後編 恋と虚構
時系列的にはここからが前作短編の続きとなります。
薄暗い憂鬱な空から落ちる雨に濡れた城郭が白くけぶる。薄く張った水溜りに跳ねて絶え間なく響き合う波紋の円と円。見慣れたはずの日常も、今のレオンハルトには絵に描いた別世界に感じられる。
絢爛な玄関ホールに佇むレオンハルトは、法律に定められた王族の服制における最上級の正装である大礼服を身に纏い、彼の弟王子であるクリストハルトの得た情報が間違いではない事を裏付けていた。
レオンハルトより二歳年下の第二王子は才色兼備で知られる。王太子が空位となった状況にも不安の訴えが少ないのは彼の功績と言えるだろう。そのクリストハルトが兄の前に立ちはだかった。
「兄上、本気ですか。まだ目の曇りは晴れませんか」
祭典や国務行事の予定がないにも関わらず、大礼服を着用する理由は、それに見合った人物との接見に礼を尽くすためである。しかも、王太子を退いたとはいえ、現在も王族の上位に籍を置く第一王子自ら足を運ぶと言うのだから、その相手が誰であるかは推して知るべしである。
「王統と聖教会の象徴が交われば、諸侯の勢力図を根幹から塗り替えかねない。その血は将来必ず禍根の種と成るでしょう。翻って兄上に叙される公爵位が一代限りの条件付きとなるのは必定」
最後の説得を試みる弟は、心に弱さを宿していても優しさを失わない兄を慕っていた。
「苦労するのは兄上の子供達だ」
弟王子の目には怒りにも似た熱が込められている。
「……クリストハルト」
対する第一王子レオンハルトの覇気のない目は、完全に敗者の眼差しだった。
「確かに、私の目は曇っていたのだろう」
レオンハルトはこの期に及んでも正誤の判断さえ曖昧で、最早何を信じるべきかも分からなくなっていた。
「しかし、それは愛のせいなのだから、せめてその愛を、守らなくてどうするのだ」
そのために彼はこれから愛を得に、虎穴に入らんとしている。
「……子供達には、惜しみない愛を、贈るよ」
せめて愛だけは、信じるに足る標であって欲しいという願望が、今のレオンハルト唯一の指針だった。
「それに、お前が居てくれるのだから……」
「そうやって償いもせずに逃げ出してしまうのですか」
共に王道を目指して切磋琢磨してきた兄弟の、一方の兄だけが一度の失敗に挫け、道を外れ責任を放棄すると言うのを、どうして歓迎できようものか。——弟の目には失望の色が混じる。
「マグノリア嬢の事は、どう思っているのですか」
近頃よく思い出す、出会った頃のぎこちなく微笑むマグノリアと、学園での決して感情を読み取らせないマグノリアが、レオンハルトの脳裏に浮かんだ。
「……分からない。やはり、私の目は、まだ曇っているのかな……?」
弟の物言いたげ目が、まだ決定的な行動をとる以前に、エアリスと距離を置くよう忠告してきた父の顔と重なったが、その理由をつきとめる前に刻限が迫る。
「……時間だ」
侍従の合図に応じたレオンハルトは考える事を放棄し、弟の目から逃れるように踏み出した。目的地は虎の待ち受ける聖教会総本部、主教座大聖堂である。
グリーゼント聖国の歴代君主の墓所でもある主教座大聖堂は、尖った鐘楼が聳り立つ壮麗な巨大建築である。司祭の居住空間もまた隅々にまで厳かな美が施され、大窓が連なる開放的な応接室はしかし、覗く空の暗い色合いに塗り潰されて今は閉塞感で満ちている。
国の名に冠する『聖』の字が示すように、国教である聖教会は国の名の下に保護され、見返りに周辺国にも分派する教会の総本山としての役割と恩恵をグリーゼントへ齎してきた。その歴史の長さだけ深く人々の心に根を張り、支えともなっている。
レオンハルトの祖父である先王の時代には、既に聖教会・総主教座の地位にあったというミハイル・アレイオスは、光の加護によって20代そこそこの肉体を維持する中性的な美丈夫である。見る者に畏敬の念を抱かせる輝くばかりの美貌は神聖さを伴って底しれぬ存在感を放っていた。
