第250話 胎中
アルドラside
「ふむ、これまた得体の知れぬ場所へと、迷い込んでしまったようじゃのう」
アルドラが立ち尽くすのは、出口の見当たらない閉鎖された空間。
薄紅色の肉壁が、静かに脈動を繰り返していた。ブーツ越しに触れる柔らかな感触。地下深くから刻まれる振動は命の鼓動を思わせる。
至る所に緩やかな窪みがあり、所々に赤黒い液体が溜まっていた。周囲に充満する高濃度の魔素。視覚化できるほどに濃縮された魔素は、迷宮でも深部にまで行かないとお目に掛かれない代物だ。
まともな人間なら長時間留まるのは危険だろう。とはいえ、アルドラ自身には全く影響のない事なので問題ない。いや、むしろ高濃度の魔素は魔力の回復を促進してくれるので都合が良かった。
「生臭い、鉄を含んだような臭気。ぬめりのある液体、まるで動物の血液のようじゃ。得体の知れない魔物、混沌とやらに飲み込まれ、これはまさに魔物の腹に納まったと言ったところかのう」
血の匂いが苦手と言うつもりは無いが悪臭を煮詰めた様な不快な空気は、アルドラとしてもあまり好ましいものではない。生存には問題ないが、長居するには相応しくない場所だ。
徐に壁に剣を突き立てて見たが、突き刺すことはできても、それ以上の効果は望めなかった。剣を引き抜くと湧き水のように血が噴出し、しばらくすると血が止まり壁の損傷も修復される。
硬く、やや弾力のある壁。どれ程の厚みがあるかは不明だ。これを破壊するのは骨が折れそうである。よしんば破壊できたとしても、それが脱出に繋がるかどうかはわからない。帰還も正常に発動できないようだし、脱出は思った以上に簡単には行かないようだ。
左手を壁に添えて部屋を一周するように調べてみる。このような現象に出会ったのは長い冒険者としても初めての事なので、脱出方法については見当も付かない。しかし、黙っていても仕方がない。ジンは元より娘たちの事が心配だ。
少し歩くと触れた手が切っ掛けになったのか、肉の壁が口を開く様にして入口を作った。開かれた場所から溜まっていた液体が、堰を切ったように溢れ出した。
「……誘っておるのかな。まぁ、それならそれで良いが」
小さくできた入口を潜り、先へと進むアルドラの目に飛び込んできたのは、少し前に見かけた巨体の魔人だった。
姿を消したのは見えたが、同じように飲み込まれていたようだ。
巨体から繰り出される拳が壁面を叩き付ける。
鈍い音を響かせて、肉の壁が大きく窪んだ。だが、それだけだった。変形した壁は、見る間に元の形状に戻っていく。
魔人の表情には冷静を装いつつも焦燥が混じってた。
「んん? 貴様は」
接近に気が付いた魔人がこちらへと向き直る。人族のようだが、膨れ上がった筋肉は巨人族を思わせた。ここまで大柄な人族も珍しい。
体つきでは前に会った帝国の冒険者にも負けないだろう。若者というには、少し歳を取っているかもしれない。しかし衰えは感じない。むしろ内側から強い魔力の流動を感じる。
ウルバスのそれよりも、より強力な……もしくは、完成された魔人ということだろうか。奴は自我を失っているようだった。ジンの出会ったという大森林の魔人も……
「おいおい、男に見つめられても嬉しくはねぇぞ。貴様は……それなりに出来そうだな? 暇つぶしには丁度いいか」
「ずいぶん好戦的な奴じゃのう。ここは一時休戦として、脱出の手立てを探るのがお互い良いのではないか?」
「ははは、心配するな。貴様を殺してから、ゆっくりと脱出方法は探ってみるとしよう。それよりも俺とまともに戦える練習相手が欲しかったところだ。せっかく手に入れた上等な身体と能力だが、訓練しないことには上手く使えないからな」
魔人は腰から魔法薬を取り出し、一気に飲み干した。
飲み終えた空き瓶を投げ捨てると同時に、魔人の肉体が一回り膨張する。
「ほう、魔人には複数の魔法薬を同時に摂取する能力があるのかな?」
「いや、これは俺だけに許された能力だ。元の能力に影響されているんだろうな」
魔人がアルドラに向かって構える。獣人族から体術を習っていたアルドラからすれば、どこから見ても素人同然の構えだった。
だが、備わった巨体とそこから考慮される腕力であれば、当然捕まるのは危険だと容易に推測できる。
「能力構成を見る限り、戦闘職ではないようじゃが。人間だったころは錬金術士とでも言ったところかのう」
アルドラには相手のスキルを見破る魔眼や鑑定のような能力は無い。情報は事前にジンより得ていた。
いかに強力な肉体を魔法薬で作りだしたとしても、それは仮初の姿に過ぎない。目の前の魔人には、アルドラが警戒する要素は何一つなかった。
