夏の香り
「荒谷さん口元、ソースついてます」
「ちょっ、自分で拭けるから、むぐっ」
「取れましたよ」
使ったウエットティッシュ、さっきまで焼きそばが入ってた容器にまとめると、ニッと笑う。
「美味しいですか? たこ焼き」
「まぁ、美味い」
「さっき歩きながら食べたチキンステーキは?」
「まぁ、うまかった」
「ふふっ、ありがとうございます」
すっかり忘れてたチキンステーキ、思い出した凪が慌ててパンに挟んで、チキンバーガーにしてくれた。
もうすぐ花火が始まるらしい。
人が集まるところを避け続けた結果、ショッピングモールの屋上が解放されていることを知り、そこにすることにした。
タダで使うのも考えものだったから、一階の食料品売り場で焼きそばとたこ焼き、祭りの定番メニューを買って、それを食べながら待っていた。
「……初めてです。誰かと一緒に、こうやって花火待つの」
「お前なら誘い、いくらでも来るだろ」
「はい。来ましたよ」
「なら、行ったことない、何て事はないはずだ」
その時の凪の目は、どうしてか弱々しく、俺は真っ直ぐに見ることができた。
不覚にも、凪の顔立ちを観察することになる。
バランスの取れたパーツ。大きな瞳には確かに俺が映っていて、見ていると、吸い込まれるのでは、何て思ってしまう。
それでも、口元は俺の投げかけた質問のせいで、きゅっと引き締められ、答えを探すように、俺を移していた瞳は泳ぎ始める。
「悪い。その、困らせるつもりじゃ、なかった」
「いえ、ただ、その、誘われても、行く気がしなかった、だけなので。い、いえ、荒谷さんに誘われたのは嬉しかったですよ!」
「あぁ、それは、ありがとう」
まだ花火は始まっていないけど。
緩く弧を描く凪の口元を見ていると、何となく、誘って良かった、何て思った。
凪の目が光が戻る。普段の俺では直視できないのに、不意打ちに、目が合ってしまった。
「あ、えっと」
年上の俺が先に困るなんて、おかしすぎる。
その時、一瞬の口笛のような、始まりを告げる音ともに咲いた空の花が、その場にいた全ての視線を持って行ってくれて、容赦の無い光から解放してくれた。
花は次々と咲き乱れる。
「おぉ」
「凄いですね」
今更ながら、凪に浴衣着てもらえば良かったと思って、同時に頭の中でそんな事を考えた自分を殴り飛ばした。
馬鹿かよ、俺。
今頃、バイト先、賑わっているんだろうな。
サボっちまったな。
本当は、今日バイトがあった。でも、凪を誘ってこうして今、空を見上げている。最悪だと思う。
影山より酷い、無断欠勤だ。でも、欠片も後悔していない。今こうして凪と居る時間を、金に換えられたはずなのに。
「俺、ちょっと、おかしいかも」
「? 荒谷さん?」
「何でもない」
バイトをサボった事、欠片も後悔していないから。
凪の手を握って、花火を眺めるのが、少しだけ楽しいから。
煙が晴れるまで待つために、花火は止まる。
屋上を吹き抜ける風に、少しだけ火薬の臭いが混じっている気がした。
思うんだ。
もし、今、この瞬間、例えば花火に混じって隕石が、空から降り注いだら。
大地が急に崩壊したら。
「凪、もしこの瞬間、じゃ、ちょっと時間が無さ過ぎるかな。明日、世界が終わるって言われたら、どうする?」
「荒谷さん急かしてなるべく小説書いてもらって、それを読んでいたいですね」
「俺に自由は無いのか?」
「なら、明日と言わずに今すぐに、って思います。荒谷さんとこうして、近くにいるうちに」
「んな告白みたいなこと。もっと魅力的な奴に言いな」
不満気に頬を小さく膨らませるから、それを指でつついてやる。これくらいは許されて欲しい。
買い込んだお菓子、まだ手を着けていない。
ポテチとか、クッキーとか。
一つ貰おうかと思った所で、花火が打ちあがる。
やめた。コーラを一口飲んで空を見上げた。
俺がさっき投げかけた質問の答えを、自分の答えを考えて、思いつかなくて。
