受け継いだものではない、俺自身の成熟
星嶺学園・文化交流祭の二日目も、午後になると少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
展示会場には依然として多くの来場者が訪れていたが、午前中の慌ただしさは和らぎ、各教室から聞こえる音楽や発表の声にも、どこか穏やかな雰囲気が漂っていた。
いくつもの展示を見て回り、各企画の進行状況を確認した蓮は、明日の閉会式に向けた最終確認をするため、メインホールへ戻ってきた。
文化交流祭は、まだ終わっていない。
司会進行の確認、生徒会による時間調整、各部活動の最終発表に向けた準備。やるべきことは、まだいくつも残されていた。
蓮はテーブルの上に資料を広げ、進行表に目を通した。
「最終発表が午後三時。そのあとに各代表の挨拶があって、最後に注目プロジェクトの発表か……」
「そのとおりよ」
隣から麗華が答えた。
彼女は進行表の一か所を指で示す。
「ただし、各発表が予定より長引く可能性も考えておくべきね。終了時刻が大幅に遅れるのは避けたいもの」
「確かに。少し余裕を持たせておこう」
蓮は修正箇所に印をつけた。
最初の打ち合わせでは、互いの進め方に慣れず、細かな部分で意見が食い違うこともあった。しかし、何度も一緒に準備を重ねた今では、必要なことを率直に話し合えるようになっていた。
「そういえば、明日の進行は開会式のときよりも簡単そうね」
麗華が書類を整えながら言った。
「そうだといいな。もう予定外の出来事に合わせて即興で進行を変えるのは勘弁してほしい」
「次に即興で何かするなら、せめて事前に私に知らせてちょうだい」
「努力するよ」
麗華はじっと蓮を見つめた。
「本当に?」
「……できる限り」
「まったく、あなたって人は」
呆れたように言いながらも、麗華の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
蓮はその変化に気づかないまま、資料の順番を確認していた。
すべての確認を終えた、そのときだった。
「おや、蓮。こんなところにいたのか」
男性の声が二人の会話に割って入った。
振り返ると、そこには上品なスーツを着た男性が立っていた。胸元には来賓用の名札があり、その物腰には洗練された雰囲気が漂っている。
しかし、何よりも蓮の注意を引いたのは、男性が自分に向ける親しげな表情だった。
彼は西園寺家と関わりのある人物で、幼い頃の本物の蓮を知っている人物だった。
「こんにちは」
蓮は西園寺家の後継者としてふさわしい態度を意識しながら挨拶した。
男性は微笑んだ。
「そんなにかしこまらなくてもいい。昔から知っている仲じゃないか」
蓮の胸に、わずかな緊張が走った。
こうした言葉こそ、彼にとって最も注意を要するものだった。
男性と本物の蓮が、過去にどんな会話を交わしたのか。
どんな出来事を一緒に経験したのか。
今の蓮には、その記憶がない。
だからといって、すべてを覚えているふりをすれば、いずれ矛盾が生まれてしまう。
前日の会話で学んだように、知らないことを無理に知っているふりをするより、相手の話を聞き、誠実に応じるほうがいい。
「またお会いできて嬉しいです」
蓮は慎重に答えた。
男性は満足そうに頷いた。
「ところで、文化交流祭の運営にも携わっているそうだね。明日の閉会式では司会を務めるとか」
「はい。いろいろな方に協力していただきながら、準備を進めています」
「それにしても、細かいところまで気を配っているようだね」
男性はテーブルの上の資料に目を落とした。
「昔の君は、物事が思いどおりに進まないと、すぐに解決しようと躍起になっていたものだ。何でも自分で何とかしたがるところがあってね」
蓮は返事に迷った。
その記憶を否定することはできない。
かといって、自分のものとして懐かしむこともできなかった。
「今でも、まだまだ学ぶことばかりです」
しばらく考えた末、蓮はそう答えた。
男性は目を細めた。
「なるほど。ずいぶん変わったね」
「……そうでしょうか」
「ああ。以前なら、自分の成果を説明したり、うまくいかなかった理由を並べたりしていたかもしれない。だが、今の君は違う。自分のことばかり話そうとはしない」
男性は感心したように笑った。
「いったい、何が君をそこまで成長させたんだい?」
その問いかけは、何気ないものだった。
しかし、蓮にとっては簡単に答えられる質問ではなかった。
一瞬、祖父の健司の顔が脳裏をよぎる。
生活のために働いてきた日々。
自分の選択が間違っていたと気づき、その責任を引き受けなければならなかった経験。
そして、誰かの信頼を裏切らないために、何ができるのかを考え続けてきた時間。
蓮は資料に目を落とした。
自分には、本物の蓮の幼少期を語る資格はない。
