プリディクション - 第21話
あたしは走った。先生を背中に背負ったまま、全力で駆けた。部室の外に出て、階段を一足飛びで駆け下りて、小綺麗な廊下を学校の正門へと爆走する。あたしの人生において、ここまであからさまな馬力が出せたことは、多分無い。それほどまでに幸福とは人を強くするものなのだとあたしは思い知ったし、後から思えば、異様なスピードを出すあたしは、馬として実に乗りにくいものだっただろう。それは置いておいて、とにかくあたしは、あっという間に先生を背負ったまま学校の正門へ辿り着き、息を荒げながら道を尋ねていた。先生は若干ヒキ気味に道を示し、あたしはそれに従う。従僕! その時のあたしを指し示す言葉があるとすれば、まさにそれだった筈だ。滅私! それはあたしを示す言葉として、最も程遠い言葉だっただろう。あたしは疲れも忘れて走った。背で弾む先生の感触に、至上の幸福を感じながら。
だけど。
「来たか」
「何がですか!?」
先生が呟いた瞬間、あたしの視界を何かが横切った。それは丁度、商店街の外れ、昭和の匂いの残る古い木造住宅が両脇に立ち並ぶ、人影の無いうら寂しい小路の一角で、だからあたしは、最初それを、虫か何かの軌跡だと考えた。そして、だから猶更、理解が遅れた。自分の視界が突然グルリと回転した理由を。強い重力を感じた理由を。そして、息を吐く暇も無く、アスファルトの上から瓦造りの屋根の上へ、景色が様変わりした理由を。
「あれ?」
「舌噛むなよ」
先生が鋭く告げた。そして、足元の瓦たちを打ち砕くような力強さで、屋根の上を走り出す。あたしは声も出せなかった。先生を背負っていた筈のあたしは、いつの間にか――先生に横抱きに抱えられている。
「えっ、えっ!?」
「ありがとな、栄絵。そんでもって、もう一つ頼ませてくれ」
ひゅんひゅんと、何かが風を斬る音がしていた。赤い紅い夕陽を受けつつ、先生は真っすぐ前を見て駆ける。そして、あたしに一つの依頼をする。あたしは目を白黒させながら、その言葉を受理した。受理しながら、ようやく、周囲を巡る風を斬る音、その正体を眼にした。
プランシェットだ。
縦横無尽に、先生の周囲を、複数のプランシェットが跳ね、飛び回っている。それらは時に、先生の野暮ったい前髪を斬り裂き、翻る白衣の袖を貫き、先生の頬を掠め、それでも尚、先生を執拗に狙ってくる。まるで、自動追尾式のミサイルのように。一方の先生は、ジグザグに駆け、頭を低くして、時には姿勢を傾けながら、次々に古い家屋の屋根を飛び伝い続け、無数のプランシェットからの攻撃を巧みに回避し続けている。その様は、激しい舞いを踊っているようで――あたしはようやく、先生があたしを連れてきた本当の意図を理解した。
体が治るまでの少しの間、自分を背負って走ってほしい。一分一秒も無駄に出来ないから。確かに、そこに嘘は無かった。だけど、違う。
本当の――そして恐らく、最大の動機。間違いない。
『あたし』だ。
「畜生、ウザってぇな……!」
脂汗を流し、無理やりに作ったような笑みで走る先生の横顔を見つめつつ、あたしは先刻の、大井さんの部室の一件を思い出す。あの場で、プランシェットの欠片は、先生に加えて『あたしをも』撃ち抜こうとした。それはつまり、このプランシェットの操り手にとって、排除対象は先生とあたしの『両名』であるということに他ならない。そう、あたしも、だ。確かに、場を取り仕切っていた先生と、その先生の体を支えていたあたしを『敵』として捉えるのは、相手の立場から見て当然の成り行きな気もする。大井さんだけがあからさまに攻撃対象から外されていた理由は分からないけれど――とにかく!
「せ、先生!」
「下ろせ、ってのはナシだぜ栄絵。いま話した通り、お前には――」
「それは分かりました、引き受けます! だけど、ひとまずあたしを下ろして! あたし、先生の後を追って走りますから! あたしを運びながら戦うなんて――」
無茶です、と言おうとした、丁度その時だった。
風を斬る無数の音が、突然に止んだ。同時に、駆けていた先生の体も、ぴたりと止まる。あたしは先生の視線の先を見た。
無数のプランシェットが、中空で円の軌跡を描いていた。
数は二十……いや、三、四十個はあるだろうか。一つ一つは、親指を二つ重ねた程度の、極々小さなプランシェット。それらが今、まるであたしたちに自身らを見せつけるように、あたしたちの正面前方にて、ぐるぐると宙を回っている。丸虹、というものを図鑑で見たことがあるけれど、宙に出来る円、という意味では、アレが一番近しいかも知れない。それを、目の当たりにして。
「いい加減、姿を見せた方がいいんじゃねえか?」
なお、先生は笑った。
「対して効果無いと思うぜ? あたしはもう、お前を創ったクソ魔術師の居場所を嗅ぎつけてる。ま、言わなくても分かってるか。これだけ一目散に、お前の主のところへ向かってりゃあよ」
いつもと同様、挑発的なまでに不敵な笑みを浮かべている先生……しかし、その額に流れる脂汗は隠しようがない。やっぱり無理してるんだ。そりゃそうだ、治療術が何だとか言ってたけど、人間の体がそんなゲームみたいにポンポン治るわけがない。
だけど。
「これもご存じだろうが、敢えて言ってやるよ。あたしはこれから、お前を創った奴をぶっ飛ばす。人間なら監獄送りにするし、化け物や悪霊の類なら躊躇なく滅する。だから、止めたいなら全力で来い。姿を消すことに力を割いてる余裕なんざ無えのは、こんな中途半端な傷しかつけられねえ時点で分かるだろ?」
ぐい、と、あたしを持ち上げつつ、先生は白衣の袖で頬の傷を拭った。所々に穴の開いた白衣は、既にボロボロと言って差し支えない。
だけど。
だけど。
「いいか、これが最終勧告だ」
先生の眼は、猟犬のように鋭いままだ。
「殺したいなら全力で来い」





