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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第15話:孤独な皇子への贈り物

 翠蘭帝国の後宮において、北の果ては陽の光すらも立ち入るのを躊躇うほどに深い沈黙に沈んでいる。

 後宮の華やかな中心部、妃たちが競い合うように極彩色の衣を翻す場所から遠く離れたこの領域は、かつては王族が酷暑を避けるための離宮として栄華を極めたという。だが今やその面影は、蔦に厚く覆われ、崩れかけた石壁の隙間に辛うじて残るのみであった。手入れの届かぬ生垣は野放図に伸びて回廊を侵食し、ひび割れた石造りの噴水は、もはや水を噴き出す術を忘れ、底に分厚い落ち葉の層を溜め込んでいる。


 女官たちの間で立ち込める不吉な「霧」の噂。レンをその喧騒から物理的に遠ざけるため、ハクが選んだ避難先が、この打ち捨てられた「忘れられた庭」であった。


 レンは湿った土と、長い年月を経て腐朽した木材の匂いが混じり合う空気の中を、静かに歩を進めていた。石床には苔が蒸し、一歩踏み出すたびに靴底が僅かな湿り気を吸い上げる。

 ハクは、いつものようにレンから正確に二歩半の距離を保ち、その鋭い琥珀色の瞳を周囲の藪へと配っていた。彼の指は常に剣の柄に掛けられており、微かな風の揺らぎ、あるいは鳥の羽ばたき一つに対しても、過敏なほどの殺気を放って応じている。


「……ハク。ここ、本当に人が住んでいるの? 静かすぎて、まるで時間の流れが止まってしまったみたいだわ。耳の奥が痛くなるような静寂ね」

「……ここは、後宮の公式な記録からも半ば消えかけている場所だ。管理監、あまり声を大きくするな。死んだ場所には、死んだ時間のままにしておくのが賢明というものだ。不必要な音は、ここでは害にしかならん」


 ハクの警告は低く、地を這うような重みを孕んでいた。彼にとってこの庭園は、護衛対象を隠すには格好の場所であるが、同時に、政治的な闇が最も深く澱んでいる場所であることも理解していた。ここは、光の当たる場所で敗れた者たちが、静かに消えていくための墓標なのだ。


 その時、レンの視界の端に、微かな「動き」が映った。

 崩れかけた東屋の影。陽の当たらないその冷たい地面に、泥だらけの、かつては極上であったろう絹の衣を纏い、蹲っている小さな影があった。

 翠蘭帝国の第一皇子、リン。

 母親が身分を剥奪され、後ろ盾を完全に失った彼は、この広大な後宮という盤面において、誰にも顧みられることのない「捨てられた駒」であった。


「……あの子が、そうなのね」


 レンは足を止め、その小さな背中をじっと見つめた。

 八歳。本来であれば帝王学の基礎を学び、数多の教育係や護衛官に囲まれて、未来の皇帝としての歩みを始めるべき年齢だ。だが、今の彼に付き従う者は誰一人としておらず、その指先は温かな精霊の輝きを知る代わりに、冷たい泥を弄ぶことしか許されていない。

 リンが手の中で捏ねているのは、宝石でもなければ玩具でもない。ただの、冷たく濁った土の塊だった。


「管理監。これ以上近づくことは推奨できん。あの御方は、現在の宮中における序列からは完全に切り離されている。関わりを持てば、貴殿の立場に致命的な乱れが生じるぞ。セツ殿の帳面に、決して消せぬ汚れを残すことになる。それは、貴殿をここから追い出す口実を与えるのと同じだ」


 ハクがレンの肩を制するように半歩前に出た。彼の言葉は、騎士としての規律に裏打ちされた非情なものだったが、それがこの後宮という盤面における、残酷なまでの正論であった。この少年に触れることは、すなわち「敗北」という不吉な流れを自身に引き込むことに他ならない。


 しかし、レンはハクの手を優しく、だが拒絶の意志を込めて退けた。


「立場? 汚れ? ……そんなもの、最初から私の盤面には関係ないわよ、ハク。あんたには見えない? あの子の周囲だけ、あまりにも『配牌』が悪すぎるわ。生まれてから一度も、自分の手牌を入れ替える機会すら与えられていないのよ。そんなの、勝負ですらない。ただの虐待だわ」

