プリディクション - 第19話
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――最短で、約三秒。
左肩から流れる血を右手で抑え込みながら、坂田雨月は駆けていた。バッグを盾にし、同時にスマホも手放してしまったため、現在地を詳細に知る術はない。但し、古い一軒家の立ち並ぶ住宅街を、迷路のように入り組んだ道を逃走する最中、時折目にする古ぼけた掲示板と、そこに貼られた地図で、大まかな位置は把握しているつもりだ。
涼と共に降り立った私鉄の駅から、北北東。行き止まりがあろうと躊躇なく塀を乗り越え、柵を乗り越え、古い民家の荒れた庭を突っ切り走り続けているが、もうしばらく駆ければ、また別の駅が近づいてくるはずだ。自然、彼女の周囲の建造物の量も、その高さも増していく。そうなれば、今のこの、後方から延々と降り注いでくる無数の矢を、道端のゴミ箱や塀を掩蔽に躱し、すり抜け続ける逃走劇の難易度は、少なからず下がる筈だ。
懸念があるとすれば、三つ。
一つ。人口密度が高い地域へ向かえば向かう程、無関係の人々を巻き込む確率が高くなり、かつ雨月への注目も集まりやすくなること。除霊師という職業柄、それは極力避けるべきだ。極力、だが。
一つ。呪術による無数の矢――それらは相変わらず、カッターナイフや包丁、傘や木の枝、鉛筆や鋸など、人の手で容易に投擲できるものばかりだ――により、進行方向を変更せざるを得ない可能性があること。それらは今、ウサギを追い立てる狩人のように、執拗に後方から雨月を狙い撃ってきているが、彼女が遮蔽物の多い場所へ向かうことを妨げてくるパターンも考慮しておかねばならない。逃げる場も無くグルグルと走らされていては、遠からず体力が尽きるのは自明の理だ。そしてその時、『首を斬られて死ぬ』という予言は、間違いなく成就する。
一つ。これが最大の懸念事項だ。
「逃げてる途中に失血死しないといいけど」
呟き、一つ息を吐いて、思い切りジャンプする。木造民家の木製の塀を蹴り破り、汗と血を拭う余裕も無く走る雨月の体躯には、左肩に一つ、右脇腹と右腕にそれぞれ二つずつの切創が、そして両手両足には複数の擦過傷が出来上がっている。特に左肩の切り傷が深い。動脈が傷ついたらしい。だが、きちんとした止血をする余裕がない。
最短で、約三秒に一回。無数の矢が、彼女の首を狙ってくるからだ。
――また微かに風の音が響いて、雨月は素早く横っ飛びに跳んだ。そして、入り込んだ民家の庭、草が盛大に生い茂る手入れのされていない大地に片手で手をつき、腕の力だけで再度、思い切り跳び上がる。
宙空で雨月の目が捉えたものは、三つ。彼女の走っていた個所へと降り注ぐ無数の刃物の矢、数百メートル先に敷設された四車線道路とそれに架けられた大きな陸橋、そして――彼女が逃げてきた洋館の上空辺りに存在する、暗雲のような『何か』。
「大きくなっていってる気がする」
孤独を紛らわせるように呟きながら着地し、陸橋の方角へと再び駆け始める。先ほど通り過ぎた比較的新しめの地図からして、あの陸橋の下の道路を真っ直ぐに行けば、いずれは繁華街と私鉄の駅が見えてくる筈だ。だが果たして、辿り着くまで体はもってくれるだろうか? ああ、頭がくらくらしてきた。これは運動量のせいか、それとも流れ出た血のせいか。分からない。だが、いま思えば、先程の腕の力だけでの跳躍は悪手だったかも知れない。確かに攻撃は躱せた。が、傷は広がり、出血量は避ければ避けるほど多くなっていく。痛みには慣れているけれど、人体の限界には抗いようが無い。
「反撃の手段は?」
走りながら、住宅街の塀を蹴り上がり、陸橋へと言葉通り真っすぐ進みながら、呟いてみる。
「無くはない、けど」
駆けながら、血を流しながら、時折眼鏡の内側についた汗をさっと拭いながら、雨月は考えていた。懸念の二つ目――もしこの呪術が、彼女の行き先を妨げる方向にシフトしたら、どう対処すべきか。いや、そもそも。
本当に、シフトするだろうか?
