第39話「空位の岩棚」
報告は、断片的に届いた。
「——左壁側、戦闘続行不能の負傷者三名。意識はあります」
「——第十四歩哨隊、損耗二割弱。ただし死者なし。……死者、なしです」
「——前方の魔獣、完全に撤退。追撃の必要なし」
リシェルの指示に応じて、各所から声が上がる。かすれた声、震えた声、泣きそうな声。どれも短く、正確で、そして——生きている人間の声だった。
セラフィーナは鞘の中の剣の重みを確かめながら、耳だけでその報告を拾っていた。
死者なし。
左掌の止血帯が脈拍に合わせて疼く。返り血が右頬で乾き始めている。足元に転がる黒い巨体の輪郭が、松明の光を吸い込んで不定形に揺れていた。
岩盤に突き刺さった角が、微かに松脂の匂いのする風を受けて、きい、と軋んだ。
戦場が、終わろうとしていた。
*
最初に動いたのは、名前も知らない若い兵だった。
くびれ地形の出口側——精鋭部隊の陣列の端から、一人の兵がふらりと歩み出た。兜を脱いでいた。汗で額に貼りついた髪が、松明の光に赤く透けている。
その兵は、リシェルの前で立ち止まった。
何かを言おうとして、口を開いて、閉じた。もう一度開いた。
「——ありがとう、ございました」
声が裏返っていた。
リシェルが目を瞬いた。
兵は片膝をついていた。立ったまま礼を言える状態ではなかったのだろう。膝当ての金具が岩にぶつかって、硬い音を立てた。
それが合図だったかのように——堰が切れた。
「あの槍だ……黒角王の目を抉ったのは、あの小隊の」
「無詠唱でもない。魔法でもない。剣だけで——剣だけであの首を」
「教官って呼ばれてた人だろ。銀髪の——」
「三太刀だ。たった三太刀だった」
声が重なる。精鋭部隊の兵が、第十四歩哨隊の兵が、誰が最初だったかもわからないまま、くびれ地形の中央へ集まり始めた。
松明の光が増える。影が揺れる。リシェルの周囲に人垣ができていく。
「お前らが——お前らがいなかったら、俺たちは」
声が途切れた。続きは、出なかった。出す必要もなかった。
*
ガルトは壁に背を預けたまま、片手剣を地面に突き立てて体を支えていた。
膝が笑っている。立っているのがやっとだった。だが、近づいてきた正規兵が二人、ガルトの両肩を掴んで揺さぶった。知らない顔だった。
「おい、あんた——あんたがあそこで止めてたのか。あの化け物の突進を」
ガルトは何を言えばいいかわからず、ただ頷いた。
正規兵の一人が笑った。泥と血で汚れた顔で、子供みたいに笑った。
「——馬鹿だろ。たった一人で」
「一人じゃねえよ」
ガルトは低く言った。声が、自分でも驚くほど平静だった。
「教官が場所を決めて、リシェルが声を出して、テオが流れを作って、ノエルが目を潰した。俺はただ——言われた場所に立ってただけだ」
正規兵は黙った。
何かを噛み締めるように、もう一度ガルトの肩を掴み直して、何も言わずに離れていった。
*
ノエルは左壁際に座り込んでいた。
剣を膝の上に置き、右肩を左手で押さえている。槍を投げた反動が、まだ肩の奥でくすぶっていた。
誰かが近づいてきた。見上げると、第十四歩哨隊の軽装兵が三人、ノエルの前に立っていた。
「あの槍——」
一人が口を開きかけて、言葉を探している。残りの二人は、渓谷の奥——ゼグラの巨体に突き刺さったまま抜けない重槍の柄を、遠目に見つめていた。
「あれ、お前が投げたのか」
「……ああ」
「何メートルだ、あれ」
ノエルは答えなかった。距離など測っていない。教官が作った一瞬の隙に、投げた。それだけだ。
だが、軽装兵の一人が妙なことを言った。
「あの投擲——見たぞ。渓谷の端から端だろ、あれ」
ノエルの眉が動いた。
「——一発で十分だった」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。三ヶ月前の自分なら、絶対に言えなかった台詞だ。
軽装兵たちが声を上げて笑った。誰かがノエルの頭を乱暴に撫でた。振り払おうとして——やめた。
右肩が痛い。でも、悪くない痛みだった。
*
クレアの手は、まだ止まっていなかった。
歓声が聞こえる。人が集まっている気配がする。だが、目の前には血が滲んだ外套の切れ端と、歯を食いしばって呻いている兵士がいる。
薬草袋の底を指先で探った。もう何も残っていない。
「クレア」
声がした。振り返ると、精鋭部隊の衛生兵が二人、薬箱を抱えて駆け寄ってきた。
「引き継ぐ。あんたはもう——」
「止血が終わっていません。右の脛、圧迫を続けてください。ここを離すと——」
「わかった、わかったから」
衛生兵の一人がクレアの手の位置を引き継ぎ、もう一人が薬箱を開けた。潤沢な包帯と止血薬が見えた。クレアの使い古しの外套の切れ端とは、量が違いすぎた。
