作家擬きの見える景色。
俺は思う。
俺を、本当に否定することになるのか、凪の思いを否定することで。
違う。
俺は……。
わからなくなった。
何が正しくて、何が正しくないのか。
「帰りましょうか」
「そうだな」
気がつけば、蚊取り線香の匂いがした。凪が焚いたのか。
「夏だな」
「今更ですか?」
「最近の蚊、全然効かないけどな、蚊取り線香」
「あはは、気休めですよ、気休め。それに、諭さんの言う通り、夏だな、って匂いです」
わからない。俺は。
俺は、俺を否定して良いのか。本当に。
ぼんやりとした決意は、頼りない。吹けば飛ぶような。
凪の好きな、凪を形成してきた、今までの答えを、否定するのは、正しいのか。
凪の存在を、否定することに、ならないのか。
「うっす」
「お前……」
「凪ちゃん、喫茶店でしょ。今。窓から見えたよ」
軽薄そうな笑みを浮かべ、市川は平然とベランダから入って来た。
「それがわかってるなら普通には行ってこいよ」
「癖になった」
「そうかい」
あぁ、この会話のノリ、懐かしい。
「……お前、何があった?」
彼がこうしていきなり来るのは初めてではない。
生活費が厳しい時、彼は俺の所か、現在の彼女の所に転がり込む。
けれど、うん。前回来た時は、いつだったかな。先月か? 先月だと、一気に影山を含め大量に別れた直後だ、俺の所に来るのかわかる。
けれどそれから一月経っている。
「お前、女は?」
「んー。いないよ」
「えっ、お前が? 彼女いない期間ゼロの」
「なんかわかんなくなったんだよ」
「何を?」
台所から戻って来た市川が、卵かけご飯を持って帰ってくる。
「自分の存在を、他人に依存するって、どうなんだろうって」
「は?」
「彼女いなくなったけど、俺は相変わらずここにいる。俺が正常なのかってずっと考えてる。俺の積み重ねてきたことは相変わらず残ってるし。俺のやって来た事が否定されたわけじゃない」
「おう……」
「別に、死ぬわけでも無かった。死ぬ度胸も無いから、僕は生きてる。色んな女の精神を病ませた僕を、一人になっても誰も裁きはしなかった。別れる時のいざこざくらいだった」
市川は、何が言いたいのだろう。
「荒谷、そろそろ凪ちゃんと付き合い始めた?」
「あぁ、そういえば、言って無かったな」
「そっかそっか。お前を遂にか。それでどうだ、お前は今までリアルでの彼女を鼻で笑ってたけど、どうだ? 実際作ってみて、死ぬわけでもあるまい」
「あぁ、生きてるし、わりと幸せだ」
「そういう事だ。僕は彼女ゼロになっても死んで無いし、お前は彼女できてもいつも通りだ」
そして、市川は一気に卵かけご飯をかきこみ、そのままベランダの方へ。
「じゃあな、また世話になるかも」
「あぁ」
あいつが抱えてること、悩んでること。それは、何だろう。
あいつなりの答えを、見つけるのだろうか。
俺は、俺の答えを得られるのか。
「おかえり」
「ただいま戻りました!」
今日も、凪は可愛い。
うわ、何惚気てんだ、俺。
「今日は、どうですか?」
「ごめん、何も進んでないや」
あの夜から三日、俺は、何も書いていなかった。
正確には、書きたくない。
今の俺は、物語とまともに向き合えない。
そして、俺は気づいている。物語と向き合いたくない理由に。
少し前の俺に逆戻りだ。
凪は、あの時の俺に、焦らなくて良いと言った。どんな気持ちで言ったのか。一年しか、時間が無いのに。
早く、答えを。
凪のために。凪の、ため?
