7-2 黒魔女、手がかりを得る
チクタク、チクタク。
埃っぽい室内で、古時計の秒針が時を刻む。
外からの明るい光に縁取りされた秒針の音は、優しい音を響かせ、12時を指したところで、ボーン、とその鐘を鳴らした。
まるでそれに共鳴するように、奥の方で煮えていた鍋が、ボコボコッと音を立てる。
「おや、ちょいと煮込みすぎたかねぇ」
思い出したようにそう言って、目の前のソファに腰掛けていた彼女はティーカップを置き、鍋の方へと駆けていく。それから、慣れた手つきで皺だらけの手にヘラを握り、それで鍋の中をぐるぐるとかき混ぜ始めた。
……ちなみに補足すれば、この鍋は直径二メートルはあろうかという超大鍋だ。おまけにヘラはボートのオールみたいに大きい。
そしてこの超重労働をしているのは、御歳百二十歳のおばあさんである。
「……まじかぁ」
目の前のあんまりな光景に、思わず素が出た。
私の隣に腰掛けているオルガも、流石に驚いているらしい。お菓子をつまむ手を止め、おばあさん……否、クレアおばさんの方をまじまじと見ている。
「随分パワフルなレディですね。あれなら私が間に入らなくても、物理でチンピラをなんとかできたのでは?」
「それは言わないお約束よ」
まぁオルガの気持ちも分からんでもないが。
何せあのボディである。
おばあちゃんお元気ですね、なんてレベルじゃない。体だけ見るなら、どこぞの女戦士として現役でやっていけそうだ。
「……」
袖の下からチラリと覗く、たくましく割れた上腕二頭筋を眺めながら、私はハハッと乾いた笑いを漏らした。
いやぁ、薬って、すごいなぁ……。
黒魔道具屋の店主、クレアといえば、その美しさで評判の女性だった。
赤みがかった、艶のある茶色い髪は、彼女がくるくる店内を歩き回るたびにいい香りを漂わせ、エメラルドのきらめきを閉じ込めたみたいな明るい緑の瞳は、男をすぐに虜にした。
私も小さな頃に店を訪れた時、彼女の美しさに何度もため息をついたものだ。彼女は、始祖の血を引くブラッディ家の一人娘である私のことを、随分と可愛がってくれた。店にくれば毎回ケーキを出してくれたし、おまけも沢山してもらった。店を訪れたのは、従者と来た数度だけだったが、優しかったクレアおばさんの事はしっかりと覚えている。
……あれから、数年。
クレアおばさんは、私の記憶とはかけ離れた姿をしていた。
ヨボヨボにたるんだ肌。ぎょろぎょろ大きい瞳。そして、大きな鉤鼻。
久しぶりに再会した彼女は、いかにも魔女!!
しかも悪役の方!!
