第14話:セツの警告、後宮の霧
翠蘭帝国の後宮において、噂とは形のない霧のようなものだ。それは風に乗って音もなく忍び寄り、一度立ち込めれば、どれほど強固な石壁であっても容易に透き通って、人々の心を蝕んでいく。
宝石管理監としてのレンの名声は、日に日に高まっていた。彼女の手によって命を吹き込まれた精霊たちは、どの術者のものよりも健やかで、主の心に寄り添う。しかし、その輝かしい名声の影で、もう一つの、より不気味で不可解な噂が、湿り気を帯びた石造りの回廊にまとわりつき始めていた。
その日の夕刻、工房へ戻る回廊は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
等間隔に配置された燭台の火が、すきま風に煽られて心細げに揺れている。レンが歩みを進めるたび、角を曲がろうとした女官たちが、彼女の姿を認めるなり弾かれたように足を止め、逃げるように去っていく。その後ろ姿からは、ひそひそと濁った囁きが尾を引いて聞こえてくる。
「管理監様は、誰もいない夜の回廊で、精霊を呪うような不吉な言葉を口にしているらしい」
「宝石を高く弾き上げ、それが落ちてくるまでの間、彼女の瞳にはこの世のものとは思えぬ火が宿るそうだ。……あれは、精霊に魂を半分食われているのだわ」
和了、ツモ、役満貫。
レンが勝負師としての高揚と共に漏らすそれらの言葉は、麻雀という概念を知らぬ者たちにとって、精霊を操るための禁忌の呪文、あるいは精神を病んだ術者の妄執として解釈されていた。後宮という閉鎖された盤面において、理解不能な「異物」は、それだけで恐怖を煽る十分な材料となる。
レンの背後、正確に二歩半の距離を歩くセツが、手に持った帳面を指先で強く、苛立ちを隠さぬ音で叩いた。パチン、と乾いた音が静まり返った回廊に反響する。
「レン様。聞こえていますか、あの羽虫が羽ばたくような不快な囁きが。貴女の最近の振る舞いは、職人としての神秘性を損なうどころか、後宮に無用な恐怖を植え付けています」
セツの声は、冬の朝の冷気を含んだ泉のように澄み渡り、かつ容赦がなかった。彼女は立ち止まることなく、帳面の余白に書き込まれた後宮内の動向――どの宮の女官が、どのタイミングでレンを避けたかという詳細な記録――を睨みながら言葉を続ける。
「後宮という盤面において、正体不明の駒は真っ先に排除の対象となりますわ。貴女が弄んでいるのは宝石ではなく、ご自身の命と立場であることを、いつになったら理解されるのですか? 職人の貌を脱ぎ捨てた瞬間の貴女は、あまりに無防備で、かつ傲慢に見えますわ」
「大げさね、セツ。私はただ、仕事の後の心地よい余韻を楽しんでいるだけよ。噂なんて、風が吹けば散るようなものじゃない。それに、私が最高の仕事をしている事実は変わらないわ」
レンはいつものように、懐の端石を指先で弄りながら軽く受け流した。しかし、セツは不意に足を止め、レンの前に回り込んでその行く手を塞いだ。セツの瞳には、単なる小言ではない、真に迫った危惧の色が滲んでいた。
「放っておける段階は過ぎました。……ハク殿、貴殿からも何か仰ってください。昨夜、回廊で起きたあの不穏な『抜剣』の件、私がどれほどの労力を割いて記録から抹消したと思っているのですか。騎士団の間でも、貴殿が管理監に斬りかかろうとしたのではないかという、あらぬ疑念まで浮上しているのですよ」
水を向けられたハクは、レンから二歩半の距離を保ったまま、彫像のような沈黙を崩さなかった。彼の琥珀色の瞳は、回廊の影、柱の裏、天井の梁に至るまで、一切の死角を残さぬよう監視し続けている。その殺気すら孕んだ視線は、周囲を伺う者たちを一瞥するだけで射すくめ、物理的な沈黙を強いていた。
