花に捧ぐ
ネイサン視点の番外編です。
ラウンジの一角に設けられたガラス張りの面会室。そこに所在なさげに腰掛け、きょろきょろと落ち着きなく周囲の様子を窺う男の丸まった背中に僕は静かに声を掛けた。
「お久しぶりですね、ギレスピーさん。まさかまたここでお会いすることになるとは思わなかったですよ」
振り返った男の顔を見て、内心で小さく息を吐く。最後にここで会ったのはもう何年前だったか。生真面目な紳士然としていた男のスーツはすっかりよれよれに波打ち、光沢を失った革靴は泥と細かな傷に塗れている。かつては旧貴族の中でもそこそこの栄華を誇っていたはずなのに、その様相だけでギレスピー家がどれほど惨めな凋落を辿ったかが容易に見て取れた。
呼び掛けられた彼は憎々しげに僕を睨みつけている。服役中にも何度か顔を合わせた仲だというのに、結局最後まで仲良くなれずになんとも残念なものだ。
「……何故、貴様がここにいる」
「叔父上のご機嫌を伺いに。と、言っても僕も忙しい身なのでね。ここに来るのは久しぶりなんですよ。いやぁ、たまたま日が合って良かったです」
そうは言ったものの、彼の出所日なんて当然把握している。今の彼の状況を鑑みればここを訪れることなど容易に想像がついて、ここ数日は連日お邪魔していたというわけだ。当然、わざわざそんなことを教えてやる必要もないけれど。
「知らない仲でもないですし、失礼しますね」
返事を頂く前に向かいの椅子に腰を下ろす。ガラスの向こう側に馴染みのご婦人方の姿があったものだから、ついいつものように手を振ってしまった。
「今日も皆さんお元気そうで何よりだ。ギレスピーさんは……すっかりやつれたご様子ですね?」
頬はこけ、目は窪み、髪には白いものが混じっている。そのくせ目だけはギラギラとしていて、控える衛士たちからも緊張感が絶えず伝わってきた。
「誰のせいだと思っているんだ。貴様の不当な捜査のせいだろう」
「僕に捜査権はありませんよ。そして判断を下したのも司法と世間であって僕ではない。貴方から聴取した内容を詳らかに説明しただけなのに責任転嫁だなんて、あまり反省していないようですね?」
そう。僕は聞き取った内容を然るべきところに報告しただけだ。先に捕まっていた奥さまはたいそうお喋りで、名簿の売買先から旦那がケチで自由に使える金が少なかったという愚痴まで、聞いてもいないことまで詳細に教えてくれた。
事の発端は、旧貴族名簿の売買である。
とはいえ、当主である彼自身が手を染めていたわけではない。本来ならば名簿の管理責任を問われる程度の軽微な罪で済むはずだった。
だが、漏洩した名簿に載っていたのが国を動かした要人ばかりだったことと、それが『ロマンス詐欺』の片棒を結果的に担いでしまったことが致命傷となった。
あとはそう。ランタナさんに対する不当契約である。前時代の奴隷のような扱いが公になり、すっかり心象を悪くした結果として量刑判断に影響したというわけだ。
「それで、わざわざここにいらした理由はなんなんですかね? 奥さまに代わって皆さんに詫びを入れにきたわけでもなさそうですし」
「アレとは正式に離縁した。もはやギレスピーとは関係のない女だ。今日ここに来たのは……ランタナに会うためだ」
「叔母上に、ですか」
ロータスが顔を歪ませる。奥歯を噛みしめる音まで聞こえてきそうだ。この様子だと、さすがにランタナさんが叔父上と結婚したことは耳に入っているようだった。
その上でここに来るなんて。やっぱり頭がおかしいのかな、と思ってしまう。聴取の中で分かったことだったが、彼は自分の都合のよいように物事を捉える悪癖があった。
「まさかと思いますけど、復縁を迫りに来たわけじゃありませんよね」
「そこまで私も厚顔ではない。ただ、話がしたかっただけだ」
「ええ……今更なんの話をするんですか?」
「貴様には関係のない話だ。……それで、ランタナはどこにいる。私は正式に面会の手続きを経てここに来たというのに、何故顔を見せない」
事業は手放し、多額の賠償金も支払い、屋敷も手放した身だろうに。落ちぶれても旧貴族としてのプライドが許さないのか、いつまでも居丈高な態度にまた笑ってしまいそうになる。
