北野大茶湯(上) 利休は、自分で作った入口で頭を打つ
一五八七年 秋 京 聚楽第
聚楽第は、やはりまぶしかった。
兄が京に建てた屋敷だ。屋敷というより、城だった。堀を巡らせ、石垣を積み、その上に、金箔を貼った瓦がずらりと並んでいる。秋の日が当たると、屋根じゅうが光って、目を細めないと見上げられなかった。夢の中の俺が目を覚ましたときには、もう建っていた屋根だ。
「どうじゃ、小一郎。聚楽とは、楽しみを聚めると書くのじゃ」
兄は、門の前で両手を広げてみせた。九州から戻って、まだ間もない。博多の砂糖菓子は、まだ兄の懐にあった。
この日は、聚楽第の奥の茶室で、兄の茶会が開かれることになっていた。客は、俺のほかに、大名が四、五人。茶を点てるのは、千利休だった。
茶室の入口は、膝をついてやっと通れるほどの、小さな四角い穴だった。躙口というのだと、秀長の記憶が教えた。刀を外し、頭を下げ、這うようにしてくぐる。中では、どんな大名も同じ低さになる。利休が考えたものだという。
俺の前を、背の高い男がくぐろうとしていた。黒い十徳を着た、年寄りだった。肩幅が広く、手が大きい。膝をつき、身をかがめ、大きな体を折りたたむようにして、穴に入れた。
ごつん、と音がした。
男は、穴の縁にぶつけた頭を手で押さえたまま、しばらく動かなかった。それから、何事もなかったような顔で、するりと中へ入っていった。
うしろで順番を待っていた大名が、小声で俺に言った。
「あれが、宗易殿でござる。ご自分でお考えになった入口で、毎度、頭を打たれる。場を和ませるための、わざとかもしれぬ」
千利休だった。俺にはどう見ても、わざとには見えなかった。
茶室の中は、薄暗かった。二畳ほどの狭さに、客がひしめき合って座る。床の間には、花が一輪だけ活けてあった。金の瓦の屋敷の中に、ここだけ、色がなかった。
利休は、炉の前に座って、黙って茶を点てはじめた。大きな手が、茶筅を細かく動かした。額の真ん中が、少し赤くなっていた。
内科医の目が、利休の顔を見た。手の震えはない。背は高いが、肥えてはいない。ただ、目の下に、少しだけくまがある。眠りが浅いのかもしれない、と俺は思った。
1591年、春。千利休、切腹。
年表の行が、頭に浮かんだ。いずれ、兄はこの男に腹を切らせる。
◇
茶のあとに、膳が出た。
兄は、上機嫌だった。聚楽第の自慢をし、九州の自慢をし、博多の砂糖菓子の自慢をした。それから、徳利を取って、俺の前に差し出した。
「小一郎。聚楽の祝いじゃ。今日ばかりは、飲め」
大名たちの目が、俺に集まった。
郡山でも、佐土原でも、酒は断ってきた。だが、ここは兄の茶会で、客は大名たちだ。皆の前で天下人の酒を断れば、兄の顔に泥を塗る。博多で一度だけ否と言った。二度目は聞かぬ、と兄は言った。
俺が盃を取りかねていると、炉の前から、低い声がした。
「殿下」
利休だった。
「茶の席の酒は、亭主の決めることや。今日の亭主は、手前ですよって」
兄の手が、徳利を持ったまま止まった。
「おい利休。天下人は、わしじゃぞ」
「そう言わんと。茶室の中では、天下人も、膝をついて入りますやろ」
利休は、そう言うと、茶碗を一つ取って、もう一服、茶を点てはじめた。点て終えると、その茶碗を、俺の前に置いた。
「羽柴様には、酒の代わりに、これがええわ。茶は、もともと薬ですさかい。唐の国から茶を持ち帰った坊様も、茶は養生の薬やいうて、書き残しておられますのや」
兄は、しばらく利休をにらんでいた。それから、ふん、と鼻を鳴らして、徳利を自分の盃に傾けた。大名たちが、そっと息を吐いた。
俺は、利休の点てた茶を飲んだ。苦かった。その苦さの奥に、かすかな甘みがあった。
茶会のあと、俺は利休を追いかけて、廊下で呼び止めた。
「宗易殿。先ほどは、助かりました」