「……配牌。また、理解不能な言葉を。貴殿のその性質、いつか本当に命取りになるぞ」

「いいのよ。私は、負けの込んでいる奴を見ると、つい加勢したくなるタチなの」


 レンは乾いた落ち葉を鳴らし、ゆっくりとリンのもとへ歩み寄った。

 足音に気づいたリンが、弾かれたように顔を上げた。その瞳を見た瞬間、レンの胸の奥で、職人としての、そして勝負師としての猛烈な憤りが燃え上がった。

 そこには、子供らしい輝きなど微塵もなかった。あるのは、自分を害する世界への深い怯えと、何も期待することをやめてしまった、澱んだ沼のような虚無。


「……だれ? また、ぼくを、いじめにきたの? それとも、ころしにきたの?」


 リンの声は、枯れ葉が擦れるような、か細い震えを伴っていた。彼は握りしめていた泥を、まるで唯一の武器であるかのようにレンに向け、小さな身を固く強張らせる。


「いいえ。私は宝石管理監のレン。……あんたに、ちょっとした『お遊び』を教えに来たのよ、坊や。あんた、面白いことが嫌いなわけじゃないでしょう?」


 レンは少年の前に膝を突き、視線を同じ高さに合わせた。薄絹越しに伝わる彼女の呼吸は、かつてないほどに静かで、かつ激しい情熱を孕んでいた。

 背後ではハクが溜息を飲み込み、周囲の藪に伏兵がいないかを確認しながら、レンを背後から守るように、抜剣せんばかりの鋭い殺気を放って立ち塞がった。彼が壁となることで、この荒れ果てた庭園の一角に、一瞬だけの、誰の目も届かぬ「聖域」が作り出された。


「ほうせきも、せいれいも……ぼくには、かんけいない。ぼくは、のろわれた子だって、みんな言ってた。ぼくがさわると、石も死んじゃうんだって」

「呪い? そんなの、誰が決めたのかしらね。少なくとも、私の盤面ではそんな役は存在しないわよ。あんたが触って死ぬ石なら、私が命を吹き込み直してあげるわ」


 レンは懐から、一袋の端石を取り出した。

 それは昨夜、ハクに殺気と誤認させるほどの激しいトスを繰り返し、レンの勝負師としての熱に当てられて、限界まで魔力が充填された石であった。

 後宮の誰もが、リンを「価値なき者」として捨てた。

 ならば自分は、職人の技と勝負師の意地を懸けて、この「捨てられた駒」を、誰もが予想だにしなかった「逆転の役」へと書き換えてやる。


 レンは少年の震える手を取り、その泥を自らの指で優しく拭った。

「いい、よく見ていなさい。これが、本物の命が目覚める瞬間よ。あんたのその冷たい指を、今すぐ私が熱くしてあげるから」


 レンの瞳に宿る、不敵なまでの自信。

 少年の瞳に、初めて小さな、本当に小さな「期待」の光が宿ったのを、レンは見逃さなかった。


 レンは手元にある一振りの端石を、リンの鼻先へと掲げた。

 それは本来、高貴な妃たちが身にまとう宝石のような透明感も、研磨された滑らかさもない。歪な形をした、傷だらけの紅い石の欠片に過ぎない。しかし、その石の芯には、レンが昨夜から執拗に注ぎ込み続けた、暴力的なまでの勝負師の気魄が凝縮されていた。


「……管理監。よせ、それ以上の術の行使は、貴殿の身体に障る。公務外での限界を超えた魔力の放出は、契約違反以前に自死に等しい行為だ」


 ハクの鋭い制止の声が、夕闇の迫る庭園に響く。だが、レンはそれを聞き入れるつもりは微塵もなかった。

 彼女は深く、肺の奥底にある全ての熱を絞り出すように息を吸い込んだ。その瞳は、眼前の不条理な盤面を叩き壊さんとする、熾烈なまでの勝負師の光を湛えている。

 レンは、口元を覆っていた薄絹を、自らの指で荒々しく引き剥がした。

 露わになったレンの唇が、冷徹な端石の肌へと、逃げ場を塞ぐように直接触れた。


「――目覚めなさい、私の子! この子の孤独を、熱に書き換えろ!」


 それは祈祷というにはあまりに激しく、咆哮に近い息吹であった。

 レンの命の奔流が、職人としての誠実な願いと、勝負師としての傲慢な意志を伴って、石の奥底へと叩き込まれた。

 刹那、荒れ果てた庭園の静寂を、激しい輝きが食い破った。


 ひび割れた石の隙間から、夜空の深淵を閉じ込めたような、濃密で力強い青い光が溢れ出した。

 光は螺旋を描いて空へと舞い上がり、やがて小さな、だが全身に鋭い針のような鱗を纏った、青い竜の姿をした精霊が顕現した。

 その精霊が放つ熱量は、後宮のどの高貴な妃が持つ最高級の宝石よりも、野性的で、かつ気高い輝きを放っていた。精霊は主であるレンの周りを一度だけ力強く旋回すると、驚愕に目を見開くリンの肩へと、ふわりと舞い降りた。