「貴方を叔母上に会わせるわけにはまいりません。面会の許可を出したのだって、貴方が何をしでかすか分からなかったからですよ。一度くらい様子見がてら言い分を聞いてあげようと思っただけです」
とは言ったものの、これは僕の意見ではない。もうこんな男は出禁でいいじゃないかとロクサーヌさんに軽口を叩いたところ、動向がわからなくなる方が困ると窘められてしまったのだ。
すべてを失った男ほど怖いものはないのだから、と。
「ま、だいたいその魂胆も分かっていますけど……ご母堂についてご愁傷様でしたね。貴方の所業を全て知って、大層心を痛めていたと聞いてましたよ」
ロータスの眉がぴくりと動いた。
彼の実母であるギレスピー前当主夫人。足を悪くしたというのは本当だったようで、ランタナさんの口添えもあって、彼女はロータスとその妻が収監される際に聖アンジェロ修道院の分院へ入居することとなったのだ。
世話になったのは確かだからと言っていたけれど。やっぱり、甘い人だ。
「貴方、ご両親にも嘘をついていたようですね。叔母上を嫁として紹介したのならば、どうして正式に結婚しなかったんですか?」
「……彼女では格が足りなかった。それだけだ」
「格、ねぇ……」
——ギレスピーも大した家柄ではなかったでしょうに。
空気を読むことを少しだけ覚えた僕は、そんな言葉を呑み込んだ。
まぁ、ふたりの事はそれなりに調べたからどういった経緯だったのかはだいたい把握している。まだ現役だったギレスピー前当主がサロンに勤めていたランタナさんにいたく気を許していたようで、老いた当主が姿を見せなくなるとロータスが足しげく通うようになったのだ。
『なんでも少し前から家で暴れることもあったそうなんですよ。ただ、あの子が接客した時だけは大人しくしていらしたから……』
ロクサーヌさんのお呼び出しを受けたサロンのマスターは、僕の隣に座る彼女をちらちらと盗み見ながらそんなことを証言した。
それを聞いて何となく納得はした。かつて栄華を誇った旧貴族にとって、当主が耄碌して手が付けられなくなったという事実は決して外に漏らしてはならない致命的な醜聞だ。
ただの介添え役として雇えば、嫌気が差して逃げ出され内情を世間に言いふらされるかもしれない。それならばいっそ『嫁』という名目で家に縛り付けて隔離してしまうのが最良であると、そんな打算に至ったのだろう。
「その格に拘って迎えた妻が今や犯罪者なんだから……本当に笑えない冗談ですね。そして今もそう。貴方がのこのこと叔母上に会いに来たこともです。それでもこうしていらしたということは……」
お金に困ってらっしゃるんですよね?
無言の問いかけが伝わったのか、彼の頬が赤く染まった。ああ良かった。羞恥心という感覚は持ち合わせていたようだ。
「貴方のご母堂は叔母上のことを本当の嫁だと思っていたそうですね。本邸に住み着いた妻のことも、愛人を連れ込んでいるだけだろうと。酷い仕打ちをしてしまったのに入居の口添えまでしてくれたんです。そりゃあ感謝の気持ちにと……叔母上に遺産を残してあげたくもなりますよね」
「……」
「叔母上は情の深い女……というよりかは、たんなる甘ちゃんだと思いますけれど。まぁお優しい人ですから。今の貴方の小汚い姿を見たら同情してその金を渡すかもしれませんね。どうせそれを狙って来たんでしょう?」
ぴくぴくとこめかみが小刻みに動いている。なんとも無様で面白い姿ではあるけれど、やっぱりランタナさんには会わせなくて正解だった。きっと彼女は、「元々はギレスピー家のお金ですから」なんて言って、手切れ金代わりに渡してしまったことだろうから。
「でも、申し訳ないんですけれどね。押し付けられるように渡されたあの金は、分院の運営費にと寄付されてしまったんですよ。そのおかげでご母堂も何不自由なく逝けたんですから、本当に良かったですね」
「……寄付、だと?」
「ええ。叔母上が受け取るわけないなんて分かりきっていたことでしょう? ……ああ、それとも。ストラウス家の一員としての金を期待していましたか?」
ぐっ、と押し黙ったロータスの姿を見るに、あながち的外れでもなかったようだ。