捕まるのが危険だとしても、捕まらなければ良いだけの話だ。
「いい感しているぞ、名も知らぬ戦士よ。その肉体から戦士系と予測したが、単なる戦士ではないようだ。もしかして、その長耳……森人族か? 森人族の戦士など初めて見る、これは面白いな」
魔人の稚拙な攻撃を掻い潜り、アルドラは余裕の表情を向けた。
「ふむ、名乗るのが遅れたようじゃな。わしはアルドラ。今は森人族でも何者でもない、何処にでもいる珍しくもない戦士の1人じゃよ」
魔人が力任せに地面を叩くと肉の大地がぶるりと揺れ、血溜まりとなった窪地から生臭い水が撥ねる。
「……俺はドミニクだ。覚えなくてもいいぞ。どうせ長生きはできないだろうからな」
魔人ドミニクの攻撃はアルドラにとって児戯に等しかった。その動きを見れば戦士としての訓練はおろか、実戦経験も少ないのだろうと簡単に予測できる。
目を瞑っていても簡単に避けられる攻撃と侮っていたドミニクの腕がアルドラを捉えた。
「ぬうッ――」
「逃げられると思ったか? あいにく捕縛するのは得意な方でね」
巨人の如き剛腕。込められた力にアルドラの体がミシミシと悲鳴を上げる。
「くっ、採取スキルか。なるほど、生産スキルにも、そのような活かし方があるのだな」
純粋な能力ではアルドラの優位は揺るがない。スキルの補助があるとすれば、その辺りしか思い浮かばなかった。
「ああ、俺も今知ったところだ。実践して初めてわかることも多いというのは本当だな」
人形を弄ぶ幼児のように腕が捩じ切られた。
「ぐううッッ」
アルドラの額に汗が流れる。
「ははは、脆いな。長年鍛え上げた自慢の肉体が蹂躙されるのは、どんな気分だ?」
魔人の問いかけに苦悶の表情を滲ませる。
「……お前たちの目的は何じゃ? 魔人とはそんなに数多くいるものなのか?」
「俺たちの目的ねぇ。俺が指示されたのは結界破壊だけだぞ。後は好きにしていいと言っていたからな。魔人が何人いるかまで俺は知らん。……知っているのは4、5人程度だ。まぁ、実際にはもっといるんだろうがな」
放たれた魔人の拳がアルドラを打ち抜く。直撃を受けた体は紙切れのように吹き飛ばされ、激しく壁面に叩き付けられた。
壁を背にして崩れるアルドラがぼそりとつぶやく。
「何という膂力じゃ。魔人の力とはこれほどのものか……わしも魔人となれば、この膂力を手にすることができるのかのう」
「さて、どうかな。森人族は魔人化には向かねぇらしいからなぁ……いや、前に一人だけ成功例がいたって聞いたかな。ああ、いや、あれも失敗作だって話だったか。まぁ、いい。何にせよ、魔人となるには俺みたいに選ばれた人間でなければということだ」
「……わしが魔人となるには無理なのかな?」
「悪いな、新人勧誘は命じられてない」
魔人の手がアルドラに伸びる。無造作に首を掴まれ、骨の軋む嫌な音が響いた。
アルドラは苦悶の表情を浮かべながら、魔人の拠点や魔人化の方法について聞いてみた。
「あぁ? 貴様、自分の状況を理解していないようだな。今、貴様の命の行く末を握っているのが誰なのか。無駄口を叩く暇があった命乞いの一つでも――」
「あー、だめじゃ。だめじゃ。やはりわしには無理じゃー。相手から情報を引き出すなんぞ、回りくどいやり方は好かん。こんなやったこともないことを、やろうというのがどだい無理な話なんじゃ!」
「おい、ふざけるなよ」
「何か少しでも情報があればと思ったんじゃが、そこまでの地位は無いのじゃろ」
「貴様ッ――」
魔人の剛腕がアルドラの首を無造作に捻る。バキバキと骨の砕ける音を響かせ、だらりと脱力した体を怒りに任せて地面へと叩き付けた。
弾力のある地面が叩き付けられた威力で大きく歪む。呼吸も荒く、ドミニクは捨てられたアルドラの体を睨み付けた。
「普通の人間から魔人化、生産職であってもこれほどの膂力を得るとは恐ろしいものじゃ。これが経験を積んだ戦士であれば、更なる脅威となることじゃろう」
見るも無残な姿となったアルドラであったが、時間を置かずに立ち上がって見せた。ちぎり取られた腕はいつの間にか元に戻り、首の損傷も回復している。その様子は、まるで元通りと言う以外なかった。
「……な、なんだと? 貴様、一体どういう……」
アルドラは何もない空間から、二振りの大剣を取り出した。
「存外に口が軽い男で助かったが、あまり得るものはなかったのが残念じゃ」
大剣が宙を舞う。次の瞬間、ドミニクが反応するよりも早く、彼の両腕が地面に落ちた。
「――ッッあ!?」
「わしも暇ではないのでな」
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