……という感じの容姿をしていた。
言っちゃ悪いが美女の美の字もない。街の男たちがこれを見たら多分泣くだろう。
一体その姿はどうしたのか、と詳しく話を聞いてみたところ、どうやら彼女はヴァニティの薬を使い、その姿をずっと若い時のものに保ってきたらしい。で、その薬が丁度切れたから、新しく作るために材料を買いに行っていたところを、チンピラに絡まれていたらしく。
「いやぁ、助かったよ!え?何々??アンタらも薬が欲しいのかい。いいよ、作ってあげるからうちにおいでな」
とまぁこんな感じで、私達はクレアおばさんのお店に招かれたわけだ。
「ちょっと待ってな、もうできるからね」
おばさんはこちら、そう言ってにこりと微笑みかけた。……その額には、汗粒ひとつ浮かんでいない。いい感じにバケモノである。
おばさんは、ぐるりぐるぐる三回鍋の中身をかき混ぜると、傍にあった空の小瓶を手に取った。
そして鍋の中身をそれの中へ流し込んでいく。
小瓶の中身は、陽の光を受けて、キラキラと輝いた。
「はい、できたよ」
ご丁寧に小瓶の蓋に小さな緑のリボンをつけて、おばさんは皺くちゃの手で、私に薬を渡してくれる。
「どうもありがとう、クレアおばさん。で、その、お代なんだけど……」
「ああ、いいよいいよ。さっき助けてもらったお礼なんだから、受け取っとくれ」
そう言うと、彼女は私の手にぎゅ、と小瓶を握らせた。
ヴァニティの薬は高級品。そう、ホイホイ渡せるものでもないのに。
「……ありがとう」
小瓶を握りしめて素直にお礼を言えば、クレアおばさんは満足そうに目を細めた。
……その瞳は、記憶の中の彼女と同じ、深いエメラルドグリーン。瞳の中の優しい色は、昔と何も変わりはしない。
「おや、お茶が冷めちまったねぇ。新しく淹れてくるから、ちょっと待っててくれ。……お茶が入ったら、これからの話をしよう」
そう言い残し、彼女はまた部屋の奥へと消えていった。
……これからの、話。
「……おばさんなら、この封印は解けるかしら」
そう零し、手首に刻まれた忌々しい刻印をそっと撫ぜる。刻印の赤は、まるで私を笑うかのように、白い肌の上でにぶく光った。
「どうですかねぇ。あのレディの魔力は相当でしたが……白魔術の本家である王族のかけた魔法を、そう簡単に解けるかどうか」
軽薄な口調で言って、オルガは冷めた紅茶を口の中に流し込む。
……これからなんて、分からない。
おばさんは賢い人だ。だから、何も話さなくても、きっと私たちが今どういう状況にいるのかなんて、きっと全部分かっている。
だけど、私には何も分からない。
おばさんに話すようなこれからなんて、見えやしない。私は結局のところ、復讐だとか報復だとか、ご大層な口を聞いておきながら、すぐ先のことなんて何も分かっていないのだ。今何をするべきかも知らず、真っ暗な道を、あてもなく彷徨っている。
「おまたせ、新しいお茶淹れてきたよ…って、どうしたんだいエレナちゃん。そんな顔して」
銀のトレーを持って奥から出てきたおばさんは、私を見るなり心配そうな顔をしてこちらへ寄ってくる。
……そんな彼女に、私はにこり、と微笑んだ。
「なんでもないわ。気にしないで。ちょっと……あー、クッキーが喉に詰まっただけ」
「そうかい? なら、いいんだが」
おばさんは、何かに勘付いたようだったが、それ以上は何も言わずに私と悪魔の前に新しいティーカップを差し出した。
バツが悪くなって、おばさんからふと目を逸らし、私は紅茶を流し込む。新しい紅茶は、少し蒸らしすぎたようだ。口の中に、苦味が広がる。
「……さて、エレナちゃん。アンタに何があったかは、黒魔法使いの情報網から大体聞いてるよ。…まぁ、悪魔と契約したって聞いた時は驚いたもんだが」
言いながら、おばさんはオルガの方を、まるで牽制するようにキッと睨みつける。
おばさんの鋭い視線に、オルガは肩をすくめて、おどけるような表情を浮かべた。
「フン。気にくわない悪魔だよ」
「ねぇおばさん。この封印、解けない?」
イラついた様子を見せるおばさんに、私は慌てて刻印のついた手首を見せた。これ以上場の空気を悪くしたくはない。おばさんは良くも悪くも好き嫌いがはっきりしている人だから、下手をすればオルガと喧嘩でもおっぱじめかねない。
「ほう、どれどれ……?」
…どうやらうまく気を逸らせたようで、おばさんは私の手首をとり、ジィッとそれを調べ始めた。
「……ふーーん………。これは……王家の封印だね?」
「そう、投獄された時に付けられたの」
「ふむ……」
おばさんは真剣な表情で、まるで医者のように手首を眺める。
……沈黙が、辺りを支配する。私は彫刻みたいに固まって、おばさんの次の言葉を待った。
そしてきっかり五分後。
「無理だね」
そうきっぱりと、おばさんは白旗を宣言した。
「無理かぁ……!」
いやまぁ無理かもとは思っていたけど……。
でも、唯一のアテが外れたダメージは、意外と大きい。
あからさまにがっくりと肩を落とす私を見て、おばさんは申し訳なさそうに視線を漂わせた。
「ごめんねぇ、力になれなくて。だが、これはちょっとアタシじゃ厳しそうだ。なんてったって、古い魔法だからねぇ……」
「そう……。いえ、いいの。気にしないで」
ダメなものは仕方があるまい。
さっさと諦めて、切り替えて、どうにかする方法を探さなくては。
……そんなものがあるのかは知らないけど。
「アタシには無理だが、なんとかできるかもしれない人間なら、知っているよ」
何か方法はないか、と考え込んでいると、突然、おばさんがポツリとそう零した。
……封印を、なんとかできる人間……?