「……セツ殿の言う通りだ。管理監、貴殿の気配は、もはや一人の術者の枠を越えている。昨夜、貴殿が宝石を弾いた瞬間に放たれたあの熱量……。武人であれば、あれを殺気と呼ばぬ者はいない」
ハクの声は低く、地を這うような重みがあった。彼は前夜、レンが弾き上げた宝石に反応し、反射的に剣を抜いてしまった自分自身の動揺を、未だに噛みしめている。
「私は貴殿を守るためにそこにいる。だが、貴殿自身が周囲に『敵』を招き寄せるような波動を放ち続ければ、いずれ私の盾にも限界が来る。貴殿のその奇行は、もはや術の副作用という言い訳では通らん。……正直に言えば、今の貴殿は、何者かに取り憑かれているのではないかとすら疑いたくなる」
ハクの言葉には、騎士としての誠実な懸念と、理解不能な「勝負師」の貌への本能的な拒絶が混じっていた。
「排除されるのが怖くて、勝負ができると思う? 噂なんて、場の流れを支配するための撒き餌みたいなものよ。……ねえ二人とも、よく見てなさいな。相手が勝手にこちらを深読みして怯えてくれるなら、それは私にとって、最も『打ちやすい』状況になるんだから」
レンはニヤリと、薄絹の下で残酷なまでに不敵な笑みを浮かべた。
彼女は周囲の警戒の視線すらも、自分が有利な手を作るための「材料」として捉えていた。わざと不可解な言動を重ね、自分の正体を掴ませないことで、敵対勢力の出方を伺う。それは、卓を囲む前に相手を心理的に揺さぶり、自滅を誘う、勝負師特有の戦術であった。
「……やはり、話になりませんね。貴女は勝負師のつもりかもしれませんが、後宮はルールのある遊戯の場ではありません。一打のミスが、そのまま死という名の罰則に直結する奈落です。貴女が笑っているその足元に、どれほどの泥濘が広がっているのか、少しは想像しなさい」
セツは静かな、だが断腸の思いを込めたような手つきで帳面を閉じ、レンを冷徹に射抜いた。
「霧は、私たちが思うよりもずっと深く、そして不吉な色に染まっています。伝統権威である星読みたちは、貴女のその『異常性』を、術の独占と管理監解任のための絶好の足がかりにするつもりでしょう。彼らにとって、貴女のその笑みは最高の供物なのです」
「……ハク殿、これより先、管理監の単独行動は一切禁じます。移動の際は必ず貴殿が身体を寄せて護衛しなさい。少しの隙も、霧に喰われる隙を与えてはなりません」
「承知した。一秒たりとも、視界からは外さん。……行くぞ、管理監。これ以上の散策は、自ら首を差し出すに等しい」
ハクの短い返答は、単なる護衛の誓い以上に重く、退路を断つような決然としたものだった。
レンは二人の過剰なまでの反応に肩を竦め、夕闇が支配し始めた空を仰いだ。湿り気を帯びた風が、彼女の頬を撫で、薄絹を不規則に揺らす。
「いいわ。霧が深ければ深いほど、晴れた時の和了は最高に気持ちいいものよ。……ねえハク、そんなに怖い顔をしないで。私の今日の運気、あんたが後ろにいるおかげで、かつてないほどに研ぎ澄まされているんだから」
レンは懐の中で、練習用の端石を一度だけ、指の跡が残るほど強く握り込んだ。
星読みの蠢き、女官たちの噂、そしてハクとセツの懸念。それら負の要素すらも、今の彼女にとっては、自分をより高みへと押し上げるための「点棒」のように感じられた。
霧の向こう側で、誰かが冷たい刃を研いでいる。
その事実が、レンの勝負師としての血を、かつてないほどに熱く、激しく沸き立たせていた。
レンは不敵な笑みを隠さぬまま、闇が支配し始めた長い回廊を、一歩ずつ力強く、そして優雅に踏みしめて進んでいった。その足取りには、絶望への怯えなど微塵もなく、ただ勝利への最短距離を歩む者だけが持つ、不吉なまでの確信が宿っていた。




