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憧れて

 その夜の数時間の出来事は、衝撃の記憶として、その後沙希の頭の中を繰り返し駆け巡ることとなる。


 月が不意に雲間に隠れ、ふたりは息を飲んで闇の中で目を凝らした。

 数秒で雲は晴れ、闇に浮かびあがった月光の眩しさに、もう一度息を飲む。

 沙希の上に、柔らかい触感で光が降り注いでいた。


 唐沢の手がひらりと動いた。 

 両手の人差し指と親指を組み合わせて、カメラマンがやるようにフレームを形作る。

 中央から覗いた唐沢の眼が、まっすぐに沙希に向けられている。

 ようやく、あのちゃらんぽらんな唐沢を本気にさせたのだ。

 自分の心が思いのほか貪欲であることに、沙希は密かに驚いていた。 裸の胸を覆っていた両手を思いきって外し、背筋を伸ばして顔を上げる。


 虫の音に彩られた、自分の鼓動が跳ね上がるのがわかった。

 「沙希ちゃん、足痛い? 立てるかな」

 唐沢の言葉は、質問に見えて、軽く命令の響きを持っている。

 沙希は傷ついた方の足を庇いながら立ち上がった。 脳天まで駆け上がる痛みを、奥歯を嚙み締めて堪える。

 「畜生、なんか描く物はないのかよ」

 「これ」

 沙希は足元のビニール袋を拾い上げた。 一斗缶に入っていたものだ。

 「スケッチブックみたいなものが入ってるし、裏を使えるんじゃないですか?

  ここにほら、ペンのような物も」

 「いや、でもそれって遺品だろ?」

 「裏を使うぐらい、きっと文句言いませんよ」

 相馬が、とは言わなかった。


 ここで唐沢の断面が進化することを、止める権限は死者にはない。

 スケッチブックの所有権は遺族にあるが、沙希がわざわざ言わなければきっと遺品の存在すら知られてはいないだろう。 

 それを冷たい考えと言うなら、葬儀の時だけわあわあ泣いて、あとは相馬の事を思い出しもしないクラスの女子達の方が、沙希にはよほど冷たく思われる。


 唐沢は決心したようにビニール袋をバリバリ開き、固まってくっついた中身を苦心惨憺の挙句に取り出した。

 ペンに見えたのは、木の軸が腐りかけた鉛筆だった。

 

 葉擦れの音と、虫の音の他に、新たな音が加わった。

 湿った古い紙の上を走る、鉛筆の音。

 力強い音だった。

 唐沢の心に、自分の断面が写し取られる音だ。

 何度も首を傾げては、ページをめくってスケッチを繰り返す手さばきを、沙希は夢心地で見つめた。

 沙希の足の痛みは、時間と共にひどくなった。 食い縛った歯の奥から、時に小さなうめき声が漏れた。

 「俺絶対、今度こそ描くからな。

  俺にしかわからんものを描いてやるから」

 沙希の我慢を察した唐沢が、不意にそう囁いた。 堪えていた涙が沙希のまつ毛から零れ落ちた。


 

 スケッチを終えた唐沢が、自分のTシャツを脱いで沙希に着せてくれた。

 唐沢の体温ですでにそれは乾いており、沙希の全身を襲っていた震えは止まった。

 「唐沢さんが寒いでしょう」

 「おれ、今暑いよ」

 「ホントに?」

 「アドレナリンがえらいことになってるから」

 照れたようにケケケと笑い、唐沢はいきなり沙希の体を抱き上げて立ち上がった。

 「よし、この勢いで下まで降りるか」

 「ダメです! 道が見えないし、唐沢さんだって足が!」

 「俺のドーパミンを舐めんじゃねーぞ」

 片足を軽く引きずって、唐沢は歩き出す。 おぼつかない足取りに沙希は悲鳴を噛み殺した。

 「絶対、家まで帰してやる。 見てろ、相馬」

 崖の上を振り返って、低くつぶやく。 それもまた唐沢の断面かも知れなかった。

 抱いたままでは足元が見えないと言って、途中から背中におぶって道を進めた。


 躍起になって歩く唐沢の背中で、沙希が突然ふっと笑いを漏らした。

 「なに? 沙希ちゃん急に」

 「だって、私たち星を見に来たのに、結局お月様しか見てませんよね」

 「あ」

 唐沢は足を止め、天を仰いだが、頭の上には覆い被さる木立ちの影が広がるばかりだ。

 「見えねえ」

 「ね。 間抜けですね、私たち」

 「すっかり忘れてたもんな」

 2人で声を出して笑った。

 


 結局、唐沢は沙希を抱えたまま下山を果たした。

 よろけたり休んだりを繰り返しながらも、ほぼ完全にふもとまで下りることが出来たのだ。

 ほぼ、と言うのは、民家の灯りが見え始めたあたりで、登って来た警察官に保護されたからである。

 「あんたたち、上で大きな声を出したりしたか?」

 中年の警官に聞かれて首を振ると、だから気のせいですって、と若い方の警官が笑った。

 「いや、派出所のトイレで山の方を見たら、てっぺんから子供の声が聞こえるような気がしたんだ。

  おーいおーい、ここにいるぞお、ってね」

 「そんなの聞こえるはずないって僕は言ったんですけどね」

 唐沢に代わって沙希をおぶってくれながら、若い方の警官が笑った。

 「でもな、昔は結構聞こえたんだよ。 あそこに登って叫ぶとね。

  あの山はむかしからあちこち裸ん坊で、てっぺんに大きな樹が一本生えてるきりなのが下からよく見えたから。 俺らは上まで登って、下を通る友達にバカヤローとか声かけて遊んだもんだよ。

  あんまり木が少なくて、たびたび崖崩れを起こすんで、だんだん植林したから、最近は見えなくなっちゃったけどな」

 沙希が驚いて唐沢の顔を見る。 小さく舌打ちをして、唐沢は山の上を見上げた。

 「手柄、横取りすんじゃねえ」




 唐沢の作品が二期展に入選したのは、それから半年後の事だった。

 月の光は、どうやって作ったかわからないようなトロリとした触感を感じさせる、不思議な色に仕上がっていた。 その中で、低い場所から睨みつけるようにこちらを見ている少女の表情が圧巻と絶賛を受けた作品だった。

 月は描かれていないのだが、沙希の肌の色は、月の色そのものに見えた。

 モノクロでも、天然色でもない、触感だけで描かれたような不思議な風合いの色が、見る人を釘付けにする。

 作品名は「GEKKOH」とされていた。

 

 「『月光』ですか、それとも怒る方の『激昂』?」

 取材に来た美術史の記者に聞かれるたびに、めんどくさがって「あなたどっちだと思いますか」と逆に聞き返す唐沢の態度が、いかにも芸術家らしいと周りを失笑させた。 

 実は色盲の障害がある、と言う話も、しっかりと記事に書かれていた。

 「面白い物がいっぱい見えますよ。 羨ましいでしょう」

 遠慮がちに障害について質問されると、唐沢はいい加減な回答をしてケケケと笑っていた。 

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