第56話 佳穂の旅立ち
優梨たちは茫然と玲の事を見つめた。それほど、彼から発せられた言葉は衝撃的だった。優梨はぎこちない動きで佳穂の方を振り向いた。
「……留学?」
「そうよ」
「……どこに?」
「アメリカよ」
「アメリカ!?」
リビングルームに優梨の声が大きく響いた。優梨の声で、他の皆はハッと我に返って佳穂の方を向いた。
「えっと……ちなみに、出発は?」
優梨が聞くと、佳穂は少しだけ表情を暗くした。
「……今度の日曜日よ」
「今度の日曜日って……もう残り少ないじゃない!」
指折り日数を数え、その少なさに葵は驚愕の声を上げた。
「何で黙っていたの?」
呆れ交じりの声で紗奈が聞くと、佳穂は大きなため息を吐いた。
「言われたのは、朔夜の言う通り学園祭の前日の呼び出しよ。優梨と紗奈なら、側で見ていたから知っているはずよ」
「確かに見かけたけれど……でも、何だか時期も中途半端じゃない?」
「先生が言うには、アンジュたちと交換で向こうに行った生徒の1人が、家庭の事情で帰国しなきゃいけなくなったらしいの」
「そういえばアンジュとアレックス君って、交換留学制度でこっちに来たんだっけ」
今ではすっかりクラスに馴染んでいるアンジュとアレックスが、留学生としてこの秋にクラスに来たことを改めて皆は思い出した。
「この交換留学制度、結構人気みたいなのよ。それで時期は中途半端になってしまうけれど、せっかく空いた枠をそのままにするのはもったいないって、先生たちの間で意見が出たみたいよ」
「でも、何で佳穂に話が? 留学の希望者なら、英語科のクラスにいっぱいいるのに……」
「なんでも、空いた枠が推薦枠らしくて、優秀ならクラスに関係なく推薦できるみたいよ。それで、1年の終わりに出した進路希望で私、外資系の仕事を書いていたの。それを覚えていた桜先生が、私を推薦したらしいのよ」
1年の終わりに進路希望の事は優梨たちも覚えている。しかし、それぞれが何を書いたかはよく知らず、初めて知る佳穂の希望を聞いて優梨たちは目を丸くした。
今度は朔夜と玲が話し始めた。
「先生たちの協議の結果、あの日に新たな留学生の第1候補に佳穂が決定し、早々に佳穂に伝えられたらしい」
「俺たちが調べられたのはここまでだ」
「しかし、これだけが原因で慶人の言う“暗示”が解けるほどの理由になるとは思えない」
「何か他に理由があるんじゃないか? 佳穂」
玲にそう言われ、佳穂は視線を泳がせた。しかし、その場にいる全員で見つめていると、観念したように肩を落とした。
「あの時、先生が――」
佳穂は思い出しにくそうにしながらも、ゆっくりと話し始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あの日、佳穂を呼び出した教師は、佳穂が来ると教室から少し離れた場所に移動した。
『先生、話とは……?』
『今期の交換留学生の1人が急遽、帰国することになった。その枠は推薦枠だったんだが、増谷先生がお前を推薦した』
そう聞かされ、佳穂は驚きに目を見開いた。
『桜、いえ、増谷先生が私を? ですが、私は英語科の生徒でもなければ、留学希望もしていません』
『増谷先生が言うには、お前は1年の最後の進路調査で外資系を希望したらしいな?』
『はい……』
『それなら、一度は留学をしてもいいんじゃないかと増谷先生が言っていた。それで他の先生方とも話し合い、お前が今のところ第一候補だ』
佳穂は驚きのあまり言葉を失っていた。すると、目の前の教師はどこか不服そうに肩を竦めていた。
『正直、私は反対なんだ』
『えっ……?』
『確かに久乃木は優秀かもしれないが、模範的な生徒とは言い難いからな』
本人を目の前にして何を言い出すのかと佳穂は思った。ただ、ここで何か言えば余計にこじれてしまいそうで、佳穂は何も言わずグッと我慢した。そんな佳穂の様子に気付かず、教師は言葉を続けた。
