第40話「三太刀」
振り下ろされる刃の軌道を、セラフィーナは見ていなかった。
背後の空気が裂けた。鋼が風を噛む音。それと、重い鎧の継ぎ手が軋む振動が、渓谷の岩壁に跳ね返って左耳に届いた。
右からの大振り。上段。利き手は右。肩が入りすぎている。
判断に使ったのは、その三つだけだった。
半歩。
左の足をわずかに滑らせるように、半歩だけ——位置をずらした。
豪奢な剣が、ほんの一瞬前まで首があった空間を通過した。空振りの慣性が大柄な体を前のめりに引きずり、鎧の重さがそれを加速させた。ヴァルドーの右肩が視界の端をかすめて、そのまま前方へ流れていく。
背中の向こう側で、靴底が砂利をこする音がした。体勢を立て直そうとしている。
セラフィーナは、そこでようやく振り返った。
*
松明の照り返しに浮かぶ男の横顔は、およそ三歩先にあった。空振りの勢いで前のめりになり、右足を踏ん張って止まったところだった。
見るまでもなかったが——見えた。
肩の入り方。右足首の角度。重心が前に残っている。
次に振り返ろうとする軌道が、肩の筋の張りで読める。どこに力を入れ直そうとしているかが、鎧の継ぎ目の隙間から見える。
全部。
全部、遅い。
鞘鳴りは短かった。セラフィーナの右手が柄を掴み、刃を引き抜き、二歩を踏み込む——その全てが、ヴァルドーが振り返るよりも早かった。
*
一太刀。
踏み込みの終点で、低い一閃がヴァルドーの右足首を払った。
斬ったのではない。脛当ての隙間、足首の腱の真上を鋼の腹が叩いた。感覚を奪うだけの、それ以上でもそれ以下でもない一打。
だが、それで十分だった。
踏ん張りの軸を失った巨体が、重装の鎧ごと傾いだ。体重に鎧の重量が加わった塊が、重心を支える足首一つを失えばどうなるか。片膝が地面に落ちる。砂利が弾けた。咄嗟に剣を杖代わりに突こうとした右腕が、鎧の重さに負けて半拍遅れる。
姿勢が、崩れた。
*
リシェルは声を出せなかった。
喉がかすれているせいではない。声を出す隙が、なかった。
教官が振り返ってから、まだ二拍も経っていない。
ヴァルドーの突進を見た時、叫ぼうとした。「教官」と。だが舌が動くより先に——教官の左足が半歩滑り、豪奢な剣が空を斬り、教官の刃が鞘を離れ、二歩が砂利を蹴り、一閃が足首を払い、膝が砂利を叩いた。
それが、全部、瞬きの間に起きた。
リシェルの記憶にある「三太刀」が、始まっていた。
*
二太刀。
片膝をついたヴァルドーが、それでも剣を振った。地面を軸にして、なりふり構わず横に薙ぐ。力任せの振りだった。腕力だけで刃を走らせる、およそ剣術とは呼べない一振り。
セラフィーナはその刃を避けなかった。
右足で軽く踏み込み、自らの剣の峰をヴァルドーの刃の腹に合わせた。
——叩いた。
正確には、刃の「最も薄い部位」を、振りの慣性が最大になる瞬間に、側面から打った。
乾いた音がした。
金属が折れる音ではない。砕ける音だった。豪奢な装飾を施した幅広の刃が、根元から三つに割れ、破片が松明の光を受けてきらきらと散った。
手元に残ったのは、柄と鍔だけだった。
ヴァルドーの手から、それすらも滑り落ちた。
砂利の上に金属が転がる音。それから、重い体が尻餅をつく鈍い音。鎧が地面を打って、がしゃん、と鳴った。
*
静寂が落ちた。
戦場整理の雑踏が、歓声が、搬送の声が——すべてが止まった。
くびれ地形の底にいる百を超える目が、一点に集まっていた。
尻餅をついた大男。その前に立つ、銀灰色の髪の女。
セラフィーナは一歩、前に出た。
ヴァルドーの目の前で、止まった。
喉元に、刃を向けた。
ゆっくりと。見せつけるように。だが、その動作に演技の気配はなかった。必要だから突きつけている。ただそれだけの、冷たい所作だった。
刃の先端が、ヴァルドーの喉仏の二寸手前で止まった。刀身はまったく揺れていない。
セラフィーナの右手は剣の柄を握っている。
左手は——懐に入っていた。
そこにあるものを、握っていた。
欠けた剣の鍔。
*
ヴァルドーの目に、刃の先端が映っている。松明の光を拾って、鈍い橙色に光っている。