「本当?本当に、心当たりがあるの?!」
「え、あ、ああ。詳しくは分からないがね」
まるで噛み付くようにそう食い気味に尋ねる私に驚きつつも、おばさんは言葉を続ける。
「アタシも実は噂しか聞いたことがないんだけどね。この世界のどこかに、叡智を手にし、全ての魔法を扱う『賢者』と呼ばれる魔法使いがいるそうなのさ。
だから、その男ならあるいは……」
「賢者……」
記憶を掘り返してみるが、心当たりはなかった。そんな強そうな通り名なら、ゲームのキャラクターだったりしないかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
「おばさんは賢者について、何か知っているの?」
「いいや、本当に詳しいことは知らないんだ。……だが、どうやら御伽話というわけでもなさそうでねぇ。ラトメイアじゃ、その賢人を名乗る男が、違法商人のキャラバンを一人でとっ捕まえて、懸賞金を掻っ攫っていったらしい」
……ラトメイア。エレミア王国の西に位置する国だ。首都のボルノワからなら、四日歩けば国境は超えることができる。
そこに行けば、もしかしたらその男に会えるかも……?
「まぁ不確かな話だからね。もしどうしても行くアテがないなら、その男を探してみるのもいいかもしれないが…」
そう言って、おばさんはカップの中の紅茶をズズッと啜った。
……チリン、とベルの音が鳴ったのは、丁度その時だった。
「やぁ、お邪魔するよ」
柔らかい男の声が、店に響く。
店に入ってきたのは、スラリとした色の白い青年だった。歳は二十代前半、といった頃だろうか。金糸のような美しい長い髪を高い位置でまとめていて、耳には不思議なイヤリングをしていた。身にまとった緑色の洋服は、随分と上等そうで、どこぞの貴族のような印象を抱かせる。
……いや、どこぞの貴族っていうか、これ。
「おばさん、逃げるわよ!!!」
全てを悟り、私は皺だらけのおばさんの手をぐいっと引っ張った。
そしてその刹那、私の頬を穏やかな風がゆるりと撫でる。
……っまずい…!
ゴオッ!!!
轟音が、鼓膜を揺らす。
気がつけば、すぐ隣にあった壁に、ぽっかりと大穴が空いていた。
……まるで、何かとてつもなく強い力にえぐり取られたみたいに。
「ふふ、噂に違わず随分とおてんばなレディだね」
男の優しい声が、穏やかにそう笑う。
…………覚悟を決め、後ろを振り向けば。
青年は、細い杖をこちら真っ直ぐに向けて、まるで彫刻のような美しい微笑みを浮かべていた。
「はじめまして。……僕の名前はオズ・ロックウェル。市民から通報を受け、五剣の席に座す者として、君を殺しにきた」
きらきら光る緑の双眸が、こちらを射抜く。
……穏やかな声に似つかず、その瞳は、明確な殺意を滲ませていた。