ヒデン・ルール
「方舟が異世界だと?」
「話が早くて助かるッス」
よく出汁の染み込んだ米を咀嚼して、じっくりと考えてみた。
トビラをくぐった先は地下室だった。どう考えたって地下に方舟程の空洞を作ることは出来ないし、移動方法も不可解だ。
荒野だから分かりにくかったが、実際の歩幅と距離が合わない。
一歩で十メートル近く動くこともあれば、歩幅以下しか動かない時もあった。
少し苛立ちながら歩いていたのを覚えている。
学校から聴取室までの距離と歩幅、移動時間を含めて考えても、方舟の大きさはどこかおかしい。
奇妙なことと言えばもう一つ。
NSという存在。
ユダはあれを人モドキと呼んでいた。この目で見て感じたことだけど、あれはたしかに人間とは言えないだろう。
ならなんなのかと聞かれれば、同じように人を模した何かと答える以外にない。
何処がどう違うのか、説明するのは難しいが。
「しかし、異世界なんてまるでオカルトでしょう。そんなものが本当にあるのなら、土地や人口爆発なんて問題もすでに解決してるはずです」
「ところがそうはならないんスよ。なんせ方舟とここじゃルールそのものが違うんスから」
「ルール、ルールね……」
「心当たりが?」
「移動時間と距離、それからNS。他にも色々、思い当たる節はあります」
異世界だと片付けてしまうのは簡単だ。だがどうにも合理性に欠ける。
「あれだけ不規則に移動距離が変わる世界で、わざわざ隊列を組んで歩きますかね。人を集めるにしたってそうです。いくつかの部屋に入りましたが、あれ自体がどこにあるのか全く分からない」
そう、違和感の正体はそれだ。
見渡す限り荒野だと言うなら、方舟には人が住めないはず。家もなく、誰もいないのが当たり前だ。
「なのに部屋を出たら、ボクらは三人で、確実に方舟を歩いていた。実に奇妙なトリックですよ」
「疑り深いッスねぇ……」
「疑問を持って事に当たらないと、また後悔しますから」
方舟がどこにあって、どうやって生活しているのか。想像することすら出来ない。
丼を傾けて米粒を集めていると、春原がボリボリと頭をかいて面倒そうに息を吐いた。
「じゃあ、今いるこの世界にも、隠しルールがあるって言ったらどう?」
そう来たか。
「興味はあります」
「仕方ない」
そう言うと、春原は上着のポケットから唐突に何かを取り出す。
10センチ程のプラスチックの棒。真ん中から開くようになっていて、片方の先端に留め金が着いている。
「……このナイフ、普段から持ち歩いてるんですか?」
「まっさかー! 実演のために必要かなってね」
春原がからかうようにカラカラと笑って、慣れた手つきで刃を出した。
「この書類、警察が用意したもので、私が持ってきたわけじゃない。それでいいよね?」
「はい」
頷くと、春原は書類をナイフで斬る。
「切れ味の証明ね」
よく切れるナイフだな。
「よし……よし、やるぞ。やるんだぞ、私……舐められると厄介なんだぞ……」
「もう大したことないなって思いましたよ今ので」
「ああもう、痛いの嫌いなんだってば」
情けない表情でそう言うと、ボクの煽りが効いたのか、ナイフが春原の手首に押し付けられて――
「血の処理はご心配なくッ!」
――グイッと引かれた。
当然、血が出る。
春原は泣いた。
そりゃ痛いだろう。なんか可哀想だ。自分が頼んだわけでもないのに、この人は何をしてるんだろうか。歳上って皆こうじゃないと思うんだけど、探偵やってヤクザに目を付けられるとこうなってしまうんだろうか?
「はい、見て!ちゃんと傷口を見て! 早く見て! ちゃんと切れてて、種も仕掛けもなし! イイネ!?」
「よく見せてください」
「勘弁してよぉ」
ドクドクと流れる血を、その傷口を眺める。
確かに切創だ。さほど深くはないが。
「いい? もういい!?」
「はい、満足しました」
「よーし、じゃあ治すからね」
「は?」
「見てて」
いきなりなんだ、意味不明だ。
春原が目を閉じて、ブツブツと何か呟く。
「私は春原……気持ちはハラハラ……かますぜロジハラ……」
「犯罪ですよ」
「メンタルバラバラ……って、静かにしてよ。集中してるんだから」
手首をボクに向けたまま、今度は黙って、眉間に皺を寄せる。
「来た。掴んだ」
「何を」
「見てて」
血が止まった。
それから――まるでビデオを早回しで見ているように――瞬く間に傷が塞がっていく。
数秒もすると、傷は跡形もなくなっていた。
「疲れた……カツ丼残ってる?」
「もう食べました」
「それじゃ帰りになんか買うか……」
安心したようにため息をついて。
「さてと。これが隠しルールその一、魔力ってやつ」
春原が話し始めた。
「人は皆持ってるんだよね、この魔力ってやつ。使い道は傷を塞ぐくらいしかないけど、とにかくさ。世界には君の知らないことがまだまだあるって言いたかったの」
目の前で見たことを整理して、記憶と照らし合わせる。
散弾を受けてなお平然としていたあの姿を思い浮かべた。
「……スサノオも使っていた、と?」
「NSは使えるだろうね。私は会ったことないけど」
「それは、どういう意味で?」
「持ってるだけか、使い方を知ってるかでは全然違うでしょうよ」
確かにそうだ。
スサノオは人間だと仮定しておくが、この魔力とやらが身体強度の原因なのか。
それだけではない気もするが……何より驚いたのは、自分が魔力なんていう突飛なものをすんなり受け入れた事実。
少し前の自分なら考えられない順応力だ。
春原は分かっているのだろう。僕が現場で何を見て、いや、そもそもどうやって方舟に行くことになったか。何らかの方法で知ったんだ。
この地区には似合わない調査力。異世界というものを容認する心持ちゆえか。
興味が湧いた。
春原の手がギュッと丼を掴んで、傍に置かれていた蓋をする。
ボクの期待を汲み取ったのか、情けない表情をかき消して、春原が言った。
「話は署でじっくりさせてもらうから、とにかく移動するよ高田くん」
「署はここですけど」
「雰囲気ってもんを分かれ」




