俺のものではない思い出
土曜日の朝。
星嶺学園・文化交流祭は、二日目を迎えていた。
前日の開会式を無事に終え、学園内では生徒たちによる展示や発表が本格的に始まっている。校舎の廊下には案内板が並び、庭園では来場者が花々を楽しみ、展示室からは生徒たちの説明する声が聞こえていた。
それぞれの場所で、生徒たちは自分たちの企画を成功させようと奮闘している。
プレゼンターを務める蓮も、来賓への挨拶や各企画の案内など、忙しい時間を過ごしていた。
「蓮、少しよろしいかしら?」
麗華がファイルを手に近づいてきた。
「どうしたの?」
「午後の発表スケジュールが変更になったの。音楽の演奏が少し早まったから、わたくしたちの紹介も調整する必要がありますわ」
蓮は資料を受け取り、内容を確認した。
「なるほど。前の演目の紹介を少し短くすれば、次の発表につなげられそうだね」
「わたくしも同じことを考えていましたわ。意見が一致してよかったです」
麗華は満足そうに微笑んだ。
「それから、昨日の開会式も素晴らしかったですわよ。あれだけ練習したのですから、当然といえば当然ですけれど」
「麗華もね。隣で進行してくれたおかげで、俺も落ち着いて話せたよ」
「そ、そうですか……?」
麗華の頬がわずかに赤くなる。
「ええ。あなたが隣にいてくれて、心強かったですわ」
「俺も同じだよ」
蓮が自然に笑いかけると、麗華は一瞬、言葉を失った。
(ま、またそんなことを……!)
昨夜の開会式を思い出すだけでも胸が高鳴るというのに、本人はどうしてこうも平然としているのだろう。
「と、とにかく! 午後も失敗しないよう、しっかり確認しておきましょう!」
「うん。よろしく頼むよ」
二人が資料を確認していると、一人のスタッフが近づいてきた。
「西園寺様、お客様がお待ちです。レセプション会場でご挨拶したいとのことです」
「分かりました。ありがとうございます」
蓮はスタッフに案内され、レセプション会場へ向かった。
会場には、展示を見終えた招待客たちが集まり、飲み物を片手に談笑していた。企業関係者や卒業生、学園と長い付き合いのある人物も多い。
その中に、白髪の混じった髪をした中年の男性がいた。
男性は蓮の姿を見つけると、懐かしそうに顔をほころばせた。
「おお、蓮くん! 大きくなったなあ! 最後に会ったときは、まだ小さな子供だったのに!」
蓮の身体が一瞬、強張った。
「お久しぶりです」
どうにか笑顔を保ちながら、丁寧に頭を下げる。
男性は親しげに笑った。
「そんなにかしこまらなくてもいい。私は君のお父さんと長い付き合いなんだ。昔、家族の集まりでよく会っただろう?」
「……ええ。そうですね」
蓮は慎重に答えた。
本当は、目の前の男性がどんな人物なのかさえ、詳しくは知らない。
それでも、相手は自分を幼い頃から知っているらしい。ここで露骨に戸惑えば、不自然に思われるかもしれなかった。
「君はいつもお父さんの後ろについて回っていたな。大人たちが話している間は、窓際でじっと周囲を観察していた。雅宏くんも、君は好奇心が強い子だと言っていたよ」
(家族の集まり……? 父親の後ろ……?)
次々と語られる思い出に、蓮は内心で焦っていた。
もちろん、それらは本物の蓮の記憶だ。
だが、悠斗には知る由もない。
知らないことを知っているふりをすれば、かえって不自然になる可能性がある。
「そうでしたね。ずいぶん昔のことですから、懐かしいです」
何とか当たり障りのない返事をすると、男性は嬉しそうに頷いた。
「そうだろう、そうだろう! あの頃の君は、ずいぶんと大人しかったからね。あるときなど、私が話しかけても、ずっとこちらを見ているだけだった。覚えていないかな?」
蓮は笑顔を保ったまま、頭の中で必死に答えを探した。
「申し訳ありません。小さい頃のことなので、細かいところまでは……」
正直にそう伝えると、男性は意外にも気を悪くした様子を見せなかった。
「ははは、そうか! 子供の頃の記憶なんて、そんなものだろう。私だって、すべてを覚えているわけじゃない」
「ありがとうございます」
「それに、今の君を見ていると、昔とはずいぶん印象が違う。立派な青年になったものだ。雅宏くんも安心しているだろうね」
男性は蓮の肩を軽く叩いた。
「今度はゆっくり話そうじゃないか。君の成長した姿を見られて、本当に嬉しいよ」
「ありがとうございます。また機会がありましたら、ぜひ」
ちょうどそのとき、別の招待客が男性を呼んだ。
「おっと、呼ばれてしまった。それでは、またな」
男性は笑顔で手を振り、その場を離れていった。
その姿が見えなくなった瞬間、蓮はそっと息を吐いた。
(……危なかった)
大きな失敗はしていない。
それでも、胸の奥には嫌な感覚が残っていた。
これまでは、徹から教わった立ち居振る舞いや、陽菜たちとの会話で得た情報、そして自分なりの工夫で何とか乗り切ってきた。
しかし、幼い頃から本物の蓮を知っている人間には、それだけでは通用しないこともある。
相手が覚えているのは、蓮自身も忘れてしまったような細かな出来事かもしれない。
そして、そんな相手と再び出会う可能性は十分にあった。
「……本当に、いつまで続けられるんだろうな」
思わず本音が漏れた。
すぐに周囲を見回したが、幸い誰にも聞かれていないようだった。
悠斗はネクタイを軽く整え、気持ちを切り替えようとした。
自分は、ここで立ち止まるわけにはいかない。