有り得なくはない。だが、可能性は低い。雨月はそう結論付ける。
「だって、中途半端だものね、この術」
流血の最中、雨月は小さく笑った。三秒に一回、鋭利な物体が飛んでくる――確かに危険な術だ。だが、極端な話、この程度の術であれば、無理やりどこかの住宅に押し入り、窓と扉を塞けば済んでしまう。
本当に殺したいのであれば、相手に防御の猶予を与えるような術を用いるだろうか?
雨月の答えはNoだ。この世界には、髪の毛一本を藁人形に詰めるだけで相手を呪い殺す術すら存在する。『紙に書かれた文字を誰かに読ませる』という厄介な条件をクリアして、ようやく『三秒おきに矢を放てる』術など、呪術としては余りにもお粗末に過ぎる。
故に、雨月は考える。恐らく、この術は雨月を殺したいのではない。雨月を遠ざけたいのだ。あの館から。
「或いは、弄びたい、かしら」
陸橋が見えてきた。敵の狙いが何であるにせよ、攻撃が物理的なものである以上、この呪術は地理的制約と無関係ではあるまい。然るべき土地に逃げ込み、防御の態勢を整えたら、後は落ち着いて仲間と連絡を取り、反撃に出られる。
可能だ。自分なら。
鋭く息を吐き、改めて住宅街の塀を蹴り上がり、更に全力で跳躍する。ややあって、雨月の体躯は、地上から高さ五メートル弱程の陸橋の上へ、勢いよく着地していた。丁度その場を歩いていた男子高校生と子供連れの主婦が、驚愕の様相で、突如出現した血塗れの雨月を見つめる。見られたのは商売柄よろしくない出来事だが、この状況では致し方あるまい。そんなことよりも。
雨月は陸橋の上から身を乗り出し、橋の下の道路を行き来する乗用車たちに目を向けた。更に注目が集まることになるかもしれないが、この内のどれかの屋根に飛び移れば、放たれる矢との相対速度が落ち、防御と逃走は更に容易になる。欲を言えば、乗用車よりも、荷台の空いたトラックがいい――そんなことを考えた、次の瞬間だった。
ゴン、という、酷く乾いた音が、陸橋に響いた。
足元が傾く。
雨月は目を見開いた。
陸橋の端に、一台の乗用車が突っ込んでいる。それは一呼吸の間もなく爆炎を上げ、更に後続の乗用車が次々に炎の塊へ突入していく。傍に居た男子高校生と主婦と女児が悲鳴を上げて陸橋の上に倒れ、砲弾よりも数段強力な鉄の塊の衝撃により、陸橋には亀裂が走る。そして割れていく。足元が崩れていき、雨月たちの体は下の道路に投げ出される。
最中、雨月は見た。陸橋の片足に突っ込んだ乗用車――それらが走っていた道路の上に突き刺さる、無数の鋸や出刃包丁たちを。
「なぁんだ」
投げ出される最中、雨月はまた、独り呟いていた。単純な理屈だ。敵は雨月ではなく、走っている車へ矢を放った。タイヤをパンクでもさせたのか、それとも陸橋へとハンドルを切らせるように矢を放ったのか――恐らく両方か。いずれにせよ。
「これを狙ってたのね」
投げ出される雨月の体躯に向かって、無数の矢が飛んでくる。相変わらず木の枝やら鉛筆やら包丁やら、日用品の類ばかりのお粗末な矢たち。だが、宙空で身動きの取れない相手の首を掻っ切るくらいならば、それらでも十二分に役目は果たせるだろう。
雨月は自身を嗤った。
三秒のインターバル?
遠ざけたいだけ?
殺す気が無い?
寝惚けた――余りにも甘えた考えだった。つまりは全て、この時の為――こちらの油断を招いてから確実に殺す為の、欺瞞だったわけだ。
自らを嘲り笑う彼女の首へ、一筋のカッターナイフが迫る。避ける暇は無い――雨月が冷静にそう判断するのと、再びの猛烈な爆音、爆風が、平和だった夕刻を染め上げるのは、ほぼ同時だった。
爆風が、彼女の眼鏡を遠慮なく吹き飛ばした。





