甘党少女の栄養補給。
「ただいま戻りました」
凪は、当たり前のように鍵を開けて、珍しく制服姿で現れた。
「宿題考査、ばっちりです!」
「……そうかい」
それ以外に返す言葉は無い。
あの日、凪は学級委員長を名乗る、桐原早苗なる人物と会い、何か影響が出ると思っていたが、次の日には平然と過ごし、そして、宿題考査を終え、明日か始まる彼女にとっての長期休みをどう過ごすか、考えているようである。
「さて、荒谷さんは夏休みまだ終わらないんですよね」
「あぁ、十月からだからな」
「長いですねぇ」
「毎日を勝手に夏休みにしている人の言う事か」
「あはは!」
部屋に響く笑い声は、本当に楽しげだ。
地雷を踏んだと一瞬思ったが、そういうわけでも無いらしい。
「今の生活、結構気に入っているので、手放すつもりはありませんよ」
凪はそう言って、ケラケラと笑い始めた。
「ふむ……」
頬杖ついて、さっきまで自分が書いていた文章を眺める。
「甘ったるいな」
何となく、凪と風呂入った時と、海辺を歩いた時の事を描写してみたのだ。少し捏造して。
「荒谷さん。コーヒーとホットミルク、どっち欲しいです?」
「……ミルクで」
「はーい」
まぁでも、こんな風に気持ちを吐き出して行けば良い気もする。
うん。小説の中で消費して行こう。
そうなると、もう少し描写を増やしていきたい気がしてきた。誰かに見せるわけではない、ただの自己満足だが……やるか。
認めざるを得ない。凪に魅力を感じている自分を。
だからこそ、大切にして、凪をちゃんとした、恐らくこれからをちゃんと生きていける真っ当な人間と一緒に、でなければ、一人でも力強く生きていける人に成って欲しい。
俺の信者を名乗って時間を消費させるのは、勿体ない。
「はい、できましたよ」
「ありがとう」
マグカップを二つ持ち、凪は目の前に座る。
「いただきます」
程よく暖められた、安心する甘味が口の中に広がる。
よし。
少しだけ頭が疲れていることに気がついた。感じていなかった疲れが癒された。
「……凪」
「はい」
「トイレ行きたいなら、行けば」
「い、いえ、そんな訳ではありません。というか、もしそうだとしても、直接指摘するのは如何なものかと。デリカシーです」
「はぁ」
目の前でもじもじされて、気にするなという方が無理な話だろ。
「じゃあ、何だ? 言い辛い事か? 怒らないから言ってみろ」
まぁ、怒らないから言えと言われて素直に言う奴も、本当に怒らないやつも少数派だろ。
「その、あの。栄養が、欲しいです」
「君が作るご飯はわりと栄養バランスしっかりしていると思うけど」
「そ、そうじゃなくて」
恥ずかしそうに、ほんのり顔を赤らめ、下を向いて、でも目だけこちらに向けて。
「あの、甘味をください。その、砂糖たっぷり目の、小説……」
「は、はぁ……」
今まさに、俺が書いているのは、凪と風呂に入ったと時の事。
多分、かなり甘々に仕上がっている。が、これ、見せて良いものなのか。
「荒谷さん。今書いているの、見せてもらって良いです?」
「いや待て。落ち着け。これはホラー小説でな。凪の求める話じゃない」
「なら荒谷さんと甘い時間を過ごさせてください!」
「なんでそこまで欲しがる!?」
「ちょっと、心が、疲れたので」
にへら、と頬を緩ませ、少しだけ、儚さを感じさせる。
そんな顔を見せられて、何もしないほど、俺の感情は死んでいない。
「……わかったよ」
ノートパソコンの画面をそのまま凪に向けた。
「……これは、お風呂に入った時のです?」
「あぁ」
「書いて、くれたんですね」
「まぁな」
書いてて、こんなのセクハラだろとも思った。けど、書かれた本人は嬉しそうに読んでいる。読まれてる俺ばかり恥ずかしい。
「甘くて、良い」
頬が落ちるのではというくらい緩ませる。横から手で挟みたくなるな。
「荒谷さんの、『我が家のメイド。』に出会った時、私は心がすり減って、無くなるのではと思っていた時の事でした」