『だが、お前はまだ比較的まともだとは思う。特に汐崎や大野、日向、加村や須藤に比べたらな』
『…………』
『留学の件はほぼお前で決定している。本決定したら、あとはお前次第だ。だが行く気があるなら、付き合う人間を選んだ方が良いぞ』
『……どういう、意味ですか?』
佳穂は教師に対する嫌悪を精一杯抑えながら聞いた。教師はフンッと鼻で笑ってさらに話した。
『私を始め、汐崎たちと付き合うお前を推薦枠で留学させることを疑問に思っている先生はいる。その先生たちを納得させたいなら、汐崎たちとは距離を置くのが賢明だと言っているんだ』
『……何故、先生にそこまで言われなければ……』
握りしめた手が震えた。滲んでくる涙を抑え、佳穂は教師の顔を見つめた。そんな佳穂を教師は眉をひそめて見下ろした。
『留学を決定する時に、そのことが問題になる可能性があると言っているんだ。こちらで問題があったと留学先に知られた場合、先方から断られる可能性だってあるんだ。あちらは、推薦枠の留学生はより優秀で模範的な生徒を望んでいるからな』
『…………』
『時間はある。よく考えなさい』
教師はそう言い残し、その場からいなくなった。佳穂はフラフラと壁に寄りかかり、そのまま座り込んでしまった。そして、頭の中を教師の言葉がいつまでもグルグルと巡っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
佳穂の話を聞き、優梨たちは唖然としていた。
「あの先生、そんなこと思っていたんだ……」と優梨。
「名指しの基準が完全に髪の色だね……」と咲緒理。
「関わり合いが少ないとはいえ、ものすごくムカつく……」と葵。
教師の例に挙げられていた優梨たち3人は不快感を隠さず、表情にはっきりと表れていた。一部の教師からの評価が良くないことは知っていたが、そこまでの事を言われるほどだったとは思ってもいなかった。
佳穂は肩を落とし、膝の上で握りしめた手を見つめていた。
「……それからずっと考えていたわ。でも、頭の中はぐちゃぐちゃで、些細なことにものすごく苛立った。気付いた時には、心の奥底に隠したはずの“自分”が出てきていたのよ……もう一度隠そうとしても、今まで考えないようにしてきた色々な事が浮かんできた……」
佳穂は自嘲したように笑い、優梨に目を向けた。
「優梨。あなたとダイニングルームで話したあの日に、もう無理だと思ったわ。もう我慢することも隠すこともできないって……もう戻れないって気付いたのよ」
「…………」
「そうしたら、留学に対する悩みは消えたわ。次の日には、私に本決定したことを聞かされて、その場で返事をしたのよ。話を受けるって……」
留学が決まるまでの経緯はこれで理解できた。しかし、優梨たちにはまだ疑問が残っていた。
「それで、先生の言う通りに私たちから距離を置いたの?」
聞いたのは優梨だった。
「それもあったけれど、何よりも本当の自分に戻ったらあなたたちの言動に正直苛立って……でも今までの事もあるし、これ以上揉めたくなかったのよ。だから適度に距離を置いて、それから向こうに行こうと思っていたのよ」
「黙って行くつもりだったのか?」
慶人がそう聞くと、佳穂は首を横に振った。
「直前になったら言うつもりだったわよ。全部本当のことを話して……その前に、優梨たちに乗り込まれてしまったけれど」
佳穂が苦笑しながら優梨たちを見ると、優梨たちは戸惑ったように互いを見合った。
「……でも、少しスッキリしたわ。これで心置きなく行けるわ」
佳穂はそう言い、穏やかな笑みを浮かべた。一方で優梨たちは悲しそうな表情を浮かべた。
「どれくらい行くつもりなの?」