「それはそれで叔父上が許すわけないでしょう? 血圧が上がっても困るから別室に隔離させてますけど、きっと貴方の顔を見たら今度はタダじゃ済まないですよ? 前回は叔母上とは一線を引いた立場にいましたけれども、今は違う。あなたは自分の妻を虚仮にした男なんですから。張り切って完膚なきまでに叩き潰すことでしょうよ」
それはそれで見てみたい気もするけれど、中央にどんな余波が及ぶとも限らない。ここに住まう方々には、大人しく快適に過ごして頂くのが一番なのだ。
「と、いうわけですから。再起はご自身の力で頑張ってください。あのサロンのお得意さんだったんですから、皿洗いくらいはさせてもらえるんじゃないですか?」
「ま、待て!」
面会の終了を伝えるために伝声管に手を掛けると、ロータスが僕の肩を無遠慮に掴んできた。
「ランタナは……子どもはいるのか?」
「……はぁ? それ、貴方に関係あります?」
「気の迷いであんな老人に嫁いで、彼女は本当に幸せなのか? 私だってそんな醜悪なことは思いつきもしなかった。子どもだって欲しがっていたのに……」
「生憎とですね、そんな奇跡は今のところ起きてはいません。きっとこの先もないでしょう」
「……そうか」
こんな男に心配されずとも、もともとふたりは子をなすつもりなんてないのだ。既に跡継ぎの決まっているストラウス家に余計な火種を増やさないために、と。
そんなふたりの覚悟を知っているからこそ、あからさまにホッと肩をなでおろす姿に苛立ちを覚えてしまう。
「……どうせあの老いぼれも十年後には生きてはいまい。先のことも考えられぬ、本当に愚かな女だ」
「そうですね。それには思うところもありますけれど、まさか叔父上がいなくなれば自分にもチャンスがあるとか思ってるんですか?」
「責任を取ると言っているだけだ。結果的には彼女を騙してしまった事実には変わりないからな」
「——ははっ! いや、失礼。あまりにも滑稽だったもので」
僕はたまらず声を上げて笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「すべてですよ。貴方はまだ、自分が彼女を救ってやれる立場にいると勘違いしている。だからそんな的外れな同情ができるんです」
笑いを収め、僕は冷え切った目で彼を見据えた。
「いいですか。仮に叔父上が亡くなったとしても、我がストラウス家が生涯彼女の後見として支え抜くに決まっているじゃないですか。今の彼女は、貴方のような前科者が気安く名前を呼んでいい相手ではないんですよ」
「……っ」
「それに、貴方は本当に愚かだ。最後の面会で潔く頭を下げてさえいれば、叔母上のことです。出所後に路頭へ迷わない程度の口添えくらいはしてくれたかもしれませんね」
僕の言葉の意味を正しく理解したのだろう。ロータスの顔色が一瞬にして土気色に変わった。
「自らの浅慮を省みることもなく未練がましく縋り付こうだなんて。本当に、笑えない冗談ですよ」
完全に言葉を失い、わなわなと唇を震わせる彼に、僕はとどめを刺すようににっこりと微笑みかけた。
「それに、叔父上は以前よりも元気なくらいなんですよ。あの調子だと貴方よりも長生きするかもしれないですね。ですから、余計な心配はしていただかなくて結構。……お話は終わりですかね? それならばもうお帰りください。そして二度と顔を見せないでもらえると助かります。もう貴方から面白い話は聞けそうにないですから」
これ以上は時間の無駄でしかないから。恭しく頭を下げ、まだ何か言いたそうにしている彼に退出を促した。
ガラスの外の住人たちは素知らぬ顔で紅茶を啜っている。
誰ももう彼にはなんの関心もありませんと、そう言いたげに。
入口まで見送って、すっかりしょぼくれた彼の背中に最後の言葉を投げかけた。
「念のため、ですけどね。あの人に纏わりつくような真似は差し控えてくださいね。こちらとしては、これまでの給金を加えた賠償金を請求することも出来るんですから。なけなしの当面の生活費まで奪われたくはないでしょう?」
ロータスは振り返りもせずに肩を震わせて立ち去った。
自分がどれほど価値のある花を踏みにじったのか、ようやく理解できたのかもしれない。彼の手の届かぬところで咲き誇る彼女に、触れられる日が来ることはもう二度とないということも。
