんだから」
「昨日……?」
「今はもう、冬至祭の前の日の昼過ぎ。丸一日半も眠りっぱなし。お医者さんは、疲れからくる熱だろうって」
丸一日半。口から出たのは、10歳の子供の少し高い声だった。けれど頭の中では、驚くほど落ち着いた考えがよどみなく巡っている。
俺はテオドール・ラングナーだ。この町ミルフェンで育ち、今年の秋に10歳になった子供。そして同時に、真壁航でもある。池袋の片隅の孫請け会社で働き詰め、29歳の暮れにデータ移行を終えた瞬間に倒れた男だ。
ふたつの記憶は、どちらかがどちらかを押し出すこともなく、頭の棚に並んでいた。不思議と混乱も恐怖もない。あのオフィスに戻ることは、もうないのだろう。どうなったのかは分からないが、終わりのない残業の日々に帰ることはない。それだけが、静かに胸に落ちてきた。
だったら、今度こそ倒れるまで働いたりしない。仕事は時間で切り上げて、温かい飯を食って、夜はちゃんと寝る。布団の中で、小さく拳を握った。
「父さんは?」
「ハンスなら、昨日の朝一番に肉屋の冷蔵箱を届けて、今は下で店を開けてる。テオが倒れたのは自分のせいだって、昨日は仕事も手につかないくらい青い顔してたんだから。……お腹すいたでしょ。薄いおかゆを作ってあるから、持ってくるね」
「うん、ありがとう」
母さんがぱたぱたと部屋を出ていくのを見送ってから、俺はゆっくりと上体を起こした。
おかゆを腹に収め、母さんが下の店に降りたすきに、子供部屋を出て居間へ向かった。まだ少し手足がだるいが、歩くのに困るほどではない。
見慣れていたはずの居間が、真壁航の記憶を通すと、まるで別の景色に見えた。
まず目に入ったのは、壁に取り付けられた魔導灯だ。ガラスの覆いの根元に、小さな真鍮のつまみがついている。指を掛けて右へ少し回すと、かちりと手応えがあって、ガラスの中がふわりとだいだい色に光った。さらに回すと、光がなめらかに強くなっていく。前世の部屋にあった、明るさを変えられる照明とまったく同じ動きだ。電線も配電盤もないのに、壁の金具ひとつで明るさを調整している。
台所の蛇口をひねると、最初は冷たい水が勢いよく流れ出て、3秒もしないうちに湯気が立ちのぼった。蛇口の手前の管に、両手で握れるくらいの金属の筒が挟み込まれていて、小さなふたの奥に魔石が収まっている。水が流れるのに合わせて魔石の力を引き出し、熱に変えているのだろう。ガス管も排気の管もない、魔術式の瞬間湯沸かし器だ。
居間の棚の上では、角を丸く削った木の箱から、弦楽器の合奏と落ち着いた男の声が流れていた。魔導ラジオだ。
『――以上、王都の中央広場から、冬至祭の前夜祭の様子をお届けしました。続いて、東部地方の天気です。今夜から明日の朝にかけて、冷え込みが一段と強まる見込みです』
音は驚くほどはっきりしていて、前世のラジオと変わらない。ただし聞くだけで、こちらからは話しかけられない一方通行の箱だ。
最後に、台所の隅の冷蔵箱の前に立った。大人の背丈ほどある両開きの扉を引くと、白い冷気が足元へこぼれてくる。中には母さんが漬けた野菜の瓶や、ゆうべの残りのスープ鍋、紙に包まれたバターが並んでいた。奥の板には拳ほどの青白い魔石がはめ込まれ、その裏に回路板が隠れているはずだ。
俺は腕を組んで、冷気の漂う箱を見つめた。
暮らしの水準が、思っていた以上に高い。石造りの町並みだけを見れば、薪とろうそくの世界に思える。けれど前世の感覚で見直すと、昭和の終わりか平成の初めくらいの家電が、当たり前のようにそろっている。
同時に、その便利さの土台に気づいて、背筋が冷えた。
誰も、この仕組みを説明できないのだ。
