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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第5話:セツの帳面と、消える火花

 翠蘭帝国の後宮において、太陽が地平線を割るよりも早く、一冊の帳面が開かれる音が静寂を切り裂く。

 サポート女官、セツ。彼女がその白皙の指先で繰る帳面は、後宮の官房より下賜された特別な羊皮紙で設えられていた。その一頁一頁には、宝石管理監であるレンの一日の全てが、一切の迷いもない墨文字で刻まれている。


「レン様、起床から三呼吸分遅れております。次の下級妃の方々との面会は、工房にて一刻後。それまでに現在の検品作業を終えてください」

「……セツ、まだ夜明け前よ。あんたのその帳面には、遊び心という名の余白は無いの?」

「レン様が職人としての品位を保つことは、皇帝陛下との契約の根幹です。私がこの帳面を死守することは、貴女の命を守ることと同義なのですよ。余白など、後宮の壁に塗り込められた毒に等しいものです」


 セツの声は、朝の冷気を含んだ泉のように澄み渡り、かつ容赦がない。レンは口元を薄絹で整えながら、卓の上に並べられた細かな装飾用の石に目を向けた。


「分かっているわよ。……でも、この数を見ているだけで指先が強張りそうだわ」

「職人の不平は、宝石に伝播します。左手はそのまま、右手で石の格を仕分けなさい」


 セツの指示は厳格だが、彼女がこうして分刻みのスケジュールに縛り付けるのは、後宮という伏魔殿からレンを守り抜くための結界でもあった。セツが記録し、調整するからこそ、レンは職人としての手仕事を汚されずに済んでいるのだ。


 工房での公務が始まれば、そこは息つく暇もない戦場となった。

 この日の依頼は、主に下級妃たちが身につける安価な装飾品への、精霊の再定着作業。一つ一つの石は米粒ほどに小さく、宿る精霊もまた脆弱だ。レンは数分おきに石を手に取り、唇を寄せ、己の命の火を吹き込み続ける。


「管理監。入り口に人だかりができている。術の余波で妃たちが騒ぎ出しているぞ」


 工房の入り口で、ハクが彫像のように立ち、鋭い視線を外へと向けた。

「……ハク、あんたがそこに立っているだけで十分な威圧感よ。彼女たちの視線を散らしてくれない?」

「私の職務は監視と護衛だ。妃たちの機嫌を取ることではない。貴殿こそ、その指先の震えを抑えたらどうだ」

「あんたに言われるまでもないわよ。……次、どうぞ。セツ、次の方を呼び入れて」


 下級妃たちは宝石の格が低いことに引け目を感じながらも、術者であるレンの顔色を窺い、時として隠微な願望を漏らす。

「管理監様、この石をもっと輝かせることはできませんの?」

「この子の色を、お隣の妃のものより濃くしてはいただけないかしら」


 そんな無遠慮な言葉の刃を、ハクは一瞥するだけで跳ね除けていた。

「――そこまでだ。術者に余計な雑音を聞かせるな。石を受け取ったなら速やかに立ち去れ」


 ハクの琥珀色の瞳には、精霊を道具としてしか見ない者への静かな拒絶が宿っている。ハクが放つ強靭な威圧感は、レンという繊細な「器」を保護するための、最も信頼できる防壁だった。


 しかし、どれほど完璧な壁があろうとも、レンの精神は摩耗していく。単調な作業であればあるほど、一瞬の油断が精霊の命を散らす。レンの指先は、まるで氷の上を歩くような慎重さで、宝石の核を探り当てていた。


 その瞬間は、不意に訪れた。

 セツが次の妃を招き入れるために、一瞬だけ工房の奥へと席を外した、わずか数十秒の「隙」。


(――今だわ)


 レンは疲弊した指先を癒やすように、手元の最高級の端石を高く弾き上げた。

 宝石が空中で独楽のように激しく回転し、窓からの日差しを吸い込んで鋭い閃光を放つ。その中で眠っていた精霊が、急上昇と落下の刺激に目を覚まし、チチッと歓喜の火花を散らした。


「……よし。今の回転、役満まで持っていけるわね」


 宝石を鮮やかにキャッチし、レンはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、職人の誠実さとは対極にある、勝負に勝つことだけを夢見るギャンブラーの貌だった。


「管理監、何をしている。ニヤニヤするなと言ったはずだ。今の動作、監視記録に不審な挙動として残さねばならんぞ」

「遊びじゃないわよ、ハク。これは私の調律なの。……こうして一瞬でも盤面を引き直さないと、私、本当の石になっちゃいそうだもの」

「非論理的な言い訳だ。貴殿のその奔放な気質、いつか皇帝陛下に知られれば……」

「知られたら、その時はその時よ。負けを認めるのも、勝負師の嗜みでしょ?」


 レンは開き直ったように宝石を弄り、戻ってきたセツの足音に合わせて、再び職人の無機質な仮面を張り付けた。ハクは重い溜息を飲み込み、再び監視の姿勢へと戻る。


 黄昏時、セツがようやく帳面の最後の一行を墨で消し、深く一息ついて表紙を閉じた。

「……本日の公務、全て予定通りに完了いたしました。お疲れ様でした、レン様」

「やっと終わったわ……。ねえセツ、明日は? 明日こそは、何か私の心を震わせるような仕事はあるの?」

「明日は終日、工房での在庫管理と記録の整理です。レン様が苦手な、数字と向き合う静かな一日になりますね」


 セツの非情な宣告に、レンは机に突っ伏した。

「……嘘でしょ。明日もまた、この平坦な場を流し続けるだけなの?」

「平坦な場、とは何のことですか。管理監として当然の義務です。ハク殿、レン様を自室までお連れして。一刻の遅れもなきよう」

「承知した。……行くぞ、管理監。足元がおぼつかないなら手を貸すが」

「結構よ、ハク。……でも、明日が静かなら、自分でもっと面白い場を作ってみせるまでだわ」


 工房に夕闇が降りる中、レンは今日一日の「仕事」という名の平坦な場を流し終えた満足感と、それゆえの、狂おしいほどの「飢え」を噛みしめていた。

 レンは暗がりの中で、もう一度だけ宝石をトスした。ハクの鋭い監視も、セツの帳面による束縛も、彼女の心に灯った勝負師の火を完全に消し去ることはできない。


「管理監、また石を弾いたな」

「……バレた? 精霊が喜びすぎて、ついね」


 明日という日がどんなに平坦であろうとも、自分だけは「高め」を狙い続ける。職人の城で、レンは独り、闇の中で不敵に微笑むのだった。


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