「待たせたね」
ミハイルは親しげにそう言うと皮張りのアームチェアにゆったりと腰を下ろして、希望に目を輝かせるエアリスと対照的に物憂げに目を伏せるレオンハルトへ冷ややかな視線を送る。
近衛の黒豹の異名を持つ親切な友人からの報せを頼るまでもなく、近く婚姻するはずだった女性を捨てた第一王子とその寵姫として噂の聖女候補が、彼女を後見するミハイルから婚姻の許可を得ようとしているのは火を見るよりも明らかだが、ミハイルは二人に発言の機会を与えずに話し出す。
「エアリス?私は、王妃か、聖女かの、二つの道を、君に示したね。忘れたのかい?」
幼児に言い含めるように、それは優しく丁寧に。
「げ、猊下……!もちろん!もちろん覚えております!」
透明感のある水色の髪と愛らしく庇護欲をそそる顔貌を引き攣らせ、思い出したように狼狽えるはじめたエアリスと、子を窘める風情のミハイル。
「では、その道を、側妃や、公爵夫人が、歩めると?」
ミハイルの、男の理想を詰め込んだ聖母のような微笑みから滲み出るのは、有無を言わさぬ絶対的強者の余裕。細められた瞼から覗く蒼玉の瞳は、ひたと据えられ些細に獲物を吟味している。
「……あ、あの……」
せわしなく目を瞬いたエアリスは、まるで覗かれては不都合がある胸の内を隠すように身を丸めた。
「待ってくれエアリス、君は、私を愛しているから、私の唯一でありたいと……言わなかったか?」
ミハイルの挑発に黙っては居られなくなった暗い顔のレオンハルトは、さながら僅かな希望にも縋る罪人である。恋に酔っていたレオンハルトは、この時初めてエアリスという人間の本質を垣間見、自分の罪と対峙したのだ。
「側妃を嫌がった理由は、他にあると言うのか……?」
野心も二心もなく、ただ自分という人間を望んでくれたと思ったのは幻想だったのかと、茫然と恋人を見るレオンハルト。
「違いますよ!だって夫を誰かと分け合うなんて、私には無理ですから!」
しかし返ってきた、もっと悪辣な答えにレオンハルトは言葉を失った。エアリスが言っているのは、子供がおもちゃを独占したがるのと何が違うのか。——その気持ちを愛と呼んでいたのか?
そこで、短くはない学園生活を共に過ごした日々を回想したレオンハルトは、自分や側近に囲まれて無害そうな笑顔を振り撒くエアリスを辛うじて思い描く事ができるくらいで、自分の内にさしたる思い出もない事実に行き当たった。
——生まれながらに王位を約束され、与えられる事に慣れたレオンハルトにとって愛とは、下げ渡す物だった。持つ者の義務として、持たざる者へ分配する無私の精神は血に刻まれた記憶であり、王族としての尊厳でもあると教えられて来た。それは高位貴族のマグノリアとて同じ事で、だからレオンハルトにとってエアリスの貪欲なまでに希求する心との出会いは、非常に冒険的な初体験の出来事だった。
エアリスは初めからレオンハルトに真っ直ぐな恋心を向け、その朗らかな願いに心を揺さぶられたレオンハルトは、これが欲しかったものだと思った。——けれど、だとすれば何故、彼女の存在が自分の心の中でこれ程希薄なのか……。
彼の生きる貴族社会では異端と言えるエアリスの言葉の内に、レオンハルトが見慣れた陰謀や裏切りより余程恐ろしい残忍で混じり気のない暴悪な本性がまざまざと姿を現す。今になって、レオンハルトには持ち得ない利己主義の何たるかを朧げに捉え、違和感と焦燥が湧き上がった。レオンハルトの目を眩ませた、異世界への憧れと純真な聖女の持つ輝きが地に落とす影の、薄められた闇が躍りだす。
——彼女は異世界と繋がる尊く純真な聖女で、レオンハルトの憧れそのものだった。しかし、純真な恋心など有り得るのだろうか?邪念や私欲を含まぬ恋など、嫉妬や独占欲を生まない恋など、存在するのか?
