第6話:雨の回廊、配牌の予感
翠蘭帝国の朝は、天を割るような雷鳴と共に幕を開けた。
後宮の甍を叩く雨音は激しく、広大な庭園に咲き誇る花々をも無慈悲に押し流していく。本来であれば屋外庭園で大規模な精霊供養の儀が執り行われるはずであったが、この慈雨によって急遽中止を余儀なくされた。
サポート女官であるセツが、苦虫を噛み潰したような顔で、分刻みの予定が書き込まれた帳面をパタンと閉じる。
「不測の事態です。本日の午前、屋外での公務は全て白紙といたします。レン様、次の室内業務が始まるまで、工房にて数刻の調整時間を設けます。……ただし、羽を伸ばしすぎては困りますよ」
「調整時間、ね。要するに、公式な『暇』ができたってことじゃない!」
レンは口元を覆う薄絹の下で、隠しきれない歓喜に声を弾ませた。
普段ならセツの監視とハクの護衛に挟まれ、一息つく間もない彼女にとって、この雨は天からの恵みに等しい。レンは足早に、雨飛沫に煙る回廊を工房へと向かった。その後ろを、ハクが雨の匂いを警戒するように鋭い視線を巡らせながら、二歩半の距離を保って歩いている。
工房の扉を閉ざすと、そこには外の荒天を遮断した、深い静寂が横たわっていた。
窓を打つ雨音だけが、心地よいリズムを刻んでいる。レンは鼻歌まじりに棚の奥から、仕事には到底使えないような質の悪い端石をいくつも取り出し、卓の上に無造作に並べた。
「管理監。公務が中止になったとはいえ、私はここで貴殿を監視し続ける。……その石を並べて、何をするつもりだ」
工房の隅、いつもの定位置で腕を組んだハクが、不審げに声を潜める。
「何って、精霊たちの運動会よ。あの子たちも、たまには狭い石の中から出て、思いっきり走り回りたいんですって」
「……理解できん。石はただの依り代だろう。貴殿の気休めに付き合わせるのは精霊に酷ではないか」
「ハク、あんたは本当に情緒がないわね。いいから見てなさいよ。あの子たち、私よりもずっとこの『暇』を楽しんでるんだから」
レンは一つ一つの端石に、指先から僅かな熱を流し込んだ。
職人としての術というにはあまりに繊細で、遊びというにはあまりに鮮やかな、指先の芸術。
石から這い出した小さな精霊たちは、実体を持たぬ光の粒となって卓上を舞う。レンがその内の一つを人差し指で弾くと、精霊は宝石の中で激しく回転しながら、卓の上を滑るように移動した。
(……いい滑り。やっぱり、雨の日は石の表面が湿気ていて、面白い軌道を描くわね。この摩擦の少なさ、高い手を作るには最高だわ)
レンの脳内では、卓上に並んだ精霊たちが、次第に特定の意味を持つ駒へと変貌していく。
右端で強く輝くのは皇后。その隣で煌びやかな火花を散らすのは貴妃。そして中央で静かに佇む、この名もなき端石こそが自分。
レンは無意識のうちに、精霊たちの位置関係を現在の後宮の勢力図に見立てて遊び始めていた。指先で一つ、また一つと石を弾くたび、卓上の「盤面」が刻々と変化していく。
「管理監。貴殿のその指の動き……単なる遊びにしては、あまりに『筋』が通り過ぎている。まるで、見えない戦場を支配しているかのようだ」
ハクの琥珀色の瞳が、卓上を滑る石の軌道を射抜くように追う。
「あら、あんたにそれが分かるの? そうよ、ハク。世界はいつだって、自分の思い通りにはいかない運命で満ちているわ。でも、どう打つかは自分で決められる。……それが、この退屈な後宮で生き残る唯一の術なのよ」
レンは宝石を高くトスし、再び鮮やかにキャッチする。その瞬間、窓の外で落雷が轟き、工房の床を激しく震わせた。
「……今の雷、大きな和了の予感がするわね」
「貴殿の言うことは、時折、予言者のように不気味だ。だが、この雨の中ではその不気味さすら静寂に溶けるな」
ハクは微動だにせず、レンの遊戯を見守り続けている。彼にとって、この時間は監視であり、同時に「レン」という理解不能な術者の深層に触れる時間でもあった。精霊が放つ魔力は雨の湿気に乗って、いつもより重く、濃く工房を満たしている。だが、ハクはその重圧を心地よいものとして受け流していた。
「ねえ、ハク。あんたなら、この盤面をどう動かす?」
「私は騎士だ。守るべきものを中心に据え、敵を排除するのみ。盤面をかき回すような真似はせん」
「つまらないわね。でも、その堅実さが私の背中を支えてるんだから、文句は言えないか」
レンは指先で宝石の端を叩き、卓上の「盤面」をさらに複雑にかき回す。
皇后に見立てた石が、貴妃の石を弾き飛ばし、隅へと追いやる。その僅かな隙間に、自分という石がするりと入り込む。遊びの中にこそ、本質が宿る。レンは宝石を弾くたびに、後宮という巨大な盤面における「均衡の崩れ」を、肌で感じ取っていた。
「管理監。雨が上がるぞ。雲の切れ間から日が差してきた」
ハクの声に弾かれたように顔を上げると、激しかった雨音が遠のき、工房に一筋の陽光が差し込んでいた。
セツが扉を叩き、午後の点検業務の再開を告げる声が、現実の秩序を引き連れて響き渡る。
「分かったわ。……さあ、皆。お遊びはここまで。仕事に戻るわよ」
レンは名残惜しそうに、卓上の精霊たちを石の奥へと眠らせ、再び背筋を伸ばした。
短い休息。だが、レンの指先は驚くほどに鋭敏さを増していた。ハクはそのレンの瞳に宿る、静かな、だが確信に満ちた光を見て、間もなくこの後宮という平穏な場に、何らかの「嵐」が吹き込むことを予感した。
「ハク。今の公務の中止、私にとっては最高の一局……いえ、最高の手直しになったわ」
「……何のことか分からんが、顔つきが変わったのは分かる。行くぞ、管理監。セツ殿が待っている」
回廊に出ると、洗われたばかりの緑の香りが満ちていた。
ハクは再びレンの二歩半後ろに立ち、その鋭い視線を周囲へ巡らせる。
「管理監。先程の貴殿の笑み……何か、良からぬことでも確信したような目だったな」
「良からぬこと? 心外ね。私はただ、次の『勝負』が楽しみになっただけよ」
レンは懐の宝石を一度だけ高く、どこまでも高く弾き上げた。
雨上がりの陽光を浴びて、精霊が虹色の火花を散らす。
後宮に新しい風が吹き抜ける。それは、レンの予感通り、平穏を食い破る嵐の序曲となるのか。勝負師の微笑みを薄絹に隠し、レンは次なる戦場へと歩を進めた。その足取りは、もはや迷いのない、確信に満ちたものへと変わっていた。
彼女の脳内では、すでに次の宝石をどう弾くか、その完璧な軌道が描き出されていた。
後宮という盤面が、静かに、だが確実に回り始めようとしている。