「……よく、これだけの道具で持たせたな」
衛生兵が呟いた。
クレアは答えなかった。立ち上がろうとして、膝が折れた。横から腕を支えられた。
「座ってろ。お前もとっくに限界だろう」
そうかもしれない、とクレアは思った。でも——教官が「戦場の確認を」と言った時、まだ動ける自分がいた。それだけで十分だった。
*
テオが渓谷壁の上から降りてきたのは、歓声が最も大きくなった頃だった。
壁面の突起を足がかりに、器用に——しかし明らかに疲弊した動きで、くびれ地形の底に降り立つ。
「テオ!」
リシェルの声。振り向くと、小柄な指揮官がノートを胸に抱えたまま、人垣の隙間からこちらを見ていた。
「——無事か」
「うん。香台の最後の一基、向きを戻してきた。もう魔獣が流れてくることはない……と思う」
「思う、じゃなくて」
「ない。大丈夫。匂いが変わった。獣の方向が完全に反転してる」
リシェルの口元が、微かに緩んだ。
テオは周囲を見回した。松明が増えている。知らない兵が大勢いる。自分たちの——棺桶小隊の周りに。
「……なんだこれ」
「英雄扱い」
リシェルが短く言った。声がかすれている。何度も叫んだ喉は、もう限界に近い。
テオは落ち着かなさそうに鼻を鳴らした。匂いで状況を確かめる癖が、こんな時にも出る。血と土と、汗と松脂。それから——恐怖の匂いが薄れている。代わりに、何か別のものが混ざっていた。
安堵だ。
この場にいる兵の大半から、生き延びた安堵の匂いがする。
「テオ」
リシェルが、少し声を落とした。
「教官は」
テオは視線を動かした。人垣の奥——ゼグラの巨体の傍ら。銀灰色の髪が、松明の光を受けて鈍く光っている。
「いる。立ってる」
「怪我は」
「……左手の包帯が赤い。でも立ってる。いつも通りだ」
リシェルは頷いた。それ以上は聞かなかった。
*
セラフィーナは、歓声の中心にいたが、歓声の中にはいなかった。
兵たちが集まってきている。名前を呼ぶ者、礼を言う者、ただ松明を掲げて巨大な首の断面を凝視する者。
そのすべてに、セラフィーナは淡々と応じた。
「負傷者の搬送を優先してください」
「追撃の必要はありません。陣形を解いて構いません」
「松明を節約しなさい。夜はまだ長い」
声は低く、平坦で、感情の温度がない。三太刀を振るった人間と同一人物だとは、遠目には信じがたいだろう。
だが近くにいる者——特にリシェルには、わかっていた。
教官の目は、まだ戦場を見ている。
歓声を聞いていない。松明の数を数えている。負傷者の位置を確認している。風の向きを読んでいる。
——戦場が終わっても、教官の仕事は終わらない。
「リシェル」
名前を呼ばれて、リシェルの背筋が自動的に伸びた。
「第十四歩哨隊の損耗報告はまだですか」
「二割弱。死者なし。先ほど報告が」
「聞こえていました。ですが、確認が必要です。暗闘中の行方不明が含まれていない可能性がある。人数を数え直してください」
「——はい」
歓声の最中に、この指示が出せる人間がいる。
リシェルは、改めてそのことに震えた。恐怖ではない。もっと深い場所が揺れている。
この人は、勝った後にも数える。生きている頭数を。
それが教官の——セラフィーナ・レイヴェルトという人間の、戦い方だった。
*
歓声が収まらない中、リシェルはふと——視界の端に、異質な空白を見た。
岩棚の上。
松明の光が集まる低地から見上げれば、岩棚はほとんど闇に沈んでいる。輪郭すら危うい。だが、下から漏れる松明の照り返しが、わずかに——大柄な人影の端だけを浮かび上がらせていた。
ヴァルドー・グランセルトが、まだそこにいる。
表情は見えない。姿勢の詳細もわからない。ただ、人影がそこに在るということだけが、かろうじて認識できた。
そしてその周囲には——誰もいなかった。
近衛兵は、岩棚の下に降りていた。精鋭部隊の兵たちと同じ場所に立ち、棺桶小隊を囲む歓声の端にいた。全員ではない。だが、岩棚の上に残っている者は一人もいなかった。
テオが、鼻を鳴らした。
歓声の端にいる近衛兵たちの中に、嗅ぎ覚えのある匂いが混じっていた。兵器庫の油と、研ぎ粉と、もうひとつ——大鬼に剣を折られた時の鎧の焦げ。右の肩当てに、菱形の当て布。
セドリック。
テオはセラフィーナの方を一瞬だけ見た。教官は伍長と話している。振り返らない。だが、テオの視線に気づいたのか、右手の人差し指がわずかに動いた。
——見ていろ。まだ動くな。
テオは鼻をもう一度鳴らし、歓声の端に紛れた男の位置を頭に刻んだ。
報告に上がる者もいない。指示を仰ぐ者もいない。