「分からないわ。本当は1年の留学を、2年の長期型に変えてもらったし……大学もアメリカで進学するつもりよ」
「もう帰ってくるつもりはないの?」
「……いつかは帰るかもしれないわね。逆に帰ってこない可能性もあるわ。それは、今はまだ分からない。もしかしたら、早々に帰ってくるかもしれないし……私自身、どうなるか見当もついていないのよ。でも、今はとりあえず2年以上は行くつもりよ」
「…………」
「誰も私を知らない場所で、誰にも縛られないで、自由にやってみたくなったのよ。それこそ、本当に何もかも忘れてね」
佳穂の言葉に優梨たちが泣きそうになっていると、それを見た佳穂は苦笑した。
「なに泣きそうになっているのよ」
そう言うと、優梨が震えそうになる声を抑えて話し出した。
「だって……そんな急にいなくなるなんて……」
「なにも死ぬわけじゃないのよ。俊哉さんと連絡して、俊哉さんの後見は変わらず受けることになっているし、連絡だっていくらでも取れるわよ」
「でも、もうこの家からはいなくなるんでしょう?」
「……そうね。正直、もう一緒に暮らせないと思うわ。だって私とあなたたち、こんなにも考えが違い過ぎるんだもの」
「それでも、いなくなるのは寂しいよ……」
「……最近の私、大分あなたたちの事を怒らせたみたいだから、もうとっくに嫌われていると思ったんだけれど」
自嘲するように言うと、優梨は思い切り首を横に振った。
「確かにものすごくムカついたし、すごく怒っていたけれど……嫌いになんてなっていない。ただ、本当の事を聞いて、仲直りしたかった……また、元通りに一緒に過ごしたかっただけ……」
チラッと優梨の後ろにいる皆に目を向けると、優梨の言葉に同意するように頷いていた。
「(こんな私を許すだなんて、本当にあなたたちは甘いんだから……)」
そう思いながらも、佳穂はどこか安堵したような笑みを浮かべた。そんな佳穂の気持ちを知らずに、優梨は佳穂へ話しかけ続けた。
「……でも、佳穂は行きたいんだよね?」
「そうね」
「佳穂にとって、すごいチャンスなんでしょう?」
「そうよ」
佳穂の答えを聞き、優梨は顔を上げて泣き笑いを浮かべた。
「……それなら行って。チャンスを掴んで。……ずっと、日本から応援しているから」
「……ありがとう」
そう言って笑う佳穂は、優梨たちが今まで見てきたどの笑顔よりも、ずっと輝いているように見えた。
その後の数日間は、それまでの不穏さが嘘のように穏やかだった。
佳穂は相変わらず優梨たちとはあまり関わろうとしなかった。しかし、唯一夕飯だけはまた一緒に食べるようになった。佳穂の口数は少ないけれど、お互いに色々とぶつけ合ってわだかまりが無くなったのか、よく笑って話すようになった。その笑顔が、今までずっと抑え込んでいた何かが無くなったおかげで表れた、佳穂本来の笑顔なのではないかと優梨たちは思った。
金曜日には佳穂の留学が学校中に知らされ、何も知らなかった生徒たちに衝撃を与えた。翌日の半日授業がある土曜の1限はLHRで、桜先生の計らいで送別会が行われた。4限後には色々な人がやって来て佳穂のとの別れを惜しんだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして日曜日がやって来た。空港への見送りは優梨たちだけが来ている。俊哉は仕事で来られず、前日のうちに家にやって来て佳穂に会っている。
「元気でね、佳穂」
「えぇ」
優梨が言うと、佳穂は笑顔で頷いた。
「風邪ひかないようにね。体に気を付けてね!」
「えぇ。葵もね」
目に涙を浮かべて手を握りしめながら葵が言うと、佳穂も握り返した。
「住所、あとで教えてね」
「分かったわ」
「向こうの人とも仲良くね」
「頑張るわ」
咲緒理と紗奈にも笑顔で答えた。