混乱するレオンハルトをよそに、しばし傍観していたミハイルが口を開く。
「そうだろうね、君はいまだに記憶の中の、異世界の規範で倫理を測っているのだから、異分子の我々の事情など知った事ではないのだよね」
エアリスが前の生を送った世界においては、男女は誰もが互いにたった一人に生涯の愛を捧げ合うのだそうだ。この世界とは一線を画す、貧富の差はあれど命の貴賎などない均一された身分があるばかりの理想郷。
「だから、君は聖女という枠を外れるべきではないのだよ。聖女の肩書は君を守る盾だ。その盾を持たずに歩いてご覧?どれくらいの間、無事に生きていられるのか、とても興味があるよ」
エアリスの知る世界を均一で画一化された世界とするならば、この世界は多様で雑多な世界と言えるだろう。レオンハルトには煩わしく感じた多様性を、だからと言って一つの枠組みに押し込める乱暴なやり方は、褒められる行為だろうか。
「でもっでも、私、結婚して家庭を持つことが夢なんです!その為にこれまで頑張ってきたのに!」
身の危険を仄めかされて尚、真っ先に自らの幸福を論じるエアリスには、二つの世界の倫理観のズレなど、はじめから問題では無かった。彼女にとって重要なのは『己の幸福』ただ一点。自己が及ぼす影響など意識すらした事も無いのだろう。聖女の力の恩恵を享受しながら、自分の為にしかその力を振るわない彼女の身勝手な発言に、男達は唖然とする。
絶句している二人を前にしても、両手を握りしめて目に涙を浮かべたエアリスは、如才なく"救いを受ける聖女"を演じるばかり——。
「———ふっふふふふ……。本当に、君は……!」
もう堪えきれないと言うようににミハイルが笑い出した。
「そうだったね。自分の夢のために、頑張って、他人の持ち物を奪い取って来たのだったね。それを自分の物にしてはいけないと言われて、驚いたの?」
愉快そうに笑うミハイルは明らかな嘲りを隠そうともしない。
「マグノリア・フィレッティ侯爵令嬢を、彼女の席から追い立てさえすれば、自分が彼女に成り代われると思ったのに、座る事を許されなくて、驚いた?」
クスクスと衝動に任せてひとしきり笑ったミハイルに、恐る恐るエアリスが尋ねる。
「あの……代わりは必要ですよね……?」
「そうだね。但し、座る事を許されるのは、それに相応しい人間だけだ。本当に王の妃に相応しい、フィレッティ侯爵令嬢がすぐさま新しい席に案内されたのが、せめてもの救いだね」
類稀な美しさを誇るミハイルの睥睨に、エアリスは叱られた子供のように項垂れる。
「だって、だって……良く知らなかったのですもの!」
そのやり取りを黙って見ていたレオンハルトは驚愕を隠せない。——良く知らなかった、とは、何を……だ?マグノリアを……か?
「どういう事だ?君はマグノリアをあんなに怖がって居ただろ?」
——良く知りもしない相手を何故怖がる?
その質問には答えずに芝居じみた仕草で憐憫を誘うエアリスを見たミハイルが感嘆の唸りを漏らす。
「そうか、そうやって彼女を追い詰めたのか。光魔法くらいしか取り柄のない君が、どうやって、と思っていたが……下を向いて震えるだけで周囲の者が片付けてくれたと言う訳だ」
——ミハイルの言葉に、レオンハルトは学園で初めてエアリスとマグノリアが出会った日の記憶を手繰り寄せる。
「大方、君は後ろめたさから目を背けていただけなのだろうな。ハリボテの聖女に目を眩ませるような安い貴族ばかりが集まって、この国の将来が心配ですねぇ、殿下?」
——こんなにエアリスを怯えさせる理由が一つも思い当たらないなど、恥知らずな嘘をよくつける物だと言い放ったレオンハルトの叱責に、幻のように一瞬怯えを宿した瞳が揺らいだかと思うと、やはり直ぐに冷めた眼差しを返した不遜なマグノリア。
——哀れっぽく怯えるエアリスに驚いた顔を覗かせたマグノリア。——レオンハルトの隣で曖昧に笑うマグノリア。——レオンハルトの前に出過ぎないように苦心するマグノリア。——まだ幼さを残す弱々しく微笑むマグノリア。——初めて会った時の、レオンハルトに手を取られて驚くマグノリア。