祖父を助けるために始めたことだ。
それに、今では自分を信頼してくれる人たちがいる。彼らの努力を無駄にしたくはなかった。
けれど、どれだけ努力しても、自分が本物の蓮ではないという事実は変わらない。
そのことを改めて突きつけられたような気がした。
「蓮?」
声をかけられて振り向くと、雅宏が立っていた。
「どうした? 少し顔色が悪いようだが」
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけです」
「そうか。何かあったのなら、話してみなさい」
蓮は少し迷ったあと、正直に話すことにした。
「先ほど、お父様の古い知人の方とお話ししました。子供の頃の思い出をいくつか聞かせていただいたのですが……」
「なるほど。答えに困ることがあったのか」
雅宏はすぐに事情を察したようだった。
「はい。知らない話ばかりだったので、間違ったことを言わないように気をつけました」
雅宏はしばらく蓮を見つめたあと、静かに頷いた。
「それでいいんだ。覚えていないことまで、無理に覚えているふりをする必要はない。昔のことを聞かれたら、懐かしいですね、と相手の話に耳を傾ければいい」
「……それでも、何か間違えてしまうのが怖いんです」
「気持ちは分かる。だが、私たちは君に完璧な人間になってほしいと言っているわけではない。君に頼んだ役割を、できる限り果たしてほしい。それだけだ」
蓮は顔を上げた。
「すべてを完璧にこなすことと、任された責任を果たすことは違う。困ったことがあれば、周囲を頼ってもいいんだ」
その言葉を聞き、蓮は徹からも似たようなことを言われたのを思い出した。
一人ですべてを背負おうとしなくていい。
自分にできることを、一つずつやればいいのだ。
「ありがとうございます、お父様」
周囲にほかの招待客がいることを意識し、蓮は息子として自然な呼び方をした。
雅宏は穏やかに微笑んだ。
「これからも頑張りなさい。何かあれば、遠慮なく相談してくれ」
「はい」
雅宏が別の来賓のもとへ向かうと、蓮はもう一度深く息を吐いた。
少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
レセプション会場を出て廊下を歩いていると、庭園の方から楽しそうな声が聞こえてきた。
展示を見に来た招待客が、生徒たちの案内を受けながら花壇を眺めているらしい。
蓮は窓越しに、その様子を見つめた。
陽菜が準備してきた庭園も、栞たちが作り上げてきたミライリンクも、麗華が心を込めて準備した音楽の発表も、すべては生徒たちが自分の力で形にしたものだ。
自分も、その努力を伝える役割を担っている。
そう考えると、先ほどまで胸の中にあった不安が、少しだけ別の感情に変わった。
過去の記憶をすべて知ることはできない。
けれど、今この瞬間に何が起きているのかは、自分の目で確かめられる。
そして、自分が何をするべきかも、自分で考えられる。
「……今できることを、やるしかないか」
蓮は小さく呟き、再び歩き始めた。
廊下の先で、麗華が資料を確認していた。
「蓮、もうお話は終わりましたの?」
「ああ。ちょっと昔の話を聞いただけだよ」
「何か困ったことでもありましたの?」
蓮は一瞬、答えに迷った。
しかし、麗華は彼の顔を見つめながら、無理に問い詰めようとはしなかった。
「誰にでも、予想していなかったことが起きるものですわ。大切なのは、そういうときにどうするかだと思います」
「……そうだね」
「すべてを知っている人間などいませんもの。分からないことがあれば、周囲に尋ねればいいのです。あなた一人で何もかも解決する必要はありませんわ」
蓮は目を瞬かせた。
「最近、みんなから同じようなことを言われるな」
「それだけ、あなたが一人で抱え込もうとしているということですわ!」
麗華は胸を張った。
「わたくしだって、あなたを助けることくらいできますもの。必要なら、いつでも頼りなさい!」
「ありがとう、麗華。頼りにしてるよ」
蓮が素直に微笑むと、麗華の頬がほんのり赤くなった。
「そ、そういうことなら、遠慮なく頼りなさい!」
「うん」
二人は再び、午後の進行を確認するために歩き始めた。
蓮の心には、まだ不安が残っていた。
本物の蓮を知る人々が、これからも思い出を語ってくるかもしれない。
そのたびに、知らない記憶を前にして戸惑うことになるだろう。
けれど、今日の出来事を通して、一つだけ分かったことがあった。
他人の記憶をすべて知ることはできない。
未来に起こる問題を、すべて予測することもできない。
それでも、問題に直面したとき、どう向き合うかは自分で選べる。
そして、困ったときには助けてくれる人たちがいる。
蓮は隣を歩く麗華を見た。
彼女は資料を確認しながら、次の発表について真剣に考えている。
その姿を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
自分が誰なのか。
いつか本物の蓮が戻ってきたとき、何が変わるのか。
まだ、答えは見つからない。
それでも、今ここで築いている関係や、目の前にいる人たちの努力を大切にしたい。
そう思いながら、悠斗は再び前を向いた。
文化交流祭は、まだ二日目の途中だ。
今はただ、任された役割を果たしながら、この時間を大切にしよう。
自分のものではない思い出に戸惑いながらも、悠斗は一歩ずつ前へ進んでいった。




