第二百九十九話:ドルフとケイレブのガード下
「―――で、ここが親方の故郷か!思ったより静かで、つまらねえ場所だな!」
安宿の狭い部屋の扉が、地響きのような音を立てて開かれた。そこに立っていたのは、屈強な肉体に似合わぬ窮屈そうなTシャツ(ミーシャが見立てたものだ)を着た、円卓会議のご意見番、ドルフさんだった。彼は、ようやく魁人の許しを得て、最後の増援として日本へとやってきたのだ。
「ドルフさん!静かにしてください、夜中なんですよ!」
「ハッ!夜こそが冒険者の時間だろうが!」
彼の、魔力を含まないただの地声が、薄い壁を震わせる。案の定、隣の部屋からドン、と壁を叩く音がした。
その日の午後。街の視察と称して私たちが慎重に行動計画を練っているのをよそに、ドルフさんは完全に退屈しきっていた。
「おい、ケイレブ!いつまでこんな狭い部屋で地図なんぞ睨んでるんだ。俺たちのやり方で、この街の『心臓部』とやらを確かめに行くぞ!」
ドルフさんが目をつけたのは、前日のケイレブ様だった。彼は有無を言わさずケイレブ様の肩を組むと、「男二人、酒でも酌み交わしゃあ、どんな国の魂だって分かるもんだ!」と、街の喧騒の中へと繰り出していった。
二人がたどり着いたのは、鉄の軌道(線路)が頭上を走る、薄暗く、しかし熱気に満ちた一角――ガード下の居酒屋だった。赤提灯がぼんやりと灯り、肉の焼ける香ばしい煙と、人々の陽気な笑い声が渦巻いている。
「ククク……いいじゃねえか。ギルドの酒場みてえで、落ち着くぜ」
ドルフさんは、初めてこの世界で心からの笑みを浮かべた。
二人はカウンターの隅に陣取ると、言葉も通じぬまま、指差しとジェスチャーで生ビールと焼き鳥を注文した。キンキンに冷えた黄金色の液体を、ドルフさんはジョッキで一気に煽る。
「うめえ!喉を焼くような冷たさ!最高だ!」
ケイレブ様もまた、静かに、しかし興味深そうに、その未知の飲み物を味わっていた。
だが、ドルフさんの上機嫌は、長くは続かなかった。
隣の席に座っていたのは、揃いの黒い服を着た、仕事帰りらしき男たちの集団だった。彼らは、酒を飲みながら、上司であろう人物への不満を口々にこぼしている。
「だから、部長のあの判断はありえないって…」
「まあまあ、飲めよ。明日からまた戦わなきゃならんのだから」
その光景に、ドルフさんは眉をひそめた。
「なんだ、あいつら。まるで軍隊みてえな揃いの服を着てやがるが、随分と弱気じゃねえか。気に入らねえ上官がいるなら、殴り飛ばして、自分がその座を奪っちまえばいいだろうが」
彼の、あまりにも単純明快な価値観。
その言葉を、ケイレブ様は静かに否定した。
「……議長。彼らもまた、戦士です」
「ああん?」
「見てください」ケイレブ様は、男たちの疲れた顔を指さした。「彼らの顔には、魔物と戦った後のような、誇り高い傷はありません。ですが、その代わりに、目に見えない敵と一日中戦い抜いてきた、深い疲労の色が浮かんでいる。彼らの戦場は、我々とは違うのです」
ケイレブ様は、交番で出会った警察官と、この男たちの姿を重ねていた。
「彼らが守っているのは、城壁や国境ではない。会社という名の小さな城であり、家族という名の、かけがえのない民です。そのために、彼らはプライドを殺し、理不尽に頭を下げ、明日もまた同じ戦場へと向かう。それは、我々の知るどの戦いよりも、孤独で、そして気高い戦いなのかもしれません」
その、あまりにも詩的な考察に、ドルフさんはぐっと言葉に詰まった。
ちょうどその時、隣の男たちの一人が、勘定を済ませて席を立った。千鳥足の彼が、ふらりとよろめき、ドルフさんの背中にぶつかる。
「おっと、すいやせん…」
男は、呂律の回らない口で謝ると、そのまま店を出ていこうとした。
「待て」
ドルフさんの、低い声が響く。男はびくりと肩を震わせた。
ドルフさんは、男が落とした財布を拾い上げると、ぶっきらぼうに突き出した。
「……落としたぜ。しっかりしろい、この若造が」
それは、ドルフさんなりの、不器用な気遣いだった。
財布を受け取った男は、一瞬きょとんとした顔をしたが、次の瞬間、その場に崩れるように、これまで見たこともないほど深く、そして美しい角度で、頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!ご迷惑をおかけしました!」
その、完璧なまでの感謝と謝罪の所作。そこには、ただの酔っ払いではない、この国の文化に深く根ざした、揺るぎない「礼節」と「誇り」があった。
ドルフさんは、その光景に、まるでカウンターパンチでも食らったかのように、呆然と立ち尽くしていた。
安宿への帰り道、ドルフさんは一言も喋らなかった。
彼は、窓の外に広がる、無数のビルの明かりを見つめていた。その一つ一つの光の中に、今日出会った名もなき戦士たちの、ささやかな食卓がある。
彼は、まだ理解はできなかった。だが、感じ始めていた。
この世界を守っている「強さ」とは、決して、斧の一振りで測れるような、単純なものではないということを。
彼の、この世界に対する、本当の旅が、今、静かに始まろうとしていた。




