幕間1それぞれの夜
本来の設計思想が、堅牢な要塞である事に主眼を置いたブラン城の建築様式は、十四世紀にイタリアから興ったルネサンス運動の影響からは、地理的にも思想的にも外れた位置にある。
暗黒時代と一括りにされ、欧州で一度は棄て去られたゴシック様式があえて採用されている城の意匠は、華美に過ぎる事のない古典主義が反映され、ローゼはその荘厳な雰囲気を殊の外愛していた。
それは貴人や要人の為に用意されている各居室でも同様であり、完全なプライベート空間である寝室ではさらにその傾向が強くなる。
普段のローゼが最も落ち着き、くつろげる場所であるが故に、彼女の気力もそこで途切れ、限界を迎えてしまう。
扉口を挟んで立っていた側仕えの侍女二人が寝室の扉を閉じ、居間からの視界が遮られるのを待って、ローゼの躯は膝から崩れ落ちた。
「姫様っ!」
寝台の置かれた窓側とは反対の壁際に整列していた侍女達が、慌ててローゼの傍らに駆け寄り、主人の傾きかけた躯を支える。
ローゼは意識を失ったままの雫の身を名残惜しげに侍女達に預けると、周囲に対して不自然さを微塵も感じさせる事なく気丈に振る舞う。
「静まれ……、アカシックレコードへの接触で魔力を少々持っていかれただけじゃ。星霜の間にいる者たちに気取られてはならぬ。妾の事はよいから、シズクの世話を優先して疎かにするな」
「今すぐ癒しの術式を」
侍女達の輪の外、一歩退いた位置に立っていたシエロが控え目に声をかけると、ローゼはストロベリーブロンドの巻き毛を無造作にかきあげ、ゆるりと首を振った。
「構わずともよい。例えこの場にいる者全ての命を賭したとしても、気休め程度にしかならぬわ。器が違いすぎる」
「では、このまま黙って見ていろとおっしゃるのですか」
「そうじゃ、ただ黙って見ていればよい。
シエロとその側近の部下達に命じる。本日この瞬間を以て妾の側仕えに任じる。この場で見た出来事を一切口外せぬと誓えるか?」
常人であれば、身が竦む程に底冷えのするローゼの問いに、シエロは影のない艶やかな微笑を返す。
「これはローゼ様。わざわざわたくし共の意思を確かめるまでもないではありませんか。誓わねば、物言わぬ冷たい骸がこの部屋の床に数体並ぶのでございましょう?」
ローゼの深紅の瞳が煌めき、血に濡れたかのような口唇が捲れ上がると、異様に発達した犬歯が剥き出しになる。
「さあて、な。試してみるか?」
ローゼの無慈悲な言葉の響きに臆する事なく、シエロが返事の代わりにその綺麗に編み込まれたブラウニッシュブロンドの頭を深く垂れ、恭順の意思を示すと、彼女の側近の侍女達も無言のままその後に続いた。
◇ ◇ ◇
回廊状に築城されたブラン城の内庭の一角に、鉄柵で囲われたスペースがある。
下弦の月灯りが降るその場所、剣と定理の修練場。 人の気配の消えた深夜。 白い亡霊の如き影が二つ。
残像から実体、実体から残像へ。
剣と剣を斬り結んでは離れ、離れては斬り結ぶ。
激しく打ち合う剣撃の音が、徐々にその動きからずれていく。
疾風迅雷。音速を超えるその疾さは、人が目視出来る限界から遥かに逸脱していく。
やがてひときわ激しい金属音と共に火花が散ると、一振りの剣が虚空に弾け飛んだ。
綿毛のようにふわりとしたベビーブロンドに、煌めくエメラルドグリーンの瞳。天使に見紛う程の美貌の少年の剣先が、藍色を含んだ黒髪に頬傷を持った長身の男の喉許に突き付けられていた。
「お見事です、ジョルジュ様。しばらく実戦から離れていたとは思えぬ動き。感服致しました」
「重い装甲を身に付けたまま、息ひとつ乱さずによく言う。だが、これじゃ全然だめなんだ。術式の加護や流れの中で得られる速さでは、緋の姫君みたいな“本物”には勝てない」
けだるげな様子でソファーに腰を降ろしたままの状態から、何の予兆も見せずにいきなりトップギアに入った動きを見せたローゼの剣捌き。
あの無駄のない完成された動きは、ジョルジュにとって衝撃的だった。
あのような相手は、戦場でさえ出会った事はないからだ。
剣の腕にしろ、雫の扱いにしろ、このままいいようにあしらわれたままでは、ジョルジュの誇り高い矜持が許さなかった。
「剣を拾え、イシュトバーン。当分、ぼくの気がすむまで付き合ってもらうからな」
◇ ◇ ◇
膨大な蔵書が納められた本棚が幾重にも連なる静謐の空間に、彼女は場違いな軍の制服に身を包んだまま一人佇んでいた。
ハニーブラウンの髪をざっくりとラフに編み込み、左肩から前方に向けて垂らし、髪と同色の瞳は瞬きすら忘れたかのようで、端正でありながら無表情のまま、姿勢を一切崩す事のないその佇まいは、著名な古代彫刻に通じる美しさがあった。
ユーリィはやがておもむろに靴音を響かせると、月灯りだけを頼りに、天井にまで届かんとする背の高い本棚の間をゆっくりと巡回し始める。
右の指先で書物の古ぼけた、それでいて手入れの行き届いている背表紙を次々になぞりながら、別れを惜しむ。
「わたし決めたわ、ローゼ様の御側仕えになる。アカシックレコードの秘密を必ず掴んでみせる」
書物の一冊一冊に、慈愛を込め語りかけていく。
「そして手に入れてみせるわ、ここでは遂に見つける事のできなかった至高の定理を。シズク様の術式構成の謎を解き、あの御方の術式を行使できれば、闇色の双生児ですら必ず殺せる。遺跡荒らしの盗掘団を束ねる、幼き首領のあの二人を跪かせる事ができる。
嬲るようにして壊滅させられたわたしの隊の敵を討ち、部下たちの無念を絶対に晴らしてみせる。
最後は騎士らしく、剣で仕留めてやるから待っていろ」
言葉のひとつひとつを噛みしめ、自らに言い聞かせるかのように紡いでいく。
高速詠唱による古代の禁術を駆使する姉と、複数の術式を一度に走査する妹。
悪夢のような姉妹相手に復讐を果たす。
それが、ユーリィの絶対にして無二の行動原理。
「例えトランシルヴァニアを棄てる事になっても、絶対に捜し出して追い詰めてやる」
扉の前に戻って来たユーリィは室内を振り返る事なく、最後の別れを口にする。
「だから、今夜であなた達とはお別れ。さよなら、もう二度と来ない」
その言葉を残して、彼女は深夜の書庫を後にした。
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幕間1それぞれの夜は、あと一話幕間2へと続きます。
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