けれど、自分自身が経験してきたことなら、偽る必要はなかった。
「自分がそんなに成長したとは思っていません。今でも失敗しますし、分からないこともたくさんあります」
男性は黙って耳を傾けていた。
「ただ、人は立場が変わっただけで、自然に立派になれるわけではないと思います」
蓮はゆっくりと言葉を続けた。
「大切なのは、周囲の人にどう接するか。そして、問題が起きたときに、どう向き合うかじゃないでしょうか」
一度言葉を切り、相手の反応を確かめる。
「何かがうまくいかなかったとき、それ自体を完全に防ぐことはできないかもしれません。でも、そこで自分にできることを探すのか、それとも誰かに責任を押しつけるのかは、自分で選べます」
麗華が、隣で静かに蓮を見つめていた。
蓮は気づかずに続ける。
「それに、恵まれた環境や機会を与えられたのなら、自分のためだけに使うのではなく、周りの人のために何ができるかを考えたいです。見返りがあるからではなく、自分の行動が誰かに影響を与えるのなら、少しでもいい方向へ進むようにしたいと思っています」
話し終えた蓮は、少しだけ息を吐いた。
男性はしばらく黙っていた。
やがて、感心したように笑った。
「いやはや、驚いたよ」
その表情には、からかうような雰囲気はなかった。
むしろ、予想していなかった答えを聞いたことへの純粋な驚きが浮かんでいた。
「それは、本を読んだだけで身につく考え方ではないね」
「自分一人の力ではありません。これまで、いろいろな方に教えていただきましたから」
蓮は祖父の顔を思い浮かべた。
健司からは、人として守るべきものを教わった。
徹からは、西園寺家で生きていくための振る舞いを学んだ。
そして、この立場になってから出会った人々からも、多くのことを学んでいる。
陽菜は、過去の思い出を大切にしながらも、新しい時間を築こうとしていた。
麗華は、互いの意見を尊重し、信頼することの意味を教えてくれた。
栞は、自分の力を信じて困難に立ち向かう姿を見せてくれた。
彼女たちとの出会いが、自分を少しずつ変えているのだと思う。
「そうか……。君のご家族も、今の君を見たら誇らしく思うだろうね」
その言葉に、蓮の胸がちくりと痛んだ。
西園寺家の人々は、今の自分を見て、本物の蓮が成長したのだと思っている。
だが、自分は彼らが育てた蓮ではない。
その事実が消えることはない。
「期待に応えられるよう、これからも努力します」
蓮は静かに答えた。
男性は満足そうに頷いた。
「完璧であろうとしなくてもいい。大切なのは、自分が何のために始めたのかを忘れず、努力を続けることだからね」
その言葉を最後に、二人は文化交流祭について少し話を交わした。
やがて男性は、ほかの展示も見て回ると言って、その場を離れていった。
蓮はしばらく、その背中を見送っていた。
会話そのものは、無事に終わった。
知らない思い出を捏造することもなかったし、過去を知っているふりをして話を合わせることもしなかった。
それでも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
「蓮」
麗華の声が、静かな思考を遮った。
「どうした?」
「大丈夫?」
彼女の表情は、いつものように落ち着いていた。
しかし、その目は蓮のわずかな変化を見逃していなかった。
「うん。大丈夫だよ。ただ、さっきの話について考えていたんだ」
麗華は少しだけ彼を見つめたが、それ以上は問い詰めなかった。
「彼の言葉は、お世辞ではなかったと思うわ」
「そうだな」
「それに、あなたの答えも本心から出たものだった」
蓮は返事をしなかった。
麗華は腕を組み、メインホールの様子へ目を向けた。
「私は、あなたが子供の頃にどんな人だったのか、すべて知っているわけではないわ」
蓮は彼女を見る。
「でも、今のあなたについてなら、自分の目で見てきたことを話せる」
麗華は少しだけ間を置いた。
「あなたは、信頼できる人よ」
その言葉に、蓮はわずかに目を見開いた。
「……そう言ってもらえるのは嬉しいな」
「ただし、これからも間違いを犯したら、きちんと指摘するから」
「それは勘弁してほしいな」
「駄目よ。あなたが自分で努力すると言ったのでしょう?」
「はいはい、分かったよ」
麗華は呆れたように息を吐いた。
しかし、その表情はどこか柔らかかった。
蓮は、思わず笑みを浮かべる。
この会話を通じて、彼は一つのことに気づき始めていた。
麗華が信頼しているのは、彼女が記憶している過去の蓮だけではない。
今、目の前で一緒に仕事をしている自分の言葉や行動も、彼女は見てくれている。
もちろん、だからといって、今の自分が本物の蓮の代わりになれるわけではない。
嘘をついている事実が消えるわけでもない。