何となく、家に居づらくなった。だから一人に外に出た。
小説を書いていないと、本当にやる事無い。やる事のない人間ほど、一定の空間にいることが辛い人間はいない。
「あっ」
そして、どこか既視感のある光景に出くわした。
「影山」
「え、えっと、どうも、です」
ヴァイオリンケースを担いだ影山に出くわした。
「練習か? コンクール出るんだっけ」
「はい。でも、どうでも良いくらい、楽しいです」
「ふぅん」
「優勝しなきゃってプレッシャーをかける人が、いないので」
どこか、清々しさすら感じる顔で、影山は笑う。
「そしたら、気づかなかった、ことにすら、気づけて。優勝、という、一つの事に、拘っていたら、見えなかったこと、が見えて、きました」
「へぇ」
音楽家がどう生きるかは知らないけど、でも、そうか。
「大事だよな、そういうの。視野広げるの」
「はい。そうだ、寄って、行きませんか? 久々に」
「ん。そうする」
「そうだ、凪さんと、上手く、行ってますか?」
「えっ……」
「えっ?」
「なんで知ってる」
「凪さん、から、聞いた、ですけど」
はぁ。
まぁ、そっか。誰にも言うななんて、一言も言った覚え無いしな。俺も市川に話したし。
「うん。そうだね。上手くは、いってる。と思う」
「なんで、自信なさげ、何ですか?}
「凪がどう思ってるかなんて、わからんし」
「それは、そうですね」
定期的に掃除しているみたいで、家の時間は、止まっていなかった。ちゃんと、俺が知っている時間の流れに乗っていた。
「何か、飲みますか?」
「オレンジジュースで」
「よく、わかりましたね。あるって」
すぐにコップ二つがテーブルに並んだ。
「凪さん、可愛い、ですよね」
「そうだな」
「荒谷先輩が、素直」
「悪いか?」
「もう少し、素直になれば良い、そう、思って、いました」
「ほう」
じっと見つめると、恥ずかしそうに身じろぎを始める。
うん……。
「影山の髪、触って良い?」
「は、えっ? ふぇ、えっ? あう、ど、どうぞ」
「いや、うーん。お言葉に甘えて」
恥ずかしそうに顔を伏せて、頭を差し出して来たから、ね。
引っかかるところも無く、なんだろう、手で持ち上げれば、さらさらと零れ落ちる。思った通り、サラサラで、うん。満足。
「素直に物事言い過ぎると、こういう事があるからな」
「り、理解しまし、た」
「よろしい」
笑いかけると、おずおずと顔をあげて、涙目。
少しやり過ぎたか。
それから、グラス一杯分のジュースが無くなるまで近況報告という名の雑談をした。
「さて、じゃあ、そろそろお暇しようかな」
「えっ、あっ、はい」
「凪に会いたくなったかも」
「なら、すぐに帰って、ください。大事、です」
素直、か。
素直って、なんだ。
思いを、素直に。
じゃあ、俺の思いって、なんだ。
素直に。
「おかえりなさい。諭さん」
「あぁ。ただいま」
凪は、当然のようにそこにいる。
俺は、凪のいない日々に、耐えられない。かもしれない。いや。
耐えられないな。
「何か、飲みますか?」
「じゃあ、水、貰おうかな」
「はい」
「ありがとう」
一気に飲み干した。コップ一杯の水が、こんなにも美味しく感じるくらい、俺の心は、豊かだ。
「もっとゆっくり飲みましょうよ。身体に障りますよ」
「そこまで不健康じゃないし」
こんな、他愛もない会話すら、カラフルに感じてしまうくらいに、俺の日常は、鮮やかに色づいている。
でも。
部屋に入って、一人になって、ノートパソコンの前に座った。パソコンを開いた。
「俺は。書けるんだよな」
そう。書ける。書けないわけがない。
でも、作家という生き物は、残酷だ。
キーボードに指を置いた。すぐに、指は物語を紡ぎ始める。
作家という生き物は、本当に残酷だ。
何でも、いくらでも、俺は書ける。傲慢にも、そうほざいていた時期があった。本気で、そう思っていたから。書けない物語なんて、無いと思っていたから。
「書けないなんて、嘘だ」
俺は書ける。現に、俺は書いている。
ただ、向き合いたくないだけ。こんなものが書ける俺を、認めたくないだけ。
俺は、人殺しの気持ちが書ける。
強姦魔の気持ちが書ける。
「好きな人を見殺しにする物語が書ける。好きな人の願いを無視して、無理矢理助ける物語が書ける」
書けてしまう。俺は、残酷だ。