「……あ、あたたかい。これが、精霊……? ぼくを、噛んだりしないの?」


 リンの小さな、泥の汚れが残る掌が、精霊の宿った端石を恐る恐る包み込む。

 冷たい泥を弄んでいた少年の指先に、初めて「命の鼓動」が伝わった。精霊はリンの孤独な心に寄り添うように、その頬を光の尾で優しく撫で、チチッと、世界への挑戦状のような鋭い産声を上げた。


「いい、坊や。これは、あんただけの『いし』よ。今はただの石ころに見えても、あんたが信じて磨き続ければ、いつか盤面そのものをひっくり返せる、唯一無二の役になる。……後宮の連中が、あんたを捨てただの呪われただのと何を言おうと、あんたの価値を決めるのは、あんたの手の中にあるその輝きだけよ。……分かった?」


 レンの声は、職人としての厳格さと、勝負師としての不敵な励ましに満ちていた。

 精霊の温もりに触れたリンの瞳に、初めて確かな生命の火が宿る。絶望に塗りつぶされていた少年の心に、レンは「勝負師の誇り」という名の、最も危険で、かつ最も強靭な種を植え付けたのだ。


「ぼくの……いし。ぼくの……精霊。……ぼくは、まだ、負けてないの? ぼくも、だれかを守れるの?」

「負けてないわよ。あんたの勝負は、たった今始まったばかりなんだから。……いい? どんなに配牌が悪くても、盤面を自分から投げ出した奴から、本当に負けていくの。あんたは、最後まで自分の手の中にあるものを信じなさい。そうすれば、いつか必ず『ツモ』る瞬間が来るわ」


 ハクは無言のまま、少年の小さな背中に、これまで向けたことのない柔らかな視線を送っていた。彼の規律正しい世界では、後ろ盾のない皇子に力を与え、政治的な火種を自ら撒くなど、狂気の沙汰でしかない。だが、レンが少年の絶望を、一振りの宝石で希望へと書き換えたその「術」の美しさに、武人としての彼は、静かに平伏したいほどの衝動を覚えていた。


「レン様! ハク殿! 帰還の刻限です。これ以上の長居は、セツの帳面が血を流すことになりますわ! ……って、レン様!? そのお姿は……!」


 セツが遠くから、息を切らして駆け寄ってくる。彼女は薄絹を外したレンの姿と、その掌で眩く輝く青い精霊を一目見るなり、驚愕のあまり手に持った帳面を落としそうになった。だが、レンの瞳に宿る、一切の妥協を許さぬ勝負師の光を見て、それ以上は何も言わなかった。


「行きましょう、二人とも。……最高の和了の予感がするわ」


 レンは再び薄絹を丁寧に整え、立ち上がった。

 リンに背を向け、一度も振り返ることなく歩き出す。それは、少年に「独りで立つこと」を強いる、勝負師としての最後の手向けであった。

 ハクはレンの二歩半後ろに戻り、一度だけリンに、かつて一人の皇子に捧げたであろう最高の礼を執ってから、レンの影を追った。


「管理監。今の行い、いつか自らの首を絞める、毒よりも鋭い刃となるぞ。後宮を一つにまとめるつもりか」

「毒かしら? 私は、これ以上ない『待ち』を作ったつもりだけど。……ハク、あんたも気づいたでしょ。あの子のあの目。あれは、いい打ち手になるわよ。後宮というこの退屈な盤面を、いつかあの子がかき回してくれるはずだわ」


 レンは夕闇の中で、懐に残った宝石を高く、静かに弾き上げた。

 孤独な皇子という、最大にして最後の「面子めんつ」。

 第一章、ここに完遂。

 後宮という盤面に撒かれた、小さくも致命的な火種。

 レンの指先は、次なる局面、すなわち茶師との本格的な共謀、そして「後宮麻雀」という名の嵐の始まりを予感し、歓喜で激しく、熱く震え続けていた。


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