第二百八十二話:ミーシャの聖女録
街は、莉奈を元気づけたいという一つの善意の熱狂に包まれていた。ドルフさんが企画した「大師匠を元気にするための大宴会」は広場を陽気な喧騒で満たし、人々は「聖女様もこれを聞けば元気になるはずだ」と信じて疑わなかった。しかし、その熱狂の中心地であるはずの【ラーメン処 聖女の厨房】だけが、固く扉を閉ざし、静寂に沈んでいた。
ミーシャは、店の二階にある事務所で、一人帳簿と向き合っていた。だが、彼女のペンは動かない。窓の外から聞こえてくる陽気な音楽と、階下の火の消えた厨房の冷たい沈黙。そのあまりにも大きな隔たりが、彼女の心を苛んでいた。
(違う……これじゃない……)
ドルフさんたちの善意は痛いほど分かる。だが、莉奈さんの苦しみは、そんな単純なものではない。ミーシャは、誰よりも近くで莉奈の戦いを見てきたからこそ、その直感を信じていた。
店の蓄えは日に日に減っていく。莉奈さんが戻ってきた時に、この場所を守り切れるのか。経営者としての不安と、友人としての無力感に押しつぶされそうになった、その時だった。
彼女の視線が、帳簿の隣に置かれた、もう一冊の分厚い革張りの手帳に落ちた。
【聖女様の御言葉録】
それは、莉奈がこの世界でラーメンを作り始めてから、ミーシャが几帳面に記録し続けてきた、奇跡の記録。レシピだけではない。その一杯が、いつ、誰を、どのように救ったのか。その時の莉奈の言葉、食べた人々の笑顔まで、克明に記されている。
ミーシャは、その手帳の最初のページを、震える手でめくった。
『―――氷壁の騎士ケイレブ様、初メテ聖女様ノ御業ニ触レル。「……あたたかい……」ト呟キ、涙ヲ流サル。ソノ一杯ハ、彼ノ凍テツイテイタ魂ヲ、ソノ奥底カラ温メタノダ。』
ページをめくる。革命の炎が街を焼いた、あの夜。
『―――領主ソラム打倒後、広場ニテ「復興ラーメン」ノ炊キ出シ。身分ノ違ウ人々ガ、一ツノ鍋ヲ囲ミテ笑イ合ウ。聖女様ハ言ワレタ。「温カイモノヲ食ベレバ、人ハモウ一度、顔ヲ上ゲラレルンデス」ト。』
ミーシャの手は止まらない。冒険者たちのために作られた、ニンニクと力がみなぎる味噌ラーメン。神殿での試練の果てに、水と塩と麦だけで創り上げた魂の一杯。神饌ラーメンを創るために、街全体が一つになったあの日。
一つ、また一つと記憶を辿っていくうちに、ミーシャは涙を流していた。そして、彼女はついに、その全ての物語を貫く、たった一つの真理にたどり着いた。
これは、奇跡の記録などではなかった。
これは、莉奈という一人の料理人が、どれだけ多くの人々のために、その魂を、一杯一杯のスープに溶かし込んできたかという、あまりにもおびただしい「与え続けた」記録だったのだ。
「……そうか」
ミーシャの唇から、嗚咽に混じった声が漏れた。
「莉奈さんは、ずっと、与え続けてきたんだ。お腹を空かせた人に、力を。絶望した人に、希望を。そして、孤独な神様にさえ、温もりを……。ずっと、ずっと、自分の心を削って、みんなに分け与えてきたんだ」
ペンが、彼女の手から滑り落ちる。
「だから、今、莉奈さんの心が……空っぽになってしまったんだ……!」
その瞬間、外の喧騒が、ひどく虚しいものに聞こえた。宴会も、美しい花も、今の彼女には届かない。空っぽの器に、これ以上何かを注ぐことなどできないのだから。
ミーシャは、涙を拭うと、決意を固めて立ち上がった。
今、自分たちがやるべきことは、ただ一つ。
空っぽになった彼女の心を、今度は自分たちが、温かいもので満たしてあげること。
ミーシャは、御言葉録を胸に抱きしめ、事務所を飛び出した。ドルフさんたちに、本当の「処方箋」を届けなければならない。
それは、街の誰もが気づかなかった、莉奈の魂の、静かなる悲鳴の代弁だった。




