新章・時計仕掛けの羅針盤。第56話。過保護な魔導士と、公爵令嬢のトランク詰め込み合戦。
第56話。過保護な魔導士と、公爵令嬢のトランク詰め込み合戦
「――絶対に認めない。アサヒ、海へ向かうなどという危険な旅に、その薄着で行かせるわけにはいかないよ」
アルカディア公爵邸、私の広々とした私室。
その中央に置かれた大きな旅行用トランクの前に立ち、腕を組んで大真面目な顔で言い放ったのはアレン様だった。
彼の黄金色の双眸は、未知の『境界の海』への旅を前にして、いつになく「過保護モード」全開でギラギラと輝いている。
「アレン様、まだ初夏ですよ? さすがにその、毛皮付きの厚手の防魔コートは暑すぎます……」
私が困ったように苦笑いすると、アレン様はフッと冷徹な美貌を崩さずに、私のトランクの中にこれでもかと厚手の衣装を押し込み始めた。
「海風を甘く見てはいけない。万が一、君が風邪でもひいて熱を出したらどうするんだ。俺の魔力でトランク内の温度を常に最適に保つ術式を付与しておくから、防寒着は十着、いや、二十着は持って行くべきだ。それに、君の肌を守るための最高級の魔力日焼け止めと、万能薬、それから……」
「ちょっとアレン! お姉様のトランクを自分の趣味で埋め尽くさないでよ!」
トランクの反対側から、ソルの怒鳴り声が響いた。
ソルは黄金の髪を振り乱しながら、アレン様が詰め込んだ重々しいコートを次々と外へ放り投げ、代わりに自分が用意した可愛らしい動きやすいドレスを詰め込み始める。
「海に行くなら、砂浜を走れるくらい動きやすい服がいいに決まっているじゃないか! ほら、お姉様、この白いワンピースなんて絶対に似合いますよ! 僕が朝一番に、お姉様のために仕立屋から選んできたんだから!」
少年の純粋な、けれど本能的な独占欲が透けて見える笑顔に、私の胸はキュンと温かくなる。
「ソルの選んだやつ、ちょっとスカートが短すぎない? 潮風でめくれたらどうするのさ」
ソルの腕を後ろからぐいっと引っ張ったのは、夕闇色の長い髪をツインテールに結んだ夕日ちゃんだった。
彼女は両手に、何やら不気味な黒い魔導具を抱えている。
「アサヒ様、海の魔物は夜に活発になるの。だから、私が『夕日の国』の闇を凝縮して作ったこの『特製・魔物除けの暗黒ランタン』を持っていって。これさえあれば、どんなおぞましい異形の魔物も、アサヒ様に近づく前に気絶しちゃうから」
「あ、ありがとう、夕日ちゃん……。でも、それ、ちょっと禍々しい黒い煙が出てないかしら?」
「気のせいだよ! アサヒ様への愛が詰まってるだけ!」
メイド服の裾を揺らしながら胸を張る夕日ちゃん。
アレン様の大人の過保護、ソルの直球なアプローチ、そして夕日ちゃんの少し方向性の尖った深い愛。三人が私のトランクの周りで、まるでお祭りのようにドタバタと詰め込み合戦を繰り広げている。
神々との戦いの最中はあんなに凛々しかった三人なのに、私のことになるとどうしてこうも全員がポンコツで愛らしくなってしまうのだろう。
「ふふっ……」
思わず声を出して笑ってしまうと、三人の視線が一斉に私へと集まった。
「アサヒ? 何が可笑しいんだい。俺はいたって真剣に、君の安全を確保しようと――」
「アレン様、大丈夫ですよ。私には、世界最強の魔導士であるアレン様がついていてくださるのでしょう?」
私がアレン様の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめてそう言うと、アレン様は一瞬目を見開き、それから形を崩して耳まで真っ赤に染めてしまった。
普段は大人の包容力で私をリードしてくれる彼が、私の言葉一つでこんなに初心に照れてしまうのが、たまらなく愛おしい。
「……ずるいな、君は。そんな風に頼られたら、本当に世界の海ごと君の足元に跪かせたくなってしまう」
アレン様が小さく溜息をつきながら、私の額にそっと指先で触れる。
その指先が、驚くほど優しくて温かい。
「あ! またアレンがアサヒお姉様を口説いてる! ずるい!」
「そうだよ、アサヒ様! アレン様の甘い言葉に騙されちゃダメだからね!」
ソルと夕日ちゃんが再び割って入り、私の両腕を左右からきゅっと抱きしめてくる。
「もう、みんな、喧嘩は終わり。トランクの準備が進まないわ。……お母さんが遺してくれたあの羅針盤、さっきからずっと、南の海を指して優しく光っているの」
私はテーブルの上に置かれた『白紙の預言書』と、そこから浮かび上がる碧き羅針盤を見つめた。
その針は、私たちがドタバタと騒いでいる間も、まるでお母さんが「仲良く喧嘩しなさい」と微笑んでいるかのように、穏やかな茜色と碧色の光を交互に放ちながら、南の空を指し示している。
時間の忘れ物。
そこには、一体何が待っているのだろう。
「よし、分かった。アサヒの言う通り、準備を終わらせよう。明日、アルカディア公爵領が所有する最速の魔導軍船『ルミナス号』を出港させる。ソル、夕日、君たちも精霊としての力をいつでも解放できるように、今夜はしっかり休んでおくんだ」
アレン様がパンと手を叩き、一瞬でいつもの有能な天才魔導士の顔に戻って指示を出す。
「了解! お姉様との初めての船旅、僕が一番の特等席で守ってみせるよ!」
「私も! 船酔いの魔法、今からアレン様に習って完璧にしておくんだから!」
ソルと夕日ちゃんが元気よく返事をする。
窓の外を見れば、美しい夕日が、公爵領の街並みを穏やかな茜色に染め上げていた。
かつては世界の崩壊を意味していたその光も、今では私たちの新しい出発を祝う、ただの美しい景色のひとつ。
お母さん、見ていてね。
私はこの大好きなみんなと一緒に、あなたの遺してくれた時間の先へ、いってきます。
トランクに詰め込まれた、たくさんの愛と、少しの防寒着。
私たちは笑顔を交わし合いながら、明日始まる『境界の海』への大冒険に向けて、最高の夜を迎えようとしていた。
(第56話 完)