父さんは町でも頼りにされている修理職人だけど、直すときは「親方から教わった形」どおりに銀の線を刻み直すだけだ。なぜその線が曲がっているのか、なぜそこに渦巻きがあるのか、誰も知らない。仕様書もない。設計書もない。説明の書き込みの1行すらない。大昔に誰かが作った「なぜか動く回路」を何代にもわたって写し続け、町中の人が毎日使っている。
前世で胃を痛めた記憶がよみがえる。10年前に辞めた誰かが書いた、仕様書の1枚も残っていない古いシステム。“動いてるなら触るな”と念仏のように言われ続けた、あの本番環境。
仕様書のない本番環境の上で、町全体が暮らしているのか。
ぞっとする一方で、指先がじわりと熱くなった。見たい。回路板を開けて、銀の線の意味を1本ずつ解き明かしてみたい。元システムエンジニアの業のような好奇心が、胸の奥で膨らんでいく。
ふと、あの夜の回路板を思い出して、目を閉じた。そして、息をのんだ。薄暗い作業場で数分眺めただけの模様が、目の前に図面を広げたように浮かんでくる。左上の小さな三角形、そこから伸びる3本の線、同じ形の渦巻き、4回も同じ輪を回る線の太さまで、1本1本がくっきりと見えた。
……前世で設計図ばかり見てきたから、目が慣れているんだろうか。画面をにらみ続けてきたSEの職業病みたいなものだろう、と俺は納得することにした。
「テオ兄、なにやってるの?」
背後から声を掛けられて、肩が跳ねた。振り返ると、居間のじゅうたんの上で積み木を並べていたリリが、首をかしげてこちらを見ていた。
「なんで冷蔵箱を開けっぱなしにして、じーっと見てるの? お腹すいたの?」
「あ、いや……そうじゃなくて。庫内の冷気の循環効率というか、巡り具合をだな……」
「じゅんかん? めぐりぐあい?」
「ううん、なんでもない! ちゃんと冷えてるかなって、点検……じゃなくて、見てただけだよ」
あわてて子供らしい口調に戻したが、リリは眉を寄せて、じっと俺の顔を見つめている。
「ふーん? テオ兄、なんか話し方がおじさんみたい」
「おじさんじゃないよ」
子供の勘は恐ろしい。冷や汗をぬぐいながら扉を閉めると、リリはもう興味をなくしたのか、積み木の続きに戻っていった。
夕方、窓ガラスの端が霜で白くなり始めたころ、1階の店の呼び鈴がけたたましく鳴った。続いて、階段を駆け上がってくる勢いのいい足音。
「ただいまー! テオ、倒れたって聞いて飛んで帰ってきたよ!」
居間の扉が勢いよく開いて、エマ姉さんが飛び込んできた。騎士学校の紺色の制服姿で、肩までの明るい茶色の髪を揺らしながら、大股で歩み寄ってくる。冬至祭の休暇で、今日寮から帰ってくる予定だったのだ。
姉さんは俺の前に膝をつくと、手袋を脱いだ両手で、俺の頬を思い切り挟み込んだ。
「姉さん、いたい……」
「なんだ、顔色いいじゃない。熱は? 頭は痛くないの? 知らせを聞いたときは、心臓が止まるかと思ったんだからね!」
「もう熱は下がったよ。元気だから、手を離して……」
ぺしんと頬を軽くたたかれてから解放され、姉さんは腰に手を当てて俺を見下ろした。と思うと、じっと俺の目元を見つめて、眉をひそめる。
「……テオ、なんか顔つき変わった? 目つきが妙に落ち着いてるっていうか、ちょっと小憎らしくなったような……熱で頭でもよくなった?」
「そんなわけないよ。普通だって」
「ふーん。まあ、元気ならいいけどさ。お土産に甘い干し果物を買ってきたから、あとで食べなよ」
姉さんは俺の頭をわしゃわしゃとかき回し、自分の荷物を置きに奥の部屋へ去っていった。
危なかった。しばらくは、今までのテオらしく振る舞うことに気をつけたほうがよさそうだ。
夜、冬至祭の前夜の食卓に、家族5人がそろった。魔導灯のやわらかな光の下に、母さんが腕をふるった羊肉と根菜の煮込み、固めに焼いた黒パン、キャベツの酢漬けが並ぶ。香草のいい匂いに、空っぽの腹がぐうと鳴った。