その向こう側に、セラフィーナの顔があった。
右頬に乾いた返り血。銀灰色の髪が松明の熱で揺れている。左掌の止血帯は赤黒い。
そして——目。
感情が、なかった。怒りも、軽蔑も、憎悪も。ただ対象を観測している、あの目。教え子に立ち位置を指示する時と同じ温度の、あの目が、喉元に刃を突きつけた相手を見下ろしていた。
ヴァルドーの口が開いた。閉じた。喉が上下した。音が出ない。
刃が首を刈る光景を、あの目が何の感慨もなく見届けるのだろうということが、ヴァルドーの全身から力を抜いた。尻餅をついた姿勢のまま、腰が砂利の上で滑り、半ば仰向けに崩れた。
セラフィーナの膝が、静かに折れた。
片膝を砂利につき、仰向けに崩れた男の喉元まで身を屈める。刃の先端が、再びヴァルドーの喉仏の二寸手前に据えられた。
逃げ場を塞ぐように。覗き込むように。だが、その視線に覗き込む者の興味はなかった。
「——」
セラフィーナが、口を開いた。
声は低かった。渓谷の岩壁に反射して、不自然なほど明瞭に響いた。
「あなたの剣の軌道は、肩の入りだけで全部読めました」
淡々と。
「踏み込みは浅い。刃筋は曲がっている。重心の移動は教本の一頁目にも及ばない」
淡々と。
「——誰かに斬りかかっていい剣ではなかった」
ヴァルドーの喉から、引きつったような音が漏れた。
セラフィーナの左手が、懐から出た。握った拳の隙間から、黒ずんだ金属の端が見えた。
欠けた剣の鍔。
それを、ヴァルドーの目の前に掲げるように。
「……二度も、同じ地獄に付き合うとでも思ったのですか」
声の温度が、一段下がった。
リシェルの位置からでも、空気が変わったのが分かった。周囲の兵士たちが無意識に半歩退いた。恐怖ではない。氷点下の空気が肌に触れたような、本能的な後退だった。
セラフィーナの声は震えていない。
「……あなたはずっと、勝たせてもらっていただけです」
*
沈黙。
渓谷に風が通り抜けた。松明の炎が一斉に揺れ、影の形が一瞬だけ変わった。
その沈黙を破ったのは、ヴァルドーだった。
「——嘘だ」
声が裏返っていた。
「嘘だ、嘘だ……私は副団長だぞ!」
半ば仰向けの体を捩り、周囲に顔を向けた。松明の明かりに照らされた百余の兵士が、そこにいた。棺桶小隊。正規兵。精鋭部隊の生き残り。
全員が、見ていた。
「誰かこいつを捕らえろ! これは反逆だ! 私は王国最強騎士団の副団長だぞ!」
喚いた。
応じる者は、いなかった。
ヴァルドーの近衛兵だった者たちが、視界の端にいた。松明を持ったまま、微動だにしない。目を逸らしている者。地面を見ている者。一人として、元の主に歩み寄る者はいなかった。
「なぜだ……なぜ誰も——」
声が、尻すぼみに消えた。
セラフィーナは刃を引かなかった。片膝をついたまま、刃先はヴァルドーの喉元、二寸の位置で止まっている。感情のない目で、崩壊していく男を見下ろしている。
リシェルの耳に、ヴァルドーの声がまだ響いていた。しかしそれは、もはや怒号ではなかった。すべての権威をはぎ取られた後に残った、ただの騒音だった。
兵士たちの中を、一人の人影が歩き始めた。
静かな足取りだった。鎧を着ていない。革の上着に、インクの染みがついた袖口。
軍監記録官、ルッツ・ヴァイスが——松明の光の中に、歩み出た。
脇に、厚い帳面を抱えている。
ヴァルドーの目が、その帳面を捉えた。
セラフィーナが立ち上がり、刃を一寸だけ引いた。
殺すためではなく、ルッツの歩みに道を空けるように。
ルッツの足が止まった。ヴァルドーの正面。セラフィーナのすぐ横。
若い文官の手は震えていた。だが帳面を抱える腕は、下がらなかった。
ヴァルドーが、その顔を見上げた。
記録官の口が開きかけて——
*
そこで、松明の一つが爆ぜた。
火の粉が舞い上がり、ルッツの顔を橙色に照らした。
彼の目には、恐怖があった。
しかしその奥に、決して退かないと決めた人間だけが持つ、ある種の頑固さが灯っていた。
帳面を抱える指に、力がこもった。
夜は、まだ終わらない。




