タブー - 第18話
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伊都之尾羽張。
日本神話において、伊邪那岐神が火之迦具土神を斬り殺す際に用いた、とされる剣です。
あの時、彼の使った剣が、神話で伝わるそれと同じものだったか――それは分かりません。あれはあくまでも単なる呪文で、彼の握る剣と『伊都之尾羽張』とに直接的な関係は無かった。そんな可能性も大いに有ります。
ただ。そうですね。
少なくとも、そこからの全てが僕の見間違えなんかじゃあないことは確かです。閃光の後、ウエンさんの持っていた剣には、先ほどまで確かに存在していなかったはずの刀身が、はっきりと顕現していました。刃の長さは七十数センチと言ったところでしょう。真っ白で、真っ直ぐで、眩い――まさに光のような刃でした。そして、何より――恐ろしい切れ味だった。
錫杖を受け止めていたウエンさんは、瞬きにも満たないような一瞬に、その切っ先を錫杖へ向けました。刃の煌めきが粉塵の最中を貫き――直後、断ち斬られた錫杖の巨大な杖先が宙を舞っていました。
それから、もう一筋。また一筋。宙から大地に降り立ったウエンさんが、目にも留まらぬ速さで剣を振りました。彼が刃を振るう度、白光が煌めいたのをよく覚えています。あれはまるで、真っ暗な境内そのものを斬り裂いているようだった。そして、その輝きに目を奪われていた僕らは、背後から唐突に響いた破砕音で、一斉に振り返っていました。
何やら巨大な塊が、背後の本殿の屋根に直撃しているのが見えました。ええ、ウエンさんが斬り飛ばした、錫杖の杖先です。それらが次々と本殿に降り注いだのです。
「お前にはもう、帰る社は要らない」
ウエンさんがそう言った直後、境内には再び、獣の咆哮のような、ヒステリックな人間の喚き声のような、あの声が轟きました。相変わらずそれは言葉としては理解できませんでしたが、声の主が激怒していることは僕らにも分かりました。
「僕が思うにさぁ、器が狭いんだよね、お前。こうやって立派な社殿を創ってもらって、自分専用の舞まで踊ってもらえる立場のくせに、こうして癇癪起こしてさ。多少の無礼くらい笑って許してやれば良かったのに」
風を斬る音が響きました。太刀を軽く肩に預けて、挑発的な言葉を放っていたウエンさんは、その場で軽くジャンプしていましたね。直後、ウエンさんの後方にあった鳥居の片足がバッサリ斬り落とされて、また盛大な崩壊音が境内に響きます。
ウエンさんは、止まりませんでした。
「そのくせ、こうやってまだ無駄に戦おうとしてさ。分かんないかなぁ、勝てやしないって」
何度も風を斬る音が響いて、その度、ウエンさんは後ろに退いたり、軽くステップをしたり、大きくジャンプしたりして、自身に向かってくる見えない刃を軽やかに回避しました。その度に、境内の大地に、すぐ傍の参道に、後方の鳥居に大きな傷跡がついて、粉塵がもうもうと立ち昇ります。
子供の僕が見ても分かりましたよ。
姿を見せない神社の主――祟り神と呼ばれ、神社で千年以上も祀られていた『天狗』が、ウエンさんに手も足も出ないこと。あれはまさに『子ども扱い』と言っても良かった。それくらい、その戦いは一方的だったのです。
「ほら、もっと全力で来なよ。腹立つでしょ? ムカ着火ファイアーでしょ? この際だから大いに暴れな。僕は代議人だ。お前が殺したい全ての人間の代表だ。僕を殺す、それだけを考えろ。でないと」
修行にもならない――そんな悪態をついていたあの人の眼差しは、背筋が凍りそうなほどに冷たく、肌が破れそうなほどに鋭かった。未だに、あの時のウエンさんの気持ちは、僕には分かりません。わざと相手を挑発して、自分だけが攻撃されるように仕向けていたような気もしますが……一方で、言葉の通り、ただただ純粋に、より充実した戦いを求めていた――そんな風にも思います。それ程に、戦いが始まる前と比べて、彼は荒々しく変貌していた。
そんな彼の様相を、脅威と認識したからでしょうか。
不意に、巻き起こっていた暴風が、見えない衝撃の波が、ぴたりと止みました。崩壊した鳥居の破片が天からバラバラと降り注ぐ中、丁度参道と並行に立っていたウエンさんの正面に霧が立ち込め――やがてその中に、大柄な体躯の人影が見えました。
草鞋に脚絆、袴と鈴懸衣と結袈裟、錫杖。まさにステレオタイプな修験者の服装でした。が、異様な点が一つ。
その人影には、首から上が無かった。
「お。小手先勝負は終わりかな?」
呟くように言って、ウエンさんは剣を構えなおしました。両手で柄を握って、太刀を自身の右側へ。切っ先が少しだけ地面を向くように。
真っ白な刀身が、一際輝いたように見えました。そこからは……まさに、一瞬だった。
頭の無い天狗が、錫杖を振りかざしながらウエンさんへ駆け出して。対するウエンさんは、小さく息を吐いて。
瞬きの間に。
ウエンさんの身体は、天狗のすぐ傍にありました。僕にはそこへどうやって移動したのかも分かりませんでした。それ程に短い時の狭間だったのでしょう。彼が、敵の懐に跳んだのは。
ですが。ええ、マスター……先ほどの話を覚えていますか? 神社の由来に依ると、この天狗は、追っ手の侍たちに呪いを掛けたのです。自らの頭を潰すことで。
恐らくは、それと同じだったのでしょう。天狗は――懐に入られ、後は下手から斬り上げられるだけの運命かのように見えた彼は――手にした錫杖を、思い切り自らの胸に突き立てた。
僕には見えました。血飛沫のように――けれど、タールのようにどす黒いものが、ウエンさんに向かって噴き出たところが。僕は呪いや魔術なんかには全くと言っていいほど無知ですが、本当に邪悪なものなら、人間は本能的に察するものなのでしょう。
その黒いものを浴びれば、死が訪れる。
「そうだ、全力で来い。何せ」
ぽつり、と、ウエンさんが呟きました。あの一瞬の――恐らくは一ミリ秒にも満たないような時間の隙間で――放たれた言葉を、どうして僕のような子供が認識できたか。それは分かりません。だけど、あれは決して、聞き間違えではありません。
「僕はお前の最期の相手だからな」
言葉と同時、だったでしょう。境内には、かちん、という小さな音が響きました。
誰もが目を疑いました。
天狗の眼前に居たウエンさんが、瞬きの間に、天狗の後方で剣を鞘に納めていたからです。
僕らには、見えなかった。ウエンさんが黒い呪いごと、天狗を斜めに斬り上げた瞬間が。見えたのは、結果だけです。黒い液体状の『死』が、まるで蒸発するように天へと掻き消えていって――天狗は体をのけぞらせながら、自らに突き立てていた錫杖から手を放して。
音もなく、地面に倒れました。
「二回目の死だ。今度こそ、真っ直ぐ逝け」
目を閉じてウエンさんが告げた瞬間――天狗の身体は霧のように消え去りました。からん、と、乾いた音がして、僕はその時急に息苦しくなって、自分がいつの間にか息を止めていたことを知りました。
ボロボロの――大災害でも巻き起こったのかというような様相の境内で、一本の錫杖が転がっていました。