「あぁ、俺、何もかもどうでもよくなってる」
責任とか、やる事とか、色々あるのに。どうでもよくなってる。
世界が終わると仮定して、何かやりたいことがあればと思ったけど。
世界が終われば、自分が死ねば、それは自動的に、何の憂いも禍根も残さずチャラになると思っている。そう思っていることに気づけるくらいに、自分を客観的に見れている。
そうやって初めて気づいた。
俺は自分の中身をこれ以上探った所で、良いものは書けないと。
フィナーレを彩る。
大地を駆け抜ける閃光。連続で打ちあがる火の花。一際大きな華。
「あぁ」
今ここで、この屋上から飛び降りたら、どんなに気持ちが良いだろうか。
なんて、やらないけどさ。
俺の手を握る凪の手に、ギュッと力が込められたことに気づく。
「荒谷さん。今、何を考えていましたか?」
「は?」
花火の音が聞こえなくなる。
「荒谷さん、今、どこかに行こうとしていませんでしたか?」
凪が近づく。いや、凪に手を引かれ、俺の方から近づいた。
「荒谷さん。行かないで。どこにも。私を変えてくれた人、私を前に進めてくれた人。私に勇気をくれた人。まだ、傍にいて」
縋りつくように、胸に顔を埋める。
どうすればわからなくて、頭に手を置いた。
「変えたのは、俺じゃなくて、小説、だろ」
そう言うと、駄々をこねる子どものように、首を振る。
「小説には、終わりがあります。でも、荒谷さんには、これからがあります。荒谷さんは、ここにいます」
凪は、泣いてはいない。でも、それでも、訴えかける言葉には、力があった。
どれほどの自分を込めれば、言葉にこれだけの力を持たせられるのだろう。
「凪、俺は、俺にもう、差し出せるものなんて」
「なんで差し出す事ばかり考えるのですか。なんで自分の中で、探そうとするのですか?」
凪につられて上を見上げた。
「世界は、こんなに広いのに、なんでちっぽけな自分の中ばかり、探すのですか?」
あっ……。
「少しは、世界からもらっても、良いじゃないですか」
手は繋いだまま。もう歩いてる人なんていない。みんな家に帰ってしまった。
それなのに俺たちはこうして、ゆっくり歩いてる。家には向かっているが。
確かに世界は広い。星空に心を浸せば自分がいかに小さく、孤独なのかがわかった。
自分の中から見つけ出せば、心を込めやすい。
言葉に力を込めやすい。
「凪」
「はい」
「できるのか?」
「できます」
無条件の信頼。根拠の無い期待。
俺はいつの間にか、凪からの書けという言葉に拒否することを忘れていた。
「うぉぉぉあぁぁぁぁ!」
「あ、荒谷さん!?」
走り出した。
悔しい。
過去の自分に負けるのが。たった一人の女の子の期待にすら答えられないのが。
ひたすら悔しい。謝ることしかできないのが。
どうでもよくなんかない。悔しい。
苦しくなるまで、息をするのが苦しくなるまで走った。いや、もっと走れる。
「はぁ、は、はぁ。あぁぁぁぁぁ!!」
「はぁ、荒谷さん。急にどうしたんですか? 待ってください。止まってください。着きました。着きましたよ」
しがみつくように止められて、ようやく気づいた。マンションの前だ。
白いTシャツは汗で肌に張り付いて気持ち悪かった。
「悔しいよ」
「荒谷さん?」
「お前の期待に応えられないのが、悔しいよ」
上を向いたのは、涙が出ないように。振り返らないのは、凪を見ないように。
温かいのは、凪に抱きしめられているから。
夏の、何かが溶けたような香りに混じって、甘くて爽やかな香りがふわっと鼻腔をくすぐった。
「荒谷さんは、ちゃんと、歩いていますから。その、私が言うのもあれなのですが、焦らないで欲しいです。大丈夫、です」
目元を拭ったのは、汗のせいじゃない。
「帰りましょう。今日は、もう遅いですから」
きっと、凪は笑っている。眩しい笑顔に、優しさを混ぜて。
その日、俺はやすらぎに包まれて眠った。ぐっすりと眠れたのは、久しぶりだった。