そして、記憶から消えかけていたマグノリアと一緒に微笑んでいた幼いレオンハルトが、走馬灯のように脳裏を駆ける—————。
これまでまるで見えていなかった恋人の実態は、目の前で有りもしない疑いをかけられた人間を容易く見捨てるような女だった。
「くだらない……めぎつね……」
「レオンさま?」
蒼白のレオンハルトをエアリスが不思議そうに見つめる。
「やはり、母上の言う通りなのか」
絶望に飲み込まれそうなレオンハルトに聖人然としたミハイルが歩み寄る。
「さあ殿下、そろそろ目が覚めたでしょう。エアリスと結婚しても、きっと誰一人幸せには成れませんよ。それより他にやるべき事があるのでは?」
そっと耳元に口を寄せると、信託を授ける主教の本領発揮とばかりに人の心を掴む甘い声音でレオンハルトに囁く。
「殿下、貴方はまだまだお若い。陛下もご壮健でおいでだし、良い勉強になったと思って、一から出直しなさい。王太子に返り咲けるかどうかは分かりませんが、案外、今回の事が得難い財産になるかも知れませんよ?ご家族もそれを望んでおいででしょう?」
金縛りにあったようなレオンハルトからゆっくり離れて、今度はエアリスを振り返る。
「エアリスも。王妃じゃないと結婚できないなら仕方ない、なんて理由で、本気で王妃を務めるつもりだったのかい?」
「……できます」
ミハイルの言葉を否定しない事で、他に選択肢が有れば選ばなかったと暗に告げるエアリスの言葉を遮るように、両の耳を塞いだレオンハルトの拳が弱々しく震える。
「そーかそーか、君は本当に面白いね」
ミハイルは言葉とは裏腹にちっとも面白くなさそうに言う。
「では、殿下にお願いしてみるかい?彼は婚約者を失って、辛うじてのいち王子でしかないけれどね。エアリスは知っているかな?我が国では既婚もしくは婚約者がいる事が立太子の条件の一つなんだよ?」
ミハイルの言葉にポカンと驚いた顔をして、王位継承にまつわるこの国の一般常識をまるで知らなかったと露呈するエアリスには、これで本当に王妃になるつもりだったのかと呆れを通り越して感心してしまう。
「ひどいです猊下!なんでですか?——なんで公爵夫人になっちゃいけないんですか!?」
エアリスは喚いたかと思えば、あっ、と何事かひらめいて、上目遣いにミハイルへ粘ついた視線を送る。
「もしかして、私のこと……?」
ミハイルが目を伏せて額に手をかざす。
「あー、やめてくれるかな。想像されるだけでも不愉快だよ」
理解不能な生き物を視界から追い出してなんとか思考の混乱状態を回避すると、溜息をついてレオンハルトに向き直る。
「殿下には、何故だかお分かりになるかな?」
レオンハルトは茫然自失として話を聞いているかも怪しい様子だ。歪んだ笑みを溢したミハイルは胸中でもう一度嘆息する。
「それはね、エアリスが本当に聖女だからだよ?聖教会の認証なんて関係ない、生まれながらの聖女だ。偽物であってくれたなら苦労はしないのだけれどね、残念ながら、疑いを許さない力を持つ、本物の聖女なんだ」
——魔力は人一倍有るのだ。余計な権力など持たせれば何をしでかすものやら。
「だからね、後世に、堕落した聖女の記憶を残されては困るのだよ。王妃の座に上り詰める程の強かさがあれば或いは、とも思ったのだけれどね」
——もう少し使えるかと思っていたと言うのが本音であるが、どちらにせよこの女は使えない。
「恐ろしくて、とても放し飼いにはしてあげられないよ」
——こちらまで巻き添えにされて、侯爵令嬢に恋する獣に噛みつかれては堪ったものではない。
「ええぇ……そんなぁ……これって、え?……ノーマルエンド?え?……嘘でしょ!?なんで!?」
おもむろに立ち上がり、自慢の髪を掻きむしって意味不明な言葉で騒ぎ始めたエアリスに、世話役の神官が退室をうながす。乱心する聖女候補が抵抗も虚しく連れ出された薄暗い室内には空虚な沈黙が落とされた———。
『私には身に覚えがありませんね』
昔、年若い近衛騎士に、そんな風に冷たくあしらわれて、私はなんと返したのだったか……?
