第85話 ピアッツァ・エルミオ02
ピアッツァ・エルミオは、母親の顔を覚えていない。
ピアッツァにとって、母親といえば姉のイスズのことだった。
幼い頃の記憶に残っているのは、いつもイスズの背中だった。小さな自分を背負いながら、洗濯をし、掃除をし、料理を作る。そんな忙しい合間にも、兄や姉たちに勉強を教えていたイスズの姿を覚えている。
ジェミニ以外の家族の誰もがイスズのことを「イスズマミー」と呼んでいたので、ピアッツァも自然とそう呼ぶようになった。まだ若くて、とても綺麗なイスズが自分のお母さんであることが、ピアッツァには何より嬉しかった。
ある日、領内の同じ年頃の子供たちと遊んでいたときのことだった。
ふと、ピアッツァは不思議に思った。みんなのお母さんは、イスズマミーよりずっと年上に見えるのだ。
それがなんだか誇らしくなり、ピアッツァは得意げに話した。
「うちのお母さんのイスズマミーは、とっても若くて綺麗なんだよ!」
すると、子供たちはなんとも言えない顔をして、お互いに目を合わせた。
そのときは何がいけなかったのか分からなかったが、後になって知ったことがある。ピアッツァと遊んでいた子供たちは、それぞれ親から、ピアッツァには母親がいないのだから、そのことには触れないようにと言われていたらしい。
そんなある日のことだった。
いつものように友達と遊んでいたピアッツァは、イスズのことを話題にした。
「イスズマミーはね、若くて綺麗なんだよ!」
すると、少し年上の少年が口を挟んだ。村で唯一の商人の息子、ヘラルドだった。やんちゃで口の悪い少年だったが、悪気なく思ったことを口にするところがあった。
「ピアッツァの母ちゃんは、ただの姉ちゃんだろ!」
その瞬間、ヘラルドの兄が慌てて飛び出してきた。
「こらっ!」
兄はヘラルドの口を塞ぐと、周囲に気まずそうな笑みを向け、弟を連れて行ってしまった。
気がつくと、ほかの子供たちも一人、また一人とその場を離れていた。
ピアッツァは、何が起きたのかよく分からなかった。ただ、さっきまで一緒に遊んでいた友達がいなくなってしまったことが、なんとなく寂しかった。
そして、ヘラルドの言葉が頭から離れなかった。
イスズマミーは、ただのお姉ちゃん……。
そんなはずはない。だって、イスズマミーは自分のお母さんなのだから。
そう思おうとしたが、胸の奥がどうしようもなく苦しくなった。
やがて、ピアッツァは涙をこぼしながら家へと帰った。
家の中では、三番目の姉のフィリーが一人で勉強をしていた。ピアッツァの姿を見ると、すぐに異変に気づいて声をかけた。
「ピアッツァ、どうしたの? どうして泣いているの?」
ピアッツァは涙を拭いながら、しゃくり上げるように答えた。
「ヘラルドがね……イスズマミーは、お母さんじゃなくて、ただのお姉ちゃんだって……」
それを聞いたフィリーは、何も言わなかった。ただ、椅子から立ち上がると、ピアッツァをそっと抱きしめた。
「……そうだったの」
フィリーはそれだけ言って、ピアッツァの背中を優しく撫でた。
しばらくして、イスズが部屋に入ってきた。
泣いているピアッツァを見て、イスズは驚いたように足を止める。すると、フィリーがそっと近づき、小さな声で事情を説明した。
話を聞いたイスズは、少しだけ表情を曇らせた。そして、ピアッツァの前まで歩いてくると、膝をついて目線を合わせた。
「ピアッツァ、こっちを見て」
イスズはそう言って、ピアッツァの頬に手を添えた。
「ヘラルド君が言ったことが気になったのね」
ピアッツァは涙で濡れた顔を小さく縦に振った。
「イスズマミーは、お母さんじゃないの?」
イスズはすぐには答えなかった。ピアッツァの顔をじっと見つめ、それからそっと両腕を広げた。
「おいで」
ピアッツァが胸に飛び込んでくると、イスズはその小さな身体を優しく抱きしめた。
「そうね。私はピアッツァのお姉ちゃんでもあるわね」
「……うん」
「でもね、ピアッツァ。あなたが生まれてきたとき、私はとっても嬉しかったのよ」
イスズはピアッツァの髪を撫でながら続けた。
「あなたが初めて笑ったときも、初めて歩いたときも、初めて私のことをイスズマミーって呼んでくれたときも、全部覚えているわ。あなたが私の背中で眠ってしまったことも、抱っこしていたら小さな手で私の服をぎゅっと掴んできたこともね」
