第三百二十三話:公安の影、父の決意
レンが不気味な予告を残して去った後、私には息つく暇もなかった。日本の公安当局は、レンとは別のベクトルで、静かに、しかし着実に、私たちへの包囲網を狭めていた。彼らは、私の両親への接触を強化し、心理的な圧力をかけ始めていたのだ。
「奥さん、旦那さん」
都内某所の、セキュリティが厳重な庁舎の一室。公安の担当官――初老の、切れ者といった風貌の男――は、私の両親を前に、丁寧な口調だが有無を言わせぬ圧力で語りかけた。テーブルの上には、監視カメラが捉えたケイレブ様やゴークの姿、そして【らーめん頑徹】周辺の不審なエネルギー反応を示すデータが並べられている。
「娘さんの莉奈さんは、現在、我々が把握している限り、国家の安全保障に関わる、極めて重大な事案の中心人物となっています。彼女が関与している『扉』…異世界との接点は、使い方を誤れば、この国を、いえ、世界を未曾有の危機に陥れかねない代物です」
担当官は、一枚の写真をテーブルに置いた。それは、ケイレブ様とゴークが日本の街を歩く、明らかに警戒心を抱かせるような構図で隠し撮りされた写真だった。
「彼女の『仲間』と称する異世界の者たちも、我々の常識を超えた力を持つ、潜在的に危険な存在である可能性が高い。このままでは、娘さん自身の身も、そして我々国民の平和な生活も危うい。どうか、我々に協力していただけませんか。娘さんを、そしてこの国を守るためです。彼女が持つ情報…特に、『レン』と名乗る男についての情報を、我々は必要としているのです」
それは、国家の安全という大義名分を盾にした、巧みな誘導であり、脅迫だった。両親は、娘の身を案じる心と、国家への義務感との間で、激しく引き裂かれていた。
その夜、斎藤家のリビングは、これまでにないほど重い沈黙に包まれていた。母は、不安に涙ぐみ、ただ私の無事を祈るばかりだった。父は、黙って、公安から渡された資料と、娘の写真が載ったグルメ雑誌のページを、何度も何度も見比べていた。
「……どうすればいいんだ、私たちは。莉奈のために、国のために、何をすれば……」
母のか細い声が、静寂を破る。
父は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、数日間の苦悩を経て、一つの覚悟を決めた男の、静かで、しかし鋼のような決意だけが宿っていた。
「……俺たちが、莉奈を守る」
「あなた…?」
「国に協力するふりをする。だが、情報は渡さない。むしろ、俺たちが国から情報を引き出し、それを莉奈に伝えるんだ」
父は、立ち上がると、クローゼットの奥から、長年使っていなかった古いアマチュア無線の機材一式を引っ張り出してきた。若い頃の趣味だったそれは、今や彼の唯一の武器だった。
「幸い、俺には少しばかり、こういうものの心得がある。当局の監視の目を欺きながら、莉奈と連絡を取る手段を見つけ出す。あいつらが知らない、俺たちだけの秘密の通信をな。危険な賭けだが、やるしかねえ。あいつには、異世界の仲間がいる。だが、この世界で、あいつを守れるのは、俺たちだけなんだから」
それは、ごく平凡なサラリーマンである彼にとって、人生最大の、そして最も危険な決断だった。愛する娘のために、そして、まだ見ぬ異世界の仲間たちの未来のために、彼は国家という巨大な組織を相手に、孤独な情報戦を挑むことを選んだのだ。彼の書斎の窓の外では、東京の無数の灯りが、まるで彼の覚悟を試すかのように、冷たく瞬いていた。