そうだ、「お前は此処ではない何処かへ、行ってみたいと思わないのか?」と、言ったのだ。そう思う自分に何の疑問も持たなかった。
子供だった。
彼にだって、マグノリアにだってきっと、間違いなく、何処かへ逃げ出したくなる事くらいあっただろう。ただ、彼らには、それを内包できる強さがあった。
私は行くことの出来ない理想郷を夢想して、現実から目を逸らす事を止めなかった。
強さが必要なら、自分ではない誰かから借りてきた。
けれど、貸してくれた者達は、マグノリアには、余るほどの強さが有っただろうか……。
年下の婚約者は、過大な期待や重責によろけそうになる私を人に悟らせぬように側で支えてくれたが、未熟な私にとっては一人で立つ事も出来ない自分を見透かされるようで、喜びより羞恥と悔しさで顔が熱くなるのを感じ、彼女を真っ直ぐに見つめる事が出来なかった。
失望されるのが怖くて、必死で理想の第一王子を演じた。
エアリスは、私が持ち得る異世界との唯一の接点で、此処ではない何処かへと繋がる神秘の扉だ。——それは言い換えれば、価値はあっても道具に過ぎないという事ではないか?
マグノリアは、私が行けるはずもない理想郷に心を傾け、エアリスを生きた偶像として盲信する道化になっている時に、怒りもせず自棄にもならず、事態を静観していた。その余裕ある態度や寛大な姿勢がひどい高慢さに思えて、見下されていると感じた私はマグノリアを後悔させてやらなければならないと思った。
——けれど、あれほどマグノリアの凪いだ瞳に苛立ち、侮辱されているとさえ感じたのは、何故か。
思い返せば甦るのは煩わしく思っていたマグノリアの姿ばかりで、私の記憶に焼き付いているのが、愛しいはずのエアリスではないのは何故か。
私がエアリスに傾倒していく過程で、不出来な弟を見守るような穏やかなマグノリアの平熱の瞳は、益々温度を失っていった。
あの目が私を追い詰め、逃げ出したいという衝動を掻き立て、憎悪さえ呼び起こした。
その焦燥の正体が、……今なら分かる。
何の事はない。自分を価値ある存在として認められたいという、尊厳欲求だ。
私は、我知らず膨らみ切った赤裸々な欲望の正体を認める事が出来ず、マグノリアを悪と思い込み、心に巣食う叶わぬ願いが吐き出す不快感の理由を、こじつけた。
全ては稚拙なこじつけだ。
側妃を認めると言われて、あれ程逆上したのにも、エアリスは少しも関係がなかったのだ。私を駆り立てたのは終ぞマグノリアに求められなかった、喪失の痛みだった。
自分は別の女を愛していると告げておいて、その実、マグノリアに泣いて縋っては貰えないかと、私は、期待していたのだ。
——レオンハルトは震える掌に視線を落とした。
その手が震えそうになると、勇気づけるように寄り添ってくれた利発な少女を、取り戻す事はもう出来ない。
彼は異世界へ行きたかった。
王太子としての自分に用意された婚約者を、ただの女として、攫って行きたかった。
目の曇りが晴れて見渡す心の荒野に、無惨に歪み変わり果てた初恋の残骸を見つけたレオンハルトは、項垂れ、言葉も無く涙した。
———淡く発光する金糸雀色の蝶がヒラリとガブリエルの指にとまる。
「王子は王子、聖女は聖女。道は交わらない」
総主教座ミハイル・アレイオスの声で囀った魔力の蝶は役割を終えると魔素の霞に還った———。
「……木春菊」
10年近い時を経て再び目にした思い出の庭には、あの日の野花が見事に咲き乱れていた。
「お嬢様の思い出の花なのです」
老年に差し掛かった古参の執事がガブリエルの呟きを拾って嬉しそうに話しかける。彼の顔にはガブリエルも覚えがあった。
「外でお待ちになられますか?」
窓枠に切り取られたフィレッティ侯爵家の麗しき庭園は、かつての幸福の光を閉じ込めたように煌めいていた。
