あいつは何だ?
「君は本当に、怪我するのが好きだな」
「そう重いもんでもないだろ」
目を覚ましたのは、やはり白いベッドの上だった。
今回は問題なく帰ってこれたらしい。ドクトルは渋い顔をしたが、快く僕を置いてくれるようだ。
有難い。
「ちょっとは包帯巻く身にもなってよね」
そういえば、ドクトルは物に触れないはずだ。なのに包帯を巻けるというのはどういうことだろう。コツがある、とは言っていたが。
難しいことは考えても分からない。僕は頭が良くないのだ。
「なら、早く自力で治せるようにしないとな」
「じゃなくて……まぁ、いいや。確かに魔力には早く慣れた方がいいし」
ドクトルはため息を零した。
僕を背に、机に置いてあった器械で珈琲を淹れる。
しばらくかかるか。質問を急ぐ理由は特にないが、こんな質問をする時に顔は見られたくない。
少しの間後ろを向いてくれるなら、願ったりだ。
「…………知ってたんだな?」
「だから教えなかった」
ドクトルは平然と答える。
ため息をつくのは僕の番だった。
怒りというか。そんなものより、呆れたという方が遥かに強い。僕自身、質問する直前まで、怒り狂ってもおかしくないと思っていたのに。
「危うく死ぬところだった」
怒りを込めて言ったつもりが、どういうわけか、自分で聞いてもひねくれ者の言葉に聞こえる。
返す言葉は分かりきっている、だからこそだろう。
「でも生きてるでしょ」
そう、その通り。
僕は生きているし、あの異形との邂逅――それから戦闘、勝利に至るまで――が、確かな経験となっているのだ。
僕は少しずつ、本当に少しずつ魔力の扱い方を覚えている。あの異形もまた、僕にとっては一人の師と呼べるかも。
「どころか、君はさっき、自力で傷を、と言った」
「それは」
「僕は何も教えてないし、珈琲にも何も入れてない。なのになぜそんなことを言ったのか?」
そう言って、ドクトルが振り返った。
湯気を立てる珈琲に対して、その視線はあまりに冷たい。
「答えは一つ。君は相手に、回復を必要とするほどの傷を負わせたってこと」
僕の前に珈琲を置いて。
「驚きだ。素直に驚きだ。君はまだ魔力を使えてない。なのに」
「腕には自信があるんだ」
「戦争のない世界にいたのにかい?」
頷くと、ドクトルは「冗談キツいな」と笑った。
珈琲を一口飲む。
相変わらず美味い。
しかし、怪しい混ぜ物をしていないとは。思わぬ所で思わぬ言質だ。
カップを置く場所が無い。仕方が無いので、まだ熱い珈琲を、できる限り早く飲もうとする。
「…………あんなやつらがウロウロしてるんだよ」
気に入らなかったか、ドクトルの言葉が飛んでくる。
「だから、使い方を習えと?」
頷くドクトルを、僕は鼻で笑う。
それを嫌いそうだと言ったのはどこのどいつか。僕は誰かに助けられるのを嫌うと。
「一つだけ教えてくれ」
「うん?」
「あの化物は、なんなんだ?」
習うべきことがあるならば、一つだけだ。方舟での常識と言うべきか。
ここにいる者達は一体何で、どんな生き方をしているのか? まずは、それ知らなければ。
「あれか……あれは……そうだな、元人間が、転生した先で、魂を暴走させた結果、成り果てたもの……かな」
「お前、歯切れの悪いことが多いぞ」
わざとだろうか?
「質問の仕方が悪いでしょ? 化物って言ったし。それに相当する者を考えると、そうとしかならないよ」
「滅多にいないのか」
「いや、寿命を使い切るから。ここまでは滅多に来ないだけ」
僕は一体どれだけ希少な目に遭えばいいのだ。
「なら、質問を変える」
ドクトルの言葉を遡り。
「転生した人間がここにいるのか?」
「いるよ」
平然と答えるとは。これからは質問の内容をもっと考えるべきかもしれない。
「じゃあ俺と同じようなのが――」
「あぁ、いや。君とは違うかな、君は死んでないし」
「どういうことだ」
「簡単なことだよ。ここで体を貰った魂は、人間になれないんだ」
質問の仕方が悪いとドクトルは言うが、コイツの説明も酷いと思った。
今しがた僕が、あの化物を……人間でないモノを見ていなければ、納得していなかった自信がある。
「じゃあ何になるんだ?」
と、僕が聞き返すと。
「人型の生き物になる」
と、ドクトルは続けた。
「名前はNS、ノアシード」
人型、というのがひっかかる。わざわざ人間と呼ばないのは何故だろうか。
自分とは違う存在。人間の転生先。
ノアシードか。
「次の目標は決まりだな」ドクトルの言葉を借りよう。「俄然興味が湧いてきた」
「君ってやつは」
腕を組んだドクトルは、部屋に置かれた機械の箱を見やる。
それから彼はしばらく黙った。僕が珈琲を飲み干すのを待っていたのかもしれない。僕が立ち上がろうとすると、彼はそれを聞きつける。
「なぜ化物と遭遇したか分かるかい?」
「さあ? たまたまだろう」
「だといいんだけどね……」
立ち上がる僕に背を向けたまま、機械の箱を撫でて言う。
「方舟における遭遇は、決して偶然足りえない。それだけは覚えておいて」
頷いておく。
それきり黙ると、僕に手の甲を向けて振る。
そろそろ出よう。次の目標はNSに出会うこと。それから――
「しばらく席を開けると思う」
――何日でもいいから、ここから離れてみることだ。
僕はドアノブに手をかけて。
「次帰ってくる時は、机が欲しいな」
扉を開けて、もう一度だけドクトルを見る。
彼は相変わらず背を向けたまま。
なぜだか、不穏なことが起こる気がした。
そんなわけはないと言い聞かせ、僕は目を閉じ一歩外へと踏み出す。
ぐるりと何かが入れ替わる感覚――これで三度目か――世界が一回転したかと思うと、僕の目に飛び込んだのは、見慣れつつある真っ黒な世界だ。
ノアの方舟に出た。
さて、おさらいといこう。
思いの強さで距離を縮める。
前回は一歩踏み出した途端、誰かの思いに惹き込まれたのだろう。だからあの化け物の元へ移動できた。
今度はこちらの番だ。
誰の元に辿り着くだろうか、それは分からない。だがとにかく誰でもいい。
再びあんな化物と相見えることになろうが関係ない。一体ずつなら相手に出来る。
だがなるべく頭の中から締め出しておこうと思った。
せめて今は。
人の形をしたものに会いたい。
ドクトルのような曖昧な存在ではなく、確固たる肉体を持った、誰かの元へ――
「一歩目だ」
留めていた足を踏み出す。
背後で世界がぐるりと回った気がして振り向くと、景色はやはり変わらない。
空を見上げてみても黒いまま。どうやら前回よりもさらに慣れている。目標は達成できそうだ。
ここで待っていても仕方なさそうだ。もう少し、歩いてみることにしよう。