「はぁ」
「これに出会った時、心が、すり減ったと思っていた心が、戻ってくる感じがしたのです。胸の奥が、じんわりと、温まっていく。そんな」
「なんで、泣いてんだよ」
「えっ?」
凪が目元を拭った手はきっと濡れている。
「あはは、何でですかね? 自分でもわかりません」
「……ったく。こっち来い」
「えっ?」
……自分から抱きしめるのは、初めてか。
凪に命令されてとかなら、何回かあるけど。
「私、何も命令してませんよ」
「うるせぇ」
「……ありがとう、ございます」
「お前が言うのはおかしいだろ。俺が勝手にしてるんだから」
「それでも、嬉しいので」
「安上がりな奴」
凪の匂いは、安心する。
ミルクと、あと、ココアの匂いも感じるな。コーヒーもだ。
「私の、居場所。喫茶店と、家と、ここも、居場所で、良いですか? もう、学校には、無いので」
頭を撫でた。弱々しくて、守りたくなる。
でも、だからといって、俺は凪をこのままにしておけなかった。
駄目だろ、このままにしては。
このままの凪を受け入れたら、俺がいなくなったあと、凪はどうすれば良いんだ。
逃げ方だけではなく、立ち向かい方も、必要だ。
「荒谷さん。何で辛そうなんですか?」
「えっ……?」
「荒谷さんの抱きしめ方、弱っている時の抱きしめ方です」
「そんなこと……」
「ありますよ。縋るような感じで」
ポンポンと背中を叩かれる。なんで俺が甘やかされてんだよ。
「荒谷さんは、誰かがいなきゃ、駄目な人ですから。私がいますよ」
「凪。俺に構うのは、時間が勿体ないぞ」
「私の時間ですから、私が使い方決めます」
むっ……。
俺が作家を志すとバレた時、父親に言った事は、「俺の人生の使い方に口出すんじゃねー」だったな。そんな風に言った事を何故今思い出すんだ。反論できなくなるじゃん。
「それとも、荒谷さん、私の事、嫌いです?」
「嫌いな奴を、抱きしめるかよ」
「ふふっ」
凪の抱きしめる力が強まった。
くそっ、強い。
何も言えなくなってしまった。
ズルいと思う。
「さて、そろそろ夕飯作りますかね」
「今日は?」
「そうですねぇ、何が良いかなぁ。何かリクエスト、ありますか?」
「うぅむ」
考えるのを半分放棄していたから、すぐに思考に移れなかった。
「オムライス」
「好きですねぇ、荒谷さん」
「実際、美味しいと思う」
「はぁ」
一人になって、ベッドに沈んだ。今日は寝たい。
いや、凪のおかげで結構健康的な生活を送れているから、ある程度すると眠くなるのだ。そして朝しっかり起きている、
それに、無理に起きていようとすると、風呂に連れ込まれるからな。あれは心臓に悪い。
「ん?」
玄関の鍵が開き、静かに扉が閉まり、鍵がかかる音。非常チェーンは、凪が俺の部屋にいる時だけ、凪が部屋にいることがバレないために着けている、から今はかけていない。
「えっ……」
すぐに出ては行かない。何者で目的は何か、あとは何だろう、ヤバい人なら、ここにいるのがバレるのが一番マズい。
が、侵入者は真っ直ぐに俺の部屋に来た。
嘘だろ……。
息を潜める。
ベッドの前に止まる。
どうする。
薄目を開いた。女が立っている。
「荒谷さん……」
そうか細い声で呟いた凪は、ベッドに入って俺を抱きしめ、そのまま寝息を立て始めた。
「……はぁ」
不良少女め。夜中に家を出るって、全く……。
さっきベランダからちらりと見た喫茶店は、まだ電気が付いている。
もはや放任だろ、こんなの。
「なるほどな」
縋るように抱きしめるって、こういうことか。凪は俺を離そうとしない。しがみつくように、腕に力が籠っている。
「俺で良いのかねぇ」
頭を撫でると、少しだけ、身体に入っていた力が抜けて、表情が和らいだ。
「今は、これで良いのかな」
よくねぇよ、と自分の中にそんな声が響いたけど、でも、今だけはと無理矢理納得させた。