「頼む」
断る理由など存在しないので、老執事の案内で光の中に送り出された。
サクリと庭石を鳴らして思い出の中を歩くガブリエルは、この楽園に別れを告げた18歳の自分に、これ程穏やかな心持ちでもう一度この場所に戻る事が出来ると言っても、きっと信じはしなかっただろうと思っていた。
すると光の波を掻き分けて待ち人が現れる。
「ガブ兄さま!」
この世の終わりかと思うような祝福の嵐に心を揉みくちゃにされて朦朧としながら、マグノリアに近づこうと足を動かす。覚束ないガブリエルより早く、幸福の象徴が駆け寄って美しい顔を輝かせた。
「私の可愛いノリー。その呼び方もくすぐったくて良いけれど、何だか悪い大人になった気分だな」
はにかむマグノリアの後ろから不機嫌な声が追いかけて来た。
「お前は充分悪い大人だ」
久しく顔を合わせて居なかった懐かしい幼馴染だ。
「なんだ、ベニーも居たのか」
時が巻き戻ったような錯覚が当時と変わらぬ気安さを許し、ガブリエルとベンジャミンの間に横たわる時の狭間を取り払う。
「やめろ。気持ちの悪い呼び方をするな」
まるで昨日別れたばかりのように変わりないベンジャミンの独特の温度が心地よい。
「お兄様、またそのような意地悪な言い方をなさる。もう良い大人なのですから、愛情をいちいち裏返して表現なさる悪い癖は、改めるべきです」
『ベニーにいじわるされなかった?』
在りし日に、寂しくて壊れそうだったガブリエルの心を、真っ直ぐに労ってくれた小さな守護天使がそのままに成長して自分の下に舞い戻ったなど、……夢ではないだろうか。
「ノリー」
触れた途端に消える幻かもしれないと疑いつつそっとマグノリアの手を取る。
「マグノリア。貴女は私の宝物だ」
しっかりと質量を持ってガブリエルの掌を押し返すマグノリアの肉体をもっと感じたくて腰に手を回す。
「貴女を絶対に幸せにすると誓う。だから、どうか、ずっと私の側に、居て欲しい。お願いだ」
ふわりと額を合わせて全身でその存在を噛み締めたガブリエルを止めもせず、マグノリアが両手でガブリエルの頬を包む。
「はい、マグノリアは、お側を離れません」
ぴったりと寄り添う二人はどちらともなく瞼をとじて猫のように鼻を擦り寄せ、柔らかな頬を触れ合い唇を啄む。
「そこまでだ」
存在を忘れられていた兄が出した声に、ビクリと体を揺らしたマグノリアが全身を真っ赤に染める。
「ベニーは気が利かないな」
呑気なガブリエルを、眉間に峡谷を作るベンジャミンが一瞥すると単眼鏡のレンズが光を反射する。
「気が利くからこうしている。婚姻前に子が出来てはたまらん」
「お兄様!」
「マグノリアのためだぞ」
口争う兄妹を眺めるガブリエルがしみじみと言う。
「一理あるな」
ガブリエルの言葉を受けて、鏡を合わせたように同じ動きでゆっくり此方を振り向いた、悪魔の形相の兄と天使の面差しの妹の双極の呆れ顔に笑いが湧き上がる。
「くっ……ふふっ……あはははは!」
「ふふっ……もうっ!」
「……………………………。」
眩暈がするほどの幸福な夢の中に蝶は羽ばたく。
長い長い夢の中
夢の中でだけ
想う人に寄り添う化け物が
いつしか
化け物の夢を見る幸福な蝶と
存在を同じくしたとしても
全ては
夢の中の事
覚めない夢の
中の事
おしまい
ツンデレお兄ちゃんのベンジャミンくんがお気に入りです。
ラストは全力でイチャイチャするつもりだったのに、彼がでしゃばって来て何だかほのぼのしてしまいました。
エアリスは日本だったらワリとよく居る普通の子に書きたかったのですが、……難しかったです(´-`)
作中でこっちの世界の事をどーのこーの言う部分がありますが、転生者の話を聞いた異世界人の考える世界の話と捉えていただけたらと思います。
お読みいただきありがとうございました!