第一話 ログインの果て
VRゲーム《ファンタズマル・アイランド》のGMであるマスターネオは、ある日ログインすると巨大な黒猫の姿になっており、ゲームマスターの権限を失っていることに気づく。
接続した瞬間、世界が狂っていた。
視界が低い。あり得ないほど低い。地面がこれほど近いとはどういうことか、と理解するより先に、身体が訴えてきた。何かが根本的におかしい、と。
足元を確かめようとした。手を動かそうとした――そこで止まった。
手がない。
あるのは前足だ。漆黒の、なめらかな毛に覆われた、しなやかな前足が、視界の端に二本、当たり前のように存在していた。
「……いやいやいや」
声が出た。想定より二オクターブ近く高い、軽い声だ。反射的に喉を押さえようとして、そこにも当然、手がないことを思い知る。
身体を起こす。長い尻尾がゆらりと揺れて、重心を取った。嫌な予感という言葉では足りない。これは確信だ。最悪の種類の確信。
近くに水面があった。広い、静かな水面。歩み寄って、顔を近づける。
そこに映っていたのは――黒猫だった。
大きい。プレイヤーのアバターなど軽く凌駕する、威圧感のある巨体。どう見てもボスモンスターにしか見えない体格。漆黒の毛並みが、不自然なほど艶やかに光を反射している。黄金色の瞳が、こちらを見返していた。
「……俺、GMなんだけど」
ぽつりと呟く。水面の黒猫も、同じタイミングで口を動かした。口の端がひくりと引きつる。
マスターネオ。このゲーム――VRファンタジーRPGのゲームマスター。この世界を走るすべてのルールを把握し、すべての事象に介入する権限を持つ、管理する側の存在。
のはずだった。
視界の端に、習慣のようにログを呼び出す。管理画面を展開しようとする。いつもそうするように。
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【権限エラー】
管理者権限へのアクセスが拒否されました
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「……は?」
一瞬、思考が凍りついた。氷が張るような、完全な停止。もう一度、慎重に試みる。
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【アクセス拒否】
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「いやいや、それはダメだろ」
笑えない。全然笑えない。GMがGM権限を使えないということは、それはもう管理者でも何でもなく、ただの一般プレイヤー以下だ。いや、アバターも持たない猫以下か。
そのとき。
遠くで悲鳴が上がった。
「ぎゃああああああ!!」
森の奥から、裂けるような声。顔を上げると、木々の間を縫って、プレイヤーらしき人影が必死に走っているのが見える。何かに追われている。全力で、振り向く余裕もなく、ただ逃げている。
モンスターか。視線を追う。
――いや、違う。
「……あれ、配置ミスってるな」
追う側の存在を見た瞬間、GMとしての直感が働いた。あのモンスターはここに出てはいけない。初心者用エリアに設定された、この低レベル帯の森に出るはずがない。しかも挙動が異常だ。ターゲット優先度が完全に崩れている。ヘイト管理の処理が機能していない。まるで誰かが生のAIにだけ命令して、制御システムを全部切り離したような、不気味な一直線さで人影を追っている。
「……誰かが弄ってる。これ」
ネオはゆっくりと立ち上がった。四肢に力が入る。巨大な黒い身体が、静かに動き始める。
「まあ、いいか」
軽く首を振る。尻尾が一度、大きく揺れた。
「とりあえず――」
にやり、と笑った。猫の顔で。
「世界、取り戻すか」
その瞬間だった。
視界の奥に、見慣れないログが割り込んだ。どのウィンドウにも属さない、浮遊した一行。フォントも、色も、システムのいかなる規格にも合致しない。
```
「それ、つまらないよ」
```
空気が、変わった。
比喩ではなく、本当に変わった。風もない、音もない。ただ世界の質感が一ミリ、ずれたような感覚。
ネオの身体が止まる。
「……誰だ」
返事はない。
ログも消えた。跡形もなく。まるで最初から存在しなかったかのように。
だが確実に――誰かが、見ている。今もこの瞬間も、見ている。
遠くで、また悲鳴が上がった。今度はかすれていた。プレイヤーが倒れた。HPが一瞬でゼロになる。あり得ない減り方だ。防御無視どころか、計算式すら飛び越えた消え方。
ネオはゆっくりと息を吐いた。
「……あーあ」
頭を軽く振る。尻尾がわずかに下がった。
「最悪だな」
でも、その口元は、少しだけ笑っていた。
「面白くなってきた」
黒猫は、壊れた世界の奥へと歩き出した。巨体が静かに揺れて、光を吸い込む毛並みがわずかに輝く。踏み出すたびに、草が音もなく踏みしだかれた。
その背後で――誰の目にも触れないまま――ログが一行だけ、静かに追加された。
```
「期待してるよ」
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