「何か困ったことがあれば連絡をしろよ。俺と俊哉さんで、できるだけの協力はする」
「ありがとう、慶人」
「何か日本の物で欲しい物があった時も連絡をして。送るから」
「ありがとう、誠史」
「スマホにアメリカに行った時に注意すべき点や、学校周辺の便利な店をまとめた物を送っておいた。良かったら利用してくれ」
「ありがとう、玲。助かるわ」
「俺は特別に極秘の『オリジナル野菜ジュース』のレシピを送った。向こうで作ると良い。悩みのタイプ別に色々とまとめておいたからな」
「あ、ありがとう、朔夜……改良して作るわね」
「怪我とかには気を付けて。無理はするな」
「気を付けるわ、雅樹」
慶人たちが次々に佳穂に声を掛け、最後に匡利が残った。匡利は無表情のまま佳穂を見下ろし、手に持っていた何かを差し出した。
「これは……」
「前にお前が気に入っていた本だ。飛行機の中や向こうで読むと良い」
「ありがとう、匡利」
「……頑張れよ」
「えぇ」
匡利から本の入った袋を受け取り、それを鞄の中にしまった。2人のそのやり取りを少し離れた場所から優梨はジッと見つめていた。その表情はどこか浮かなかった。
優梨の視線に気付かず佳穂は時計を見ると、もう一度優梨たちの方に顔を向けた。
「そろそろ行くわね」
「うん……佳穂」
「ん?」
「……いってらっしゃい」
優梨がそう言うと、佳穂は一瞬だけ驚いたような顔をした。そして、すぐに微笑んだ。
「――いってきます」
佳穂はそう言って、一度だけ大きく手を振っていた。
佳穂が行ってしまうと、優梨たちは急いで外へ出た。フェンス越しにアメリカに向かう飛行機が見えた。
出発の時刻になると、飛行機は時間通りに動き出した。やがて離陸し、大空の向こうへと飛び去ってしまった。その姿が見えなくなるまで、優梨たちは無言のまま見つめていた。
「……行っちゃったね」
「うん」
優梨には咲緒理と紗奈がそう話すのがやけに大きく聞こえた。ふと、視界の端に空を見上げる匡利の姿が映った。その表情がどこか悲しそうに優梨は見えた。
「(やっぱり、匡利は佳穂の事……)」
そう思いながら見つめていると、優梨の視線に匡利が気付いた。
「なんだ?」
「えっ? ううん! 別に……」
匡利に聞かれ、大慌てで答える優梨を見て、葵と咲緒理と紗奈がクスッと笑っていた。そのうち慶人が「帰るぞ」と言って、優梨たちは空港を後にした。
こうして、佳穂はアメリカへと旅立っていった。
その後、佳穂は一時帰国をした際に優梨たちに会うことはあったが、また優梨たちが住むあの家へと帰ってくることは、二度となかった……――
ここまで読んで下さりありがとうございました。
今回の話でこの章は終了です。
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以下は、今回の章に関しての作者の独り言です。
ご興味がある方は、ぜひご覧ください。
この佳穂が離脱する展開は、この小説を書き始めた当初から決まっていた事でした。
主人公たちはとても仲が良いですし、互いを支え合っています。
でも、全員が全員同じ気持ちかどうか、誰か一人は違う考えの人がいてもおかしくはないんじゃないか……
そして、その違う考えの“誰か”が他の皆とずっと一緒にいられるのか……
それを考えた末にこの“佳穂”というキャラクターができ、いつか離れてしまうことも決まっていました。
だからこその行動を敢えてとらせたりもしていました。
そして、今回の章へとたどり着きました。
この話を最後に、佳穂の登場はほとんどなくなります。
時々登場させることはあるかもしれませんが、それも僅かになると思います。
佳穂は抜けてしまいましたが、優梨たちの話はまだまだ続きます。
彼女たちのこれからを、どうか見守っていただけると幸いです。
蒼月憂




