第3話「古竜との決戦」
巣窟の最奥は、静かだった。音がない。風もない。松明の炎すら揺れるのをやめたような、異様な静けさ。俺たちは洞窟の闇の中で足を止め、息を殺した。それでも、感じた。
重力が違う。*
空気の密度が変わっている。まるで巨大な何かが呼吸しているかのように、洞窟そのものが微かに脈動していた。暗闇の奥から、二つの光点が浮かんだ。縦に細い、金色の瞳。それが瞬きをした瞬間、俺は理解した。あれは目だ。岩壁だと思っていたものが、全部、鱗だ。
古竜が首をもたげた。体長二十メートルを超える漆黒の巨躯。翼を折り畳んだだけで洞窟の天井に届く。尾の一振りが岩盤を削り、爪の一本が人間の腕より太い。首をもたげただけで生じた気流が、俺たちの前髪を揺らした。
「人間ども」声ではなかった。地の底から湧き出るような、重低音の振動。岩が鳴り、足の裏が痺れた。
「我を討つ気か」返事の代わりに、俺は剣を抜いた。その瞬間、古竜が息を吸い込んだ。
「散れ!」四人が同時に跳んだ。炎が来た。炎と呼ぶには語弊がある。奔流だ。洞窟の幅いっぱいに広がる、赤と橙の奔流。通り過ぎた後の地面は黒く焦げ、岩が溶けて光っていた。熱波が遅れて届き、顔の皮膚が引き攣れる感覚がした。
「リリア、翼の膜! ガルド、前衛で引きつけろ!」
「言われなくてもわかってる!」
リリアが走りながら矢をつがえ、放った。古竜の翼膜に深々と突き刺さる。薄い膜に亀裂が入り、古竜が低く唸った。続けてもう一本。また一本。矢が翼に集中するたびに、古竜の挙動がわずかに歪む。
ガルドが前へ出た。真正面から斧を叩きつける。硬い鱗の表面を削り、火花を散らす。大したダメージにはならない。わかっていてやっている。古竜の意識を前へ引きつけることが今の役割だ。それでも古竜の尾は速かった。
薙ぎ払い一閃。ガルドの体が横向きに吹き飛ぶ。岩壁に叩きつけられる鈍い音。俺は一瞬、息が止まった。
「ガルド!」
「……生きてる! 続けろ!」声だけ戻ってきた。頼もしいのか無謀なのか、わからない男だ。俺は走った。古竜の視線がガルドを追っている隙に、俺は低く身を落として古竜の右側面へ回り込んだ。爪が迫る。地面を転がって躱し、立ち上がりざまに走る。足が熱くなる。血が沸く。血統が今この瞬間を求めている。
「剣魂・覚醒——!」ヴァルドブレイドが青白い光を帯びた。父が何年かけて打ったのか知らないが、この剣はいつも俺の限界に応えてくれる。俺が本気を出すたびに、剣も本気になる。今夜は俺たちの、最大だ。
古竜が爪を振り下ろした。回避の余裕は半歩だった。刃より指一本分の距離で躱し、その気流に乗るように跳ぶ。視界に翼の付け根が入った。分厚い鱗が薄くなる、唯一の死角。
「これが——俺の剣だ!」渾身。刃が鱗を食い破り、肉を裂き、深く食い込んだ。衝撃が両腕を痺れさせる。骨に刃が触れる感覚。古竜が咆哮した。その轟音で耳が悲鳴を上げ、洞窟の天井から岩が崩れ落ちた。血が噴いた。漆黒の血が。だが、古竜は死なない。翼を広げ、俺を吹き飛ばす暴風が来た。受け止めきれず、俺は地面を滑った。手のひらが岩で削れる。それでも剣は放さなかった。
「今よ!」リリアが叫んだ。ミアが両手を胸の前で組み、低く詠唱した。瞬時に高まる熱量。魔力の渦が彼女の周囲で光る。
「インフェルノ・バースト——!」放たれた炎の柱が、先ほどの俺の斬撃跡に叩き込まれた。深く裂けた傷口に、直接。古竜が絶叫する。洞窟が揺れ、岩盤にひびが入った。リリアの矢が次々と翼膜を射抜く。翼が機能しなくなっていく。ガルドが岩壁から剥がれて戻ってきた。血が顔を伝っていたが、目が笑っていた。
「待たせたな!」斧が古竜の前脚に叩きつけられる。骨が軋む音。古竜の巨体がわずかに傾いた。
今だ。俺は立った。肩が痛い。腕が痺れている。足が笑いかけている。それでも立った。ヴァルドブレイドを両手で握る。青い輝きが、今夜一番強く燃えた。
古竜の首が俺を向いた。金色の瞳と、目が合う。その瞳の中に、初めて俺は見た。怒りではなく、驚愕が。
「剣魂の極意——龍滅の一太刀!」跳躍。最高点。首の付け根、鱗が最も薄く、急所に最も近い場所。刃を叩き込んだ。音が消えた。ただ、手の中で何かが断たれる感触だけがあった。それは確かで、重く、一度きりしかない感触だった。
古竜の動きが止まった。それからゆっくりと、恐ろしいほどゆっくりと、二十メートルの巨体が崩れ落ちていった。洞窟が揺れる。岩が落ちる。地面が波打つような振動。俺は着地し、膝が折れかけるのを意地で堪えた。
巨体が地に伏した。静寂が戻ってきた。
【古竜討伐。英雄の称号獲得】
最初に声を上げたのはガルドだった。腹の底から、洞窟中に響くような笑い声。
「やったぞ! やりやがった! この野郎ども、最高じゃねえか!」
リリアは弓を下ろし、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。いつもの皮肉な顔が、今夜だけは少し違う表情をしていた。微かに、笑っていた。
「お疲れ様」それだけだった。それだけで十分だった。
ミアが走ってきて、俺に抱きついた。小さな体で、思い切り。
「カイルさん……ありがとう。ありがとうございます……」声が震えていた。泣いているのかもしれない。俺は何も言わず、一度だけその背中に手を置いた。
宝物庫から手に入れた金貨と、古竜の素材で鋳直した新しい剣。腰に下げると、重さが心地よかった。父に報告したら、また黙って頷くだろう。それだけでいい。
洞窟を出ると、夜が明けかけていた。森に朝日が差し込む。鳥が鳴き始める。葉が光を受けて、濡れたように輝いていた。昨夜の戦いが、もう遠い夢のようだ。血の匂いだけが、まだ服に残っている。四人で並んで歩いた。
「次はどんな依頼が来るかな」ガルドが伸びをしながら言った。
「またろくでもないやつだと思う」とリリアが即答する。
「私、お腹空きました」ミアが言った。
俺は少し笑った。
「何でも来い」剣の柄を握る。ヴァルドブレイドが、朝の光の中で静かに輝く。
「俺たちは止まらない」
森の向こうで、街の鐘が鳴り始めた。新しい朝の音だった。
―終わり―