作業着の油汚れを落とした父さんは、スプーンを手にしたまま、どこか居心地悪そうにこちらの様子をうかがっていた。
「……テオ。本当に、もう体は重くねえのか」
「うん、父さん。すっかりよくなったよ」
「そうか……すまなかったな。俺が作業場で寝ちまったせいで、お前に風邪をひかせちまった」
「父さんのせいじゃないよ。僕が夜中に勝手に起きて、毛布を掛けに行っただけだから」
ぶっきらぼうに謝る父さんの目元には、まだ疲れの色が残っている。夜遅くまで作業台にかじりついていた背中が、前世の自分と重なって見えた。父さんにこんな無理を続けさせたくない。体を壊す前に、どうにかして夜ふかしをやめさせられないだろうか。そんな思いが、胸の奥に小さく芽生えた。
「ハンスもテオも、済んだことをいつまでも気にしないの。ふたりとも無事だったんだから、今は温かいものをしっかり食べなさい」
母さんは鍋から煮込みを取り分けながら、ふうと小さくため息をついた。
「それにしても、この時期は本当に魔石の減りが早くて困るね。台所の冷蔵箱の魔石、この前替えたばかりなのに、もう半分以上減ってるの。20日ももたないなんて、お祭りでお金がいるのに魔石代がかさんで仕方ないよ」
「冬は箱の具合が狂いやすいのかもな。昔から冬の冷蔵箱は魔石を食うもんだ。そういうもんだと割り切るしかねえよ」
父さんはパンを煮込みに浸しながら、気のない声で答えた。
そういうもの、か。俺はスプーンを止めた。
おかしい。外が寒いなら、箱の中を冷やしておくのは、むしろ夏より楽なはずだ。それなのに、どうして冬に魔石の減りが早くなるのか。
あの夜の回路板が、頭の中でかちりとかみ合った。同じ渦巻きが3か所に別々に刻まれ、ひとつの輪を4回も無駄に回っていた銀の線。動かすだけで、板そのものが熱を持っていた。家の冷蔵箱の回路も、同じ作りだとしたら。冷気を作るはずの回路が自分で熱を出し、その熱を冷ますために、さらに魔石の力を吸い上げているとしたら。
前世の言葉で言えば、無駄なループのせいで処理が詰まって発熱したマシンを、冷却ファンを全開にして冷やし続けているようなものだ。それなら、魔石が20日ももたないのも当然だった。それを「昔からそういうもの」で片付けてしまうのは、あまりにももったいない。
食事が終わり、家族はそれぞれの部屋へ引き上げた。静まり返った子供部屋で、俺はベッドに腰を下ろし、自分の手のひらを見つめていた。
今すぐ作業場へ降りていきたい。台所の冷蔵箱の裏に回り込んで、回路板をじかに見てみたい。無駄なループを取り除き、余計な線を整理すれば、魔石の減りはきっと大きく変わる。母さんの小言も減るし、父さんの仕事も楽になる。
胸の高鳴りに押されて、俺は毛布をめくり、足を床へ下ろしかけた。
冷たい床板に足の裏が触れた瞬間、前世の光景がよみがえった。
午前3時半のオフィス。机に積み上がった空き缶。今夜のうちに終わらせておけば明日が楽になる、と自分に言い訳しながらキーを打ち続け、結局朝になっても終わらず、そのまま障害対応に巻き込まれて帰れなくなった夜。
……危ない危ない。
首を横に振って、足をベッドの上へ引き戻す。深夜の勢いに任せた徹夜作業なんて、不具合の温床で、過労への片道切符だ。徹夜で書いたコードがまともに動いた試しなんて、前世で一度もなかったじゃないか。
「今夜は寝る。仕事は明日からだ」
毛布を頭までかぶって、小さく声に出して自分に言い聞かせた。
明日、日が昇ってから、父さんに頼もう。家の冷蔵箱の回路を見せてほしい、と。手伝いがしたいと言えば、父さんならきっと見せてくれるはずだ。
息を吐くと、心地いいだるさが手足を包み込んでいく。温かい布団の中で、俺はまぶたを閉じた。




