タブー - 第17話
未だに、どうしてあの時、あんな決断をしたのか――自分自身に問いかけることがあります。ウエンさんの言葉は至極真っ当だった。子供ながら、僕は彼の言葉に嘘や偽りや誤魔化しが無いことを理解していた。それなのに、どうして?
……ええ。マスターの仰る通り、僕はあの人の言葉の持つ重みを、真実の苦しみを、結局のところ、ちゃんと分かっていなかったのかも知れません。何せ、僕は当時、十歳です。ウエンさんの言葉を真の意味で受け止めるには、あまりにも幼過ぎた。
だけど。僕はあの時、確かにこう思った。だから、動いた筈なんです。
『それでも、茉莉に生きていて欲しい』と。――きっと子供でも大人でも、その祈りの重さに、差は無い筈です。
僕は石畳の外に出た。
それと同時に、僕は耳に響く、異様な風の音を聞きました。無意識に空を仰ぎ――そして、見たのです。女学生さんや神主さんを圧し潰したモノの正体を。
それは――巨大な錫杖でした。
とにかく、出鱈目な大きさでしたよ。杖と言うより、一本の大樹が丸ごと僕に向かってきているような感じだった。杖先だけで僕の上半身を丸ごと圧し潰せるような、無茶苦茶に巨大な錫杖。全身に生ぬるい汗が迸って、僕はそれが死というものだと本能的に理解しました。
その時です。
声がしました。
呆れているような、笑っているような、そんな声が。
「思い切りが良すぎるのも考えものだねぇ。でも」
――ウエンさんが、僕の真後ろに居ました。つい先ほどまで僕の前に立っていた筈なのに。そして。
「覚悟は伝わったよ、少年」
彼は、僕を思い切り突き飛ばしました。すべて一瞬の出来事だったと思います。僕と茉莉は揃って梓馬さんにぶつかって――境内には轟音が響き渡った。それも一度ではありません。近くで雷が落ちた時に感じるような、肌を叩くような音の衝撃が、何度も何度も僕たちの全身と鼓膜を殴打しました。境内にはもうもうと土煙が立ち昇っていて、その中をあの人は素早く移動しているようで、あちこちから地面が砕ける音が鳴り響いたのです。
その中で、あの人は呟いた。不思議なことに、小さな声だった筈なのに、その言葉は僕らの耳にしっかりと届きました。
「ウザいな」
――一際大きな音が響きました。これまでの衝撃音とは違う――重い重い鐘を強く殴りつけたような、臓腑の一つ一つを揺るがすような重低音でした。
「落ち着けよ」
何だアレ、と、茶髪の大学生さんが呟いたのを覚えています。ええ、僕もそう思った。土煙がゆっくりと引いていく中、何処かから振り下ろされている冗談のように超巨大な錫杖の杖先を、いつの間にか鳥居のすぐ傍にまで移動していたあの人は、抜き放った刀の柄尻で受け止めていました。柄には赤い布が幾重にも巻かれていて、衝撃でふわふわと土煙の中を漂っていた。ウエンさんは刀を逆手に持って、錫杖を止めていたのです。
その刀には、刀身――刃に当たる部分が、一切無かった。
まさしく、『異様』でした。刀身の無い刀なんて、ただの十数センチの鍔のついた棒だ。鞘はウエンさんの腰に付けられたままでしたから、あの轟音の雨の中、降り注ぐ錫杖の殴打を掻い潜って抜き放ったのでしょう。しかし――繰り返しますが、刀身の無い刀なんて、抜き放って何の意味があるのか。
「僕はね、アンタの気持ちが分からないわけじゃないんだ。えーっと、天狗だっけ? 千年近くこの場所で休んでるんだよね。居心地の良い住処を突然傷つけられたら、そりゃあ腹も立つ。だろう?」
ウエンさんは錫杖を受け止めたまま、杖先へ向かって告げました。その巨大な錫杖を持っている者がいるのか、それとも独りでに浮いているのか、それは分からなかった。持ち手を確かめようと天を見上げても、何か靄のようなものが邪魔して、僕らには確認出来なかったのです。
誰も口を挟めない中、ウエンさんは続けました。
「だけど、もう二人も殺した。アンタが一番腹を立ててる奴も、その怒りを理解してる。彼女は今日のことを一生背負っていく。その家族と一緒に」
ちらりと、ウエンさんが僕を見ました。僕は茉莉へ視線を向けて――呆然としている彼女の手を握って、ウエンさんへ強く頷き返しました。
そんな僕に、土煙の中で、あの人は笑った。少なくとも、僕にはそう見えました。
「ここいらが退き時だ。彼らを解放しろ。そうすれば、僕は何もしない」
彼の言葉は、次の瞬間に境内に響き渡った、獣の咆哮のような――いえ、ヒステリックな人間の喚き声にも聞こえました――そんな巨大な声に引き裂かれました。錫杖は一瞬で彼の眼前から失せ、しかし同時に、境内の地面を砕きながら、ウエンさんの体躯を横に薙ごうとしたのです。
それを横目に。
ウエンさんは忌々しそうに吐き捨てました。
「バカ野郎が。ホントクソだな」
粉塵が僕たちの眼前を覆い隠しました。横薙ぎが生み出した暴風と衝撃波で、僕や茉莉、それに梓馬さんたちも、みんな尻餅をついた。ほぼ直後だったと思います。それまでで最も破滅的な、重いものが砕け散る音が鳴り響いた。目を開けるのも精一杯でしたが、僕らは連なる鳥居たちの幾つかが宙に巻き上げられていくのを見ました。ひび割れて空に吸い込まれていくのを見ました。
そこで。
「茶髪! 天然パーマ! オッサン! それと少年少女!!」
もうもうと巻き起こる戦塵の最中、ウエンさんの鋭い声が、破滅の音を斬り裂くように轟きました。
「耳を塞げ!! いいか、絶対に塞いでろよ!!」
有無を言わさぬような、それまでの軽い口調が嘘のような、荒々しく物々しい言葉でした。視界の端で、弾かれるように両手を耳に押し付けている梓馬さんたちが見えましたよ。僕も同じでした。彼の言葉には、逆らい難い、抗い難い【何か】があったのです。
だけど、例外が居た。
茉莉です。
彼女は、目を奪われていたのです。粉塵で暗くなった空、破砕されていく鳥居たち、そしてそれらの中心。十数メートルも跳躍し、砂礫の海、粉塵の嵐の最中、刃のように鋭い眼差しで、刀身の無い太刀を握る彼に。その柄尻で、巨大な錫杖を受け止めている彼に。
そこには確かに、現代の僕らが決して目にすることの無い、一人の武人の姿がありました。存在しない筈の存在がありました。
『故――』
その声が響いた瞬間。僕は自らの両手で、茉莉の両耳を塞いでいました。
その声を――いや、彼の放つその呪文を、彼女に聴かせてはならない。
『――所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名――』
ええ。今ならはっきりと分かります。
あれは、【聴いてはならない】――一種のタブーだった。
『――謂伊都之尾羽張』
呪文と同時に。
眩い閃光が、彼の手元へと舞い降りたのを見ました。
暗い空を斬り裂くように。