……あとは、年単位で監視でもつけておけばいいだろう。どこまで落ちぶれるものなのか、個人的に気になるところでもあるし。
「……終わったか」
「あれ、抜け出してきちゃったんですか?」
小さくなった彼の背中が見えなくなった頃。コツコツと杖を鳴らして僕の横に並んだのは——叔父上だ。その灰色の瞳はなんの感慨も無さそうに夕焼けを映している。
「伝声管、わざと蓋を閉めてなかったであろう。警備室に筒抜けだ」
「だってそうでもしとかないと気になって仕方なかったでしょう? 大人しくしていただくためですよ。……それにしても、あの冷静沈着な元宰相閣下が警備室の伝声管に張り付いてヤキモキしているお姿なんて、他の方々には見せられませんね」
そう笑いかけると、叔父上は気まずそうな顔で唸っていた。本当は自分で引導を渡してやりたかったのかな。でも衛士も控えているとはいえ、万が一にでも叔父上を危険にさらすわけにはいかない。まだその影響力は残っているのだと示すように、未だに遠方の国から結婚祝いが届くくらいなのだから。
「ま、プライドだけは高いからもう来ないと思いますよ。これでこの件も一段落、ですかね。事の顛末はランタナさんにも適当に伝えておいてください」
「こんな些末な案件に手を煩わせたな」
「いえいえ。現政府も詐欺事件にはまだ敏感ですから、些末で良かったくらいですよ」
何せ過去に、元女王が私財とはいえ他所の国の王子に全財産を捧げてしまったのだ。結果的にはその国との間で有益となる関係が築かれたから良かったものの、国際問題に発展しかねない事案だった。旧王族や旧貴族と呼ばれる方々の動向に気を配るのは仕事の一部である。
「ま、しばらく休暇は頂くつもりですけどね。せっかくだからロストル島にでも行ってみようかな。時期があえばナイル議員と会えるかもしれないですし」
「……あの男に会うのか」
「ええ。ご挨拶を兼ねて」
「それも構わんが……。その、お前にとだな。ご婦人方から縁談の話をいくつか預かっているのだが……」
言いづらそうにしている叔父上に、思わず冷たい目を向けてしまう。まったく、この人もたいがい人の気持ちというものが汲み取れない男らしい。
「あいにくと今はそんな気持ちになれませんので。それこそ適当に断っておいてください」
「お前にはわからんだろうがな、彼女たちもなかなかにしつこくてだな」
以前ならご婦人方も堅物な叔父上に遠慮していたはずなのに、ランタナさんを介して随分と交流を重ねているようだ。それはそれで良いことだけど、面倒事が増えてしまった。
「まだ仕事が楽しい時期なんですよ。叔父上にも覚えがあるでしょう?」
「む……」
痛いところを突かれたと言わんばかりの態度で叔父上が黙り込む。そう、ストラウス家は仕事人間の家系なのだ。恋愛も結婚も二の次とするほどに。今はそう。生涯の伴侶を得た叔父上を祝うだけでお腹いっぱいだ。
それに、敬愛する叔父上と、その隣で幸せそうに笑う彼女の姿を見守ることが今の僕にとって密かな喜びに変わってしまっているなんて。そんな野暮なこと、口にするつもりもないけれど。
「……あ、ランタナさんが帰ってきたみたいですよ」
エントランスの前に停まった馬車の中からランタナさんがゆっくりと降りてくる。分院での慰問を終えてきた彼女は、西日に照らされた僕たちの姿を見るやいなや、まさに花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
あの面会室で澱んだ空気を纏っていた男が手放した花だとは信じられないほど、眩しく、美しく色付いている。
「お帰り、ランタナ」
「ただいま戻りました、エルギル様」
叔父上がごく自然な所作で手を差し伸べると、彼女は躊躇いなくその腕に寄り添う。年齢も、かつての身分も全く違うというのに、夕闇に溶けゆく二人の姿は一枚の名画のようにただただ美しかった。
——まったく、いつだったかに老いらくの恋なんてみっともないと言っていたくせに。
呆れてしまいそうになりながらも、幸せそうに微笑み合うふたりを見て、ほんの少しだけ『いいなぁ』なんて思ってしまった。