それでも、今ここで築いている信頼まで、すべて偽物だと決めつける必要はないのかもしれなかった。
「ありがとう、麗華」
「……急に何よ?」
「話を聞いてくれて」
麗華は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
それから、視線を少しだけそらす。
「別に。話したくなったら、話せばいいだけよ。無理にすべてを説明する必要はないわ」
蓮は穏やかに頷いた。
「覚えておくよ」
二人は再び、明日の進行表を確認し始めた。
先ほどまでの会話が、二人の間に気まずさを生むことはなかった。
むしろ、以前よりも少しだけ自然に意見を交わせるようになっていた。
資料の修正を終えた蓮は、更新した進行表を運営担当の生徒たちへ届けるため、メインホールを出た。
廊下では、翌日の発表に向けて準備を進める生徒たちの姿が見えた。
展示用の看板を取りつけている者。
機材を運んでいる者。
動作確認を繰り返している者。
誰もが、自分の役割を果たそうと懸命に動いていた。
蓮は、その光景を眺めながら歩いていた。
すると、廊下の端で、一人の生徒が大きな箱を持ち上げようとしているのが目に入った。
箱は予想以上に重いらしく、少年は何度も持ち直していた。
蓮は足を止めた。
「手伝おうか?」
少年が驚いて振り返る。
「えっ? 西園寺……?」
「ああ。どこまで運ぶんだ?」
「この先の教室です。でも、大丈夫です。自分で運べますから」
そう言いながら、少年はもう一度箱を持ち上げようとした。
しかし、箱の角が近くの机に引っかかってしまう。
蓮は苦笑した。
「一人で無理をする必要はないだろう。反対側を持つよ」
「す、すみません……」
二人で箱を持ち上げ、慎重に廊下を進む。
机の角を避け、教室の入口を通り抜け、指定された場所へ箱を置いた。
「ありがとうございます、斉園寺」
少年は驚いたような表情を浮かべながら礼を言った。
蓮は軽く手を振った。
「気にしなくていいよ。机の角には気をつけてな」
そう言って、再び歩き出した。
ほんの数分の出来事だった。
誰かに褒められるようなことでもなければ、特別な成果として記録されるようなことでもない。
それでも、蓮は不思議と心が軽くなるのを感じた。
成熟とは、立派な言葉を口にすることだけではない。
自分の失敗を認めること。
誰かの助けを必要とするとき、それを素直に受け入れること。
そして、目の前で困っている人がいたら、少しだけ足を止めること。
そんな小さな行動の積み重ねも、人を形作っていくのだろう。
窓際まで来たところで、蓮は足を止めた。
夕暮れの光が、中庭を橙色に染めていた。
そこには、明日の発表に備えて最後の調整をしている生徒たちの姿があった。
彼らは誰かの家柄を気にしているわけでも、名門の子息として評価されることを求めているわけでもない。
ただ、自分たちが準備してきたものを、きちんと届けようとしている。
蓮は、その光景を静かに見つめた。
本物の蓮は、今もアメリカでリハビリに励んでいる。
怪我から回復し、再び自分の足で歩けるようになるために、懸命に努力しているはずだ。
彼がいつ戻ってくるのか。
戻ってきたとき、どんな未来が待っているのか。
蓮には分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
いつか、自分はこの場所を本物の蓮に返さなければならない。
今の自分がどれだけ努力しても、西園寺蓮という名前を永遠に自分のものにすることはできない。
そして、その事実から逃げるつもりもなかった。
自分がこの役目を引き受けたのは、祖父のためだった。
その後も続けてきたのは、引き受けた責任を途中で投げ出したくなかったからだ。
そして今では、失望させたくないと思う人たちが増えている。
だからこそ、いつか真実を明かす日が来たとしても、自分の行動に恥じない人間でありたい。
蓮は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……まだまだ、学ぶことばかりだな」
その呟きには、諦めも悲観もなかった。
自分は完璧な人間ではない。
これからも間違えるだろうし、どうすればいいのか分からなくなることもあるだろう。
それでも、自分にできることを考え、少しずつ前へ進んでいけばいい。
誰かから受け継いだ名前だけではなく、自分自身の選択によって、これからの自分を形作っていく。
蓮は目を開け、腕に抱えていた資料を持ち直した。
文化交流祭は、まだ終わっていない。
明日の閉会式も、成功させなければならない。
そして、その先にも、果たすべき約束が待っている。
蓮は再び歩き始めた。
西園寺家の後継者としてではなく、自分自身の決断に責任を持つ一人の人間として。
今の自分にできることを、一つずつ積み重ねていくために。