「……覚えてるの?」
「もちろん。忘れるわけないでしょう?」
イスズは微笑んだ。
「私はね、あなたのお姉ちゃんであることが嬉しいの。そして、あなたのマミーでいられることも、とっても嬉しいのよ」
「でも、みんなのお母さんは……」
「うん。そうね」
イスズはピアッツァの目を見つめた。
「いつか、あなたも本当のお母さんのことを知りたくなるかもしれない。そのときは、ちゃんとお話ししてあげる。でもね、ピアッツァ。あなたは決して、母親のことで誰かに遠慮したり、寂しいと思う気持ちを我慢したりしなくていいのよ」
そう言うと、イスズはピアッツァをもう一度強く抱きしめた。
「だって、私はあなたのお姉ちゃんで、あなたのマミーなんだから」
「……イスズマミー」
「なあに?」
「大好き」
「私も大好きよ。ピアッツァ」
イスズはそう答え、ピアッツァの額にそっと口づけた。
その様子を少し離れたところから見ていたフィリーは、静かに微笑んでいた。
ピアッツァにとって、母親の顔は知らないままだった。
けれど、母親に抱きしめられる温もりなら、ずっと知っていた。
それからというもの、ピアッツァは少しずつ変わっていった。
以前にも増してイスズの後をついて回るようになり、洗濯物を運んだり、食器を片付けたり、ときには料理の手伝いをしたりするようになった。まだ幼いピアッツァにできることは限られていたが、イスズが忙しそうにしていると、自分にも何かできることはないかと考えるようになったのだ。
そして、勉強にも一生懸命取り組むようになった。
もともと、エルミオ家の兄弟姉妹は、イスズから勉強を教わっていた。領内の子供たちの多くは、読み書きや計算を習う機会さえなかったが、エルミオ家ではそれが当たり前だった。
もっとも、イスズの教え方は、普通の教師とはかなり違っていた。
机に向かって教科書を開き、何時間も勉強するようなことはほとんどない。家事を手伝いながら計算を覚え、料理をしながら分量や割合を学ぶ。近くの野原を散歩すれば植物や昆虫について教え、森に入れば動物の足跡や地形の見方を教えた。
時には、教わったことを実際に試してみることもあった。イスズにとって、勉強とは日々の暮らしの中にあるものだった。
武術や魔法についても同じだった。兄や姉たちは、イスズに教わりながら、遊びの延長のような感覚で武術や魔法を少しずつ身につけていった。
ピアッツァは、どちらかといえば武術よりも魔法の方が得意だった。それでも、武術が苦手というわけではない。兄や姉たちと一緒に身体を動かし、競い合ううちに、自然とそれなりの腕前になっていた。
ただ、ピアッツァは知らなかった。
兄や姉たちも、そして自分自身も、同年代の子供たちと比べれば、かなり規格外の能力を身につけているということを。
兄や姉たちは何度かそのことを教えてくれていたのだが、ピアッツァには今ひとつ実感がなかった。何しろ、物心ついた頃から、それが当たり前の環境で育ってきたのだから。
その違いを本当の意味で実感するのは、学院に入ってからのことになる。
そういう意味では、イスズは確かに良き姉であり、母であり、先生でもあった。ただし、常識を教える先生として優秀だったかといえば、少々疑問が残る。
何しろ、イスズ自身が、自分たちの暮らしや教えていることが、どれほど普通ではないのか、ほとんど理解していなかったのだから。
それでも、ピアッツァにとっては、それが当たり前の日々だった。
ふと、ピアッツァはイスズのことを思い出し、指先に小さな火を灯した。それは、イスズから初めて教わった魔法だった。
あの頃、イスズは指先に灯した火を、赤や黄色、青、緑、紫へと器用に変えて見せてくれた。夜の暗がりに浮かぶ小さな炎は、まるで宝石のように綺麗だった。
今、ピアッツァの部屋には誰もいない。彼はそっと指先に火を灯すと、教わったとおりに色を変えてみた。
炎は赤から鮮やかな黄色へ、やがて青、緑、紫へと移り変わっていく。
「……綺麗だ」
小さく呟いたピアッツァの指先で、色を変えながら小さな炎が静かに揺れていた。
その向こうに、あの日、笑いながら魔法を教えてくれたイスズの姿が浮かんでいるような気がした。




