第9話 ほろ苦い、寝る前のチャーラ
あれからレオンは毎日のようにカフェに来るようになった。
その日も、カウンターの椅子が一脚だけ音を立てた。
「……閉店、間に合った?」
「ギリギリ。あと五分遅かったら、扉に“明日また”って札をぶら下げるところだったわよ」
振り返ると、いつものコートを肩にかけたレオンが、疲れた顔で微笑んでいた。
「閉店後は……チャーラ、あるか?」
「はいはい、“例のやつ”ね」
私はカウンター奥の棚から、琥珀色の小瓶を取り出した。
最近開発した“チャーラリキュール”。薬草の香りを活かした低アルコールの寝酒だ。
注いだカップから、淡く香るシナモンとハチミツの匂い。
レオンは一口、ゆっくり飲み、目を細めた。
「……これ、いいな。胃が落ち着くし、頭のぐるぐるも消えていく」
「今日は何のぐるぐる?」
私が聞くと、彼は少しだけ目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「物流網の拡張。新たに契約した馬車屋が、配達時間を守らないんだ。違約金は取れるけど、それじゃ意味がない。信用と時間は、金より高い」
彼にしては珍しく、明確な“困り顔”だった。
私は棚から書類を取り出し、カウンターに並べた。
「これ、うちが王都で使ってる小規模ルートの業者一覧。早朝と夜便に強いところだけ選んでるわ。紹介しましょうか?」
レオンは驚いたように目を見開いた。
「君、こういうのも全部管理してるのか……?」
「もちろん。“飲食店経営”って、“街の動き”と付き合う仕事なのよ」
レオンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ありがたい。正直、今日ここに来たの、ただ“寝酒”が欲しかっただけなんだけどな」
「まぁ、うちの“寝酒”は情報もついてくるってことで」
二人で笑い合いながら、カップを軽く合わせた。
その瞬間、レオンが少しだけ真面目な顔になる。
「君って、本当に……頼りになるな」
「え? 今さら?」
「うん、今さら。何回思っても、言葉にしないと勿体ない気がして」
私は、なんだか妙にくすぐったくなって、手元の書類をいじった。
「じゃあ、毎回来るたび言ってくれると嬉しいかも。寝酒と一緒に」
「……そういえば、レオンって昔から王都にいたの?」
閉店後のカフェに、チャーラリキュールの香りがふんわりと漂う。
カウンター越しに聞いた私の質問に、レオンは少し考えてから答えた。
「いや。王都に出てきたのは、17の頃。家を出て、一人で商いを始めた」
「へぇ、意外と若かったのね。何か理由でも?」
レオンはカップを片手に、ぼんやりと琥珀色の液面を見つめた。
「……俺、ヴェルシェルン家の三男なんだ」
手が止まった。
「公爵家の……?」
「そう。でも三男だし、継がないし、求められてもなかった。
兄たちは優秀だし、俺がいてもいなくても変わらないって空気があってさ」
「……それで、家を?」
「ああ。俺、ただ“名前じゃなくて、自分のやったことで何かを動かしたかった”だけなんだと思う。
だから王都に出て、自分の名前で事業を起こした。ヴェルシェルンじゃなく、“レオン”として」
私は、黙って彼の言葉を聞いていた。
「貴族であることって、便利だよ。でも、それだけにしがみついてる奴を見ると……なんか、息が詰まってくるんだよな」
「わかるわ。私も“ミルフォード侯爵家の娘”って肩書きに、何度苦しめられたか」
私は笑いながら、カップにもう一度チャーラを注いだ。
「でもさ」
私の言葉に、彼が顔を上げる。
「今、あなたが“ここ”にいるのって、誰でもない“レオン”としてじゃない? それで充分でしょ」
しばらくの沈黙のあと、レオンはゆっくり頷いた。
「……ああ。ありがとう」
彼の声は、心なしか少しだけ軽くなっていた。