第18話:精霊のささやき、廃庭園の再会
本殿からの正式な呼び出しが宝石管理監の工房に届けられた瞬間、後宮を包む霧は、実体を持った刃となってレンの首筋に突きつけられた。
「星読み」の紋章が刻まれたその書状は、単なる喚問の通達ではない。伝統という名の法による、新興の術者への死刑宣告にも等しい重みを持っていた。セツは、紙を握りしめる指先が白くなるほどに帳面を強く閉じ、いつになく険しい声音でレンに告げた。
「レン様、状況は最悪です。星読みたちは、貴女の『奇行』を精霊に魂を売り渡した証拠として、公に断罪するつもりでしょう。明日の朝まで、一歩も外に出てはなりません。身を清め、一言の失言もなきよう、自室で己を律してください。これは私からの、最後のお願いです」
セツの言葉は、氷のように冷たく、かつてないほどの悲痛さを孕んでいた。彼女は呼び出しの背後にある各宮の動向を抑えるべく、嵐の中へと消えるように工房を後にした。
静まり返った工房で、レンは卓の上に残された研磨用の油を見つめていた。薄絹越しに漏れる溜息は、恐怖ではなく、喉を焼くような勝負への渇望によるものだった。
「……ハク。あんたも、そこに座っていろって言うの?」
背後二歩半。彫像のように直立していたハクが、重厚な軍靴の音を響かせて一歩、前へ出た。彼の琥珀色の瞳には、迷いと、それを凌駕する決意の火が灯っている。
「……セツ殿の命は、護衛官である私にとっても絶対だ。貴殿をこれ以上の窮地に立たせるわけにはいかん。だが、貴殿のその瞳……檻に閉じ込められた猛獣のようなその眼光を見れば、規律を説くことがいかに無意味かも理解している」
レンはニヤリと、薄絹の下で獰猛に唇を吊り上げた。
「流石は私の監視役ね、ハク。……最後にもう一度だけ、あの場所へ行きたいの。あの子に、私の『ツモ』を見届けてもらうためにね。あんたの背中、貸してくれる?」
ハクは短く、地を這うような溜息を吐いた。そして、自らの剣帯を締め直し、レンに向かって背を向けた。
「……一度だけだ。セツ殿に知られれば、私の騎士の称号も、貴殿の首も同時に飛ぶ。……掴まれ、管理監。一秒の遅滞も許さんぞ」
ハクはレンをその逞しい背に負うと、工房の窓から音もなく闇へと躍り出た。
近衛騎士としての隠密技術。それは戦場において敵を仕留めるための技だが、今のハクはそれを、一人の勝負師を聖域へと導くために行使していた。屋根裏の梁を渡り、人跡稀な回廊の影を滑るように駆け抜ける。ハクの跳躍は、月明かりを切り裂く一筋の矢のように鋭く、正確だった。レンは彼の肩越しに流れる夜の風を感じながら、その強靭な脈動を背中で受け止めていた。
辿り着いたのは、北の果て、廃庭園。
数日前に訪れた時よりも、秋の気配は深まり、草木の枯れた匂いが鼻腔を突く。しかし、その廃屋の影に、以前のような死んだ沈黙はなかった。
月明かりの下、崩れかけた噴水の縁に腰を下ろしていたのは、八歳の皇子、リンだった。
「……レン! くると思ってた。精霊が、きみが近くにいるって、ずっと言ってたんだ」
駆け寄ってきたリンの瞳を見て、レンは息を呑んだ。
以前、泥を弄んでいた時の虚無は、もはや微塵も残っていない。その小さな掌には、レンが贈った青い端石が、夜の闇を透かすような力強い光を放って握られていた。石の中に宿る精霊は、主の心拍に呼応するように穏やかで、かつ透徹したリズムで明滅を繰り返している。
「いい目になったわね、リン。……石が、あんたの意志を食べて、強くなっているわ」
「うん。ぼく、この子と一緒に、暗いところでも歩けるようになったよ。レン、あした、すごいたたかいがあるんでしょう? 精霊が、空気がビリビリしてるって言ってる」
リンの言葉に、レンは職人として、そして勝負師としての誇りを込めて頷いた。
ハクはその二人のやり取りを、二歩半の距離を保ったまま、戦慄にも似た感情で見守っていた。捨てられたはずの駒が、レンという名の打ち手の一振りによって、王の威厳すら漂わせる「逆転の伏牌」へと変貌している。
「ええ。明日は、ちょっと大きな盤面をひっくり返しに行ってくるわ。だからね、リン。あんたに、私の勝ち運を分けてもらいに来たのよ」
リンはレンを見つめ、真剣な面持ちで自らの懐を探った。そして、小さな指先で差し出したのは、奇妙な多面体をした、未研磨の黒い原石だった。
「……これ、庭の奥にある、お母様が大事にしていた古い箱のしたで見つけたんだ。これ、精霊はいないけど、すごくおもいんだ。……これで、レンを助けて」
レンがその黒い石を受け取った瞬間、全身に電撃が走った。
これは、ただの石ではない。数千年の地圧に耐え、あらゆる魔力を吸着して反発させる「極限の静」を纏った原石。職人としてのレンの知識が、これが星読みの放つ伝統的な魔力――天体の圧力を無力化させるための唯一の対抗手段であることを直感させた。
(……信じられない。こんなところで、最強の『有効牌』をツモるなんて)
レンは石を握りしめ、震える指先を隠すように笑った。
「リン……。あんた、最高の打ち手になるわよ。この石、私の『役』の最後の一枚にさせてもらうわ」
「管理監、時間が限界だ。セツ殿が自室を確認するまで、あと半刻(約一時間)もない。戻るぞ」
ハクの声には、緊迫感と同時に、どこか晴れやかな覚悟が混じっていた。
「分かったわ。……リン、次に会う時は、この場所じゃないわよ。もっと高くて、もっと光の当たる場所。そこで、あんたのその石の輝きを、世界中に見せつけてあげなさい」
「うん、約束だよ、レン!」
レンはリンから受け取った黒い石を、自らの胸元、肌に直接触れる場所に収めた。
ハクは再びレンを背負い、夜の風となった。
帰り道、ハクの背中でレンは囁いた。
「ねえ、ハク。あんた、規律を破ってまで私をここへ連れてきてくれたわね。……今のあんたのその『一手』、私の人生の中で一番の救いだったわよ」
「……黙っていろ。私はただ、護衛対象の精神の安定を図っただけだ。……だが、明日の本殿、貴殿が負ける姿だけは見たくないからな」
セツの待つ工房へ戻る頃、レンの指先にはもはや微塵の震えもなかった。
手元には、リンから託された黒い逆転の石。
背後には、規律を捨ててまで自分を信じた最強の騎士。
明日の本殿での対局(喚問)は、もはや防戦ではない。
伝統という名の厚い壁を、正面から叩き割り、全ての牌を奪い尽くすための、狂気と歓喜に満ちた「反撃」の始まりだった。
夜明けが近い。
レンは不敵な笑みを浮かべ、黒い石の重みを噛み締めながら、運命の卓へと足を踏み出した。




