第16話:元妻からの最後の足掻き
梅雨の晴れ間の夕暮れ時。雲の隙間から差し込む西日が、雨上がりのアスファルトを橙色に焼き、湿った空気をさらに重く停滞させていた。
一日の業務を終えた俺は、九条部長――怜奈さんと共に、オフィスビルの重厚なエントランスを後にした。
「……今日は湿度が高すぎるわね。これでは帰宅するまでに、脳のリソースの半分が不快感に削り取られてしまうわ」
怜奈さんは、一糸乱れぬスーツ姿を保ちながらも、僅かに眉を潜めて額を拭った。その仕草一つにも、会社の中では見せない微かな「隙」が混じり始めていることに、俺は静かな悦びを感じていた。
「帰ったら、すぐに冷たいお茶を淹れますよ。夕食は、さっぱりとした薬味たっぷりの冷やしうどんにしましょうか」
「……ええ、それがいいわ。期待しているわよ、佐藤君」
そんな、他愛のない、けれど何物にも代えがたい「生活の会話」。
俺がずっと守りたかった平穏が、今、この隣にある。そう確信しながら駅へと向かおうとした、その時だった。
「……まこと……誠、なの……?」
ビルの植え込みの陰から、這い出すように一人の女性が現れた。
俺は反射的に足を止めた。網膜に焼き付いたその姿に、心臓が一度、嫌な音を立てて脈打つ。
そこにいたのは、由香だった。
けれど、俺が知っている、常に華やかで自信に満ちていた彼女の面影は、どこにもなかった。手入れのされていない髪はバサバサに乾き、安物のヨレたブラウスは、何日も洗濯されていないのか、嫌な皺が刻まれている。何より、その瞳からはかつての輝きが消え、病的なまでの焦燥と依存の熱だけが宿っていた。
「誠……っ! やっぱり誠だわ! ずっと、ずっとここで待ってたのよ!」
由香は、周囲の社員たちの奇異の視線も構わず、俺の腕にすがり付いてきた。
鼻を突いたのは、かつて彼女が愛用していた香水の匂いではなく、梅雨の湿気と混じり合った、饐えたような生活の臭いだった。
「……何をしに来たんだ」
自分の声が、驚くほど低く、冷たく響くのを自覚した。
「何をって……助けてよ、誠! もう私、限界なの! あの男――間宮は、自宅待機になってからというもの、家で酒を飲んで暴れるだけで、何一つ協力してくれないのよ! それどころか、昨日……私がパートで必死に貯めた僅かなお金を持って、どこかへ消えちゃったの……っ」
由香の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。それは懺悔でも反省でもなく、ただ「自分が不利益を被った」ことに対する、醜い被害者の涙だった。
「家賃も払えない、食べ物もない……っ。あのアパート、もう電気も止まりそうなの! ねぇ、誠なら……誠なら困ってる私を見捨てないでしょ? あんたは誠実なのが取り柄だったじゃない! お願い、やり直しましょう? 私、やっぱりあんたがいないと駄目なの!」
俺の腕を掴む、その指の震え。
かつて俺が、この手を二度と離さないと誓い、十年間も守り続けてきた温もり。
けれど今、そこから伝わってくるのは、俺の「誠実さ」という名の資産を、最後まで貪り尽くそうとする、底なしの執着だけだった。
俺は、泣き叫ぶ彼女を、ただ無機質な壁を見るような眼差しで見つめていた。
かつて自分が捧げてきた全ての献身を、彼女が「退屈」という言葉でどれほど惨めに踏みにじったか。その痛みの記憶が、冷徹な防壁となって、彼女への同情を塵一つ残さず遮断していく。
「……由香」
俺はゆっくりと、彼女の指を一本ずつ、俺の腕から剥がしていった。
俺は、震える手で俺の腕を掴んでいた由香の指を、一本ずつ、剥がすように引き離した。
かつては愛おしいとすら感じていたその指先の温度が、今は不快な異物のようにしか感じられない。
「……誠、なんで……? 嘘でしょ、そんな冷たい目で見ないでよ!」
「由香。君のために使っていた俺の誠実さは、あの雨の夜、俺を追い出したあの瞬間に全部使い切ったんだ。……もう、君に捧げるものは、一滴も残っていない」
「そんな……そんなこと言わないで! 悪いところがあったなら直すから! だから、また前のみたいに……」
「前のみたいに、俺が君のわがままを全部受け止めて、家計を支えて、汚した部屋を片付けてくれるのを待っているのか? ……それは愛情じゃない。ただの依存だ」
俺の冷徹な宣告に、由香は絶望に顔を歪ませた。しかし、その絶望はすぐに醜い嫉妬へと形を変えた。彼女の視線が、俺の隣で静かに事態を見守っていた怜奈さんへと向けられる。
「……あんた、あんたのせいでしょ! この女が誠をたぶらかして、私から引き離したんだわ! あんたみたいな綺麗な人が、なんで誠なんかと一緒にいるのよ! ずるいわ、あんただけそんな良い生活して……っ!」
由香が金切り声を上げ、怜奈さんに向かって一歩踏み出そうとした。
その瞬間。それまで無機質な石像のように沈黙していた怜奈さんが、静かに、けれど圧倒的な威圧感を持って一歩前に出た。
彼女は俺を背にかばうように立ち、由香を射抜くような眼差しで見下ろした。
「見苦しいわよ。貴女のその醜態は、私の部下の尊厳を著しく傷つけているわ」
体温を一切感じさせない、氷のような声。それは社内で「鉄仮面」と恐れられる九条部長そのものの響きだった。
「……何よ、あんたに関係ないでしょ!」
「関係ならあるわ。……これ以上、私の部下を侮辱し、業務時間外の平穏を乱すというのなら。法的手段はもちろんのこと、貴女の現在の雇用先へも、相応の抗議と連絡を入れさせてもらうわ。私に、それだけの力がないと思わないことね」
怜奈さんの放つ「本物」の気迫に、由香は毒気を抜かれたように立ちすくんだ。
「彼は今、私の生活を支える大切なリソースなの。貴女のような、自分の足で立つことすらできない不合理な存在に、彼の貴重な時間を一秒たりとも割かせるつもりはないわ。……二度と、私たちの前に現れないことね」
怜奈さんの口から漏れた「私たちの前」という言葉。
それは上司としての宣言でありながら、同時に一人の女性としての、強烈な独占欲の表明でもあった。
由香はその言葉の重みに打ちのめされたように、力なくその場に膝をついた。西日に照らされた彼女の影は、どこまでも長く、そして惨めに伸びていた。
「……行きましょう、佐藤君。これ以上は時間の無駄よ」
「はい。部長」
俺は、崩れ落ちた過去の残骸を一度も振り返ることなく、怜奈さんの隣に並んで歩き出した。
駅へ向かう雑踏の中、彼女は前を向いたまま、周囲に聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「お疲れ様。……気分は、どうかしら」
「……不思議と、晴れやかです。俺を守ってくれて、ありがとうございました。……怜奈さん」
「当然のことをしただけよ。……さあ、早く帰りましょう。お腹が空いたわ」
彼女の歩幅が、俺のそれに寄り添うように僅かに緩まる。
過去の亡霊を完全に振り払い、俺たちは今、自分たちの「清潔な居場所」へと続く道を、確かに踏みしめていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
下方の【評価(★★★★★)】や、ブックマーク等で応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
何卒、よろしくお願いいたします!