「手前はなんもしてまへん。それより、白湯の大将やいうて、京でもえろう噂になってますで」
利休は、表情を変えずに言った。
「手前も、夜はよう眠れん質でしてな。酒を飲むと、余計に目が冴えますのや。羽柴様のお気持ちは、ちょっとは分かりますさかい」
利休は、そう言って、軽く頭を下げた。下げたついでに、廊下の低い鴨居に、額をぶつけた。
◇
ほどなく、兄が皆を集めて、言った。
「北野の天満宮の森で、大茶会を開くぞ。十日のあいだじゃ」
兄の手には、高札の写しがあった。九州の陣のさなかに、京と奈良と堺に立てさせておいたのだという。
『茶の湯の好きな者は、身分を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、飲み物一つを持って、北野の森へ来い。茶がなければ、こがしでもよい。』
「町の者も、百姓も、誰でも来てよいことにする。わしが、自ら茶を点ててやる。黄金の茶室も、運ばせる」
大名たちが、口々に兄の器の大きさを褒めた。その輪の外で、利休だけが、黙って座っていた。黄金の茶室、と聞いたとき、利休の大きな手が、膝の上で、ほんの少しだけ握られたのを、俺は見た。
俺は、膝の上の扇を握りしめていた。
北野大茶湯か。歴史の本では、たしか一日で終わっていたはずだ。兄は、十日のあいだ開くと言った。それなのに、たった一日で終わる。その一日のあいだに、何が起きたのか。俺には、まるで分からなかった。
一五八七年 晩秋 京 北野
北野の森は、人で埋まっていた。
松の木の下に、茶席が並んでいる。大名の茶席もあれば、筵を一枚敷いただけの茶席もあった。釜の代わりに鍋を据えた者、茶碗の代わりに欠けた椀を並べた者。こがしの粉を湯で溶いて、得意げに差し出している百姓までいた。茶席の数は、八百とも千とも言われた。
兄は、朝から上機嫌だった。黄金の茶室で客に茶を点てると、立ち上がって、森の茶席を見て回りはじめた。
「どれ、わしにも一服、飲ませてみよ」
兄は、町の者の茶席に上がりこんで、出された茶を飲んだ。百姓の茶席に上がりこんで、こがしを飲んだ。
「その茶碗でよい。そのまま飲ませよ」
茶席の主たちは、天下人が自分の椀から飲んだことに、腰を抜かさんばかりに喜んだ。兄は、それがうれしくて、次の茶席に上がりこんだ。
十何杯目かの茶席を出たところで、俺は兄の袖を引いた。
「兄者。茶も、飲みすぎれば体に障ります。そろそろ、黄金の茶室へお戻りくだされ」
「何を申すか。百姓が、わしのために、こがしを溶いて待っておるのじゃぞ。わしも、百姓の子じゃ。百姓の茶を断れるわけなかろうが」
兄は、俺の手を振り払って、次の筵の上に上がりこんだ。筵の主は、欠けた椀を両手で差し出しながら、泣いていた。兄は、それを飲み干して、主の肩を叩いた。
松の木の向こうの利休の茶席から、利休がこちらを見ていた。客に茶を点てながら、兄が茶席から茶席へ渡り歩くのを、目で追っていた。大きな手が、茶筅を止めかけて、また動かした。
俺は、兄のうしろについて歩きながら、指を折って数えていた。
昼までに、二十八杯。
昼を過ぎて、四十杯を超えた。
夕方、五十何杯目かの茶碗を受け取ったとき、兄の手が、震えていた。大坂の屋敷の夜とも、博多の陣幕とも違う震え方だった。細かく、速い。兄の額には、晩秋だというのに、汗が浮いていた。
その夜、聚楽第の兄の寝所から、使いが来た。
「羽柴様、殿下がお呼びでございます。すぐに、と」
寝所に駆けつけると、兄は、布団の上に起き上がって、胸を押さえていた。
「小一郎、助けてくれ。胸が、早鐘を打っておる。眠れぬのじゃ。わしは、死ぬのか」
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