副団長の岩棚は、空席になっていた。
リシェルは、ほんの一瞬だけ、あの暗い高台を見つめた。
人影が在る。ただそれだけの情報。けれど、それで十分だった。
——あの場所には、もう誰も集まらない。
その事実が、どんな敗北よりも残酷に見えた。
リシェルは目を戻した。教官の指示通り、第十四歩哨隊の人数を数え直す仕事がある。感傷に浸っている場合ではない。
だが、背筋を撫でた寒気は——冬の風のせいだけではなかった。
*
セラフィーナが負傷兵の搬送経路について第十四歩哨隊の伍長と話していた時、背後の岩壁の方角から、硬い物が岩を引っ掻く音が聞こえた。
がり、と。鎧の装飾が石に擦れるような音。一度、二度。不規則な間隔で、少しずつ低い位置へ降りてくる。
岩棚から誰かが降りている。
セラフィーナはその音を拾ったが、振り返らなかった。伍長への指示を続けた。
「担架が足りない場合は外套で代用しなさい。背骨に異常がない者は肩を貸して歩かせてください」
がり。最後の一音。そして、靴底が地面を踏む重い音。
降り切った。
セラフィーナの耳は、その足音の重さと間隔から、誰が降りてきたのかを正確に把握していた。
*
歓声はまだ続いていた。だが、その輪から少し離れた場所——ゼグラの巨体の傍に立つセラフィーナの周囲では、兵たちが搬送作業に移り始めていた。
その中を、重い足音が近づいてくる。
最初に気づいたのは、搬送を手伝っていた正規兵だった。担架を運ぶ手を止め、ちらりと視線を向けて——目を逸らした。敬礼もなく。声もかけず。ただ、わずかに足を速めて、通り道を空けた。
次に気づいた兵も、同じだった。避けている。恐怖ではなく、関わりたくないという体の動き。
ヴァルドー・グランセルトが、地面に降りていた。
リシェルの位置からは、今度ははっきりと見えた。松明の光が届く高さ。
大柄な体。豪奢な鎧。だが、その体の芯が抜けたように、歩幅が不揃いだった。片手を岩壁に触れたまま、もう片方の手がだらりと垂れている。
兵たちの反応が、すべてを物語っていた。
道を空ける者はいる。だが、立ち止まる者はいない。顔を向ける者はいない。
副団長が歩いている。戦場を。兵の間を。
そして——誰にも見られていない。
ヴァルドーは数歩進んで、足を止めた。
歓声が聞こえる方向を——セラフィーナが立つ方向を——向いたようだった。松明の光が横顔を照らしている。
その横顔を、リシェルは見た。
目が見開かれていた。唇が薄く開いていた。何かを言おうとしているのか、何も言えないのか、判別がつかない。
そして——唇が動いた。
「……違う」
低い。潰れた声。歓声に紛れて消えかける音量。
「違う。……勝ったのは……」
言葉が途切れた。声を向ける相手が、どこにもいなかった。
近衛兵はいない。副官は降りた。報告を上げる者もいない。「副団長殿」と呼ぶ声もない。
ヴァルドーは、視線をゆっくりと動かした。松明が照らす人の輪。短く具体的な指示に従って動く兵士たち。その中心にいる銀灰色の髪。
「……っ」
喉から、潰れた息が漏れた。
一歩、近づいた。
足元の小石が転がった。近くにいた正規兵が振り向いた。
ヴァルドーと目が合った。
正規兵は——目を逸らした。
敬礼もなく。声もかけず。ただ、視線を外して、別の方向へ歩き始めた。
ヴァルドーの足が止まった。
両手を見下ろしている。リシェルの位置からは、その手が小刻みに震えているのが見えた。
「……私が」
声が出た。先ほどの呟きより、わずかに大きい。だが、やはり周囲の誰も振り返らなかった。
「私が——無能だと……?」
声が、割れた。
誰に言ったのでもない。応じる者もいない。
リシェルの耳には、その声が届いていた。歓声の隙間を縫って、震えた声が。
ヴァルドーの手が——剣の柄に、伸びた。
*
金属の音がした。
鋼が鞘から引き抜かれる、あの鳴りのいい一音。戦場の喧騒が落ち着き始めた今だからこそ、渓谷の岩壁に反射して、妙に澄んで聞こえた。
リシェルが振り返った時、もう遅かった。
ヴァルドーが、走り出していた。
セラフィーナの背後に向けて。抜き身の剣を片手に。
重い鎧を着た大男の突進。地面を蹴る音。歯の隙間から漏れる、獣じみた呼気。
リシェルの位置から見えたその顔は——もう、人の理性を保っていなかった。目が血走っている。焦点が合っていない。何かが頬を伝っている。歯を剥き出しにして、かちかちと噛み合わせの音が鳴っている。
その口が、裂けるように開いた。
「——お前さえいなければッ!!」
剣が振りかぶられた。
セラフィーナは、まだ背中を向けている。負傷兵の容態を確認していた左手が、ほんの一瞬——止まった。
振り下ろされる。




