第3章 王命の真意
王都の中央に聳える王城。その最奥部にある執務室では一人の男性が窓の外を眺めていた。
パウリノ三世。王国を治める現国王である。40代後半という為政者として脂の乗った年齢の彼の背筋は真っ直ぐに伸び、鋭い眼差しには一国の王としての威厳が宿っている。賢君。民はそう称える。だが、彼自身はまだ己の治世に満足していなかった。
「……まだ、遠いな」
ぽつりと漏らした呟きに、隣で書類を整理していた王妃カルメンシータが微笑む。
「またそのことを考えておられたのですか」
「考えずにはおられぬ」
パウリノは窓から離れ、執務机に戻った。机上には各地から届けられた報告書が山のように積まれている。農政、税制、治安、外交。その中に一束だけ毛色の違い書類があった。
表紙にはこう記されている。『エチェバルリア公爵令嬢 近況報告』
王妃はそれを見て苦笑する。
「本当にお気に入りなのですね」
「当然だ」
王は即答した。歳の近い甥の娘、それがフロレンシアだ。近しい親類の中で唯一の女児だったこともあり、幼いころから王妃共々可愛がってきた。けれど、それだけで目をかけているわけではない。
「惜しい」
「ええ」
「実に惜しい」
二人は同じ結論に至る。
フロレンシア・エチェバルリア。彼女があと10年早く生まれていれば。或いは王太子があと10年遅く生まれていれば。間違いなく王太子妃になっていただろう。容姿、教養、判断力、統率力、人格、どれをとっても申し分ない。
「王太子妃として欲しかった」
「流石にそれはどうにもなりませんもの」
カルメンシータが柔らかく笑う。今の王太子妃に問題や不満があるわけではない。ただ、どうしても思ってしまうだけだ。
「年齢だけは、神様も融通してくださいませんでした」
「全くだ」
王太子は既に20代後半。妃も迎え、3人の子供にも恵まれている。今更どうこうなる話ではない。
「だからこそ」
王は静かに椅子へ腰を下ろした。
「別の形で国に尽くしてもらうことにした」
カルメンシータはゆっくりと頷く。二人の間では何度も話し合ってきたことだった。或いは甥のエチェバルリア公爵や姪婿のシガンダ公爵とも、何度も膝を突き合わせて諮ってきた。
この国は男尊女卑が強い。王位継承権は男子のみ。爵位継承権も男子のみ。女性は子を産み育て家内を回し、夫に従う。それが当たり前とされてきた。だが、現実とは乖離している。
「現実には、夫より優秀な夫人は決して珍しくありませんわ」
王妃は静かに言う。
「その通りだ」
事実、母の王太后も姉も妻の王妃も優秀な女性だ。姉が王位を継いでも何ら問題もなかった。ただ、男尊女卑の国法がそれを許さなかっただけだ。
地方では領政の実務を夫人が担うことも少なくない。当主が遊興に耽れば夫人が執務を行う。夫が病弱ならば妻が采配を振るう。夫が戦場へ赴けば留守を守り、領地を保つ。
それでも、表向きには全て『当主の功績』となる。『女が政治をしている』その事実を世間の男たちは認めたがらない。だから記録にも残らない。
「余はそれを変えたい」
静かな声だった。だが、そこには王としての決意が宿っている。
「いきなり女性にも爵位継承権を認めるなどと言えば、反発しか生まれぬ」
「ええ」
「ならば段階を踏む」
まずは無能な夫、有能な妻。その妻が領地経営を行うことを国王自ら公に認める。それが当たり前になれば、やがて人々の意識も変わる。
「そして、その最初の一例に選ばれたのが……」
「シガンダ公爵家」
カルメンシータが言葉を継ぐ。
条件が揃いすぎていた。隣接する同格の公爵家。国の命運を左右するオリハルコン鉱脈。そして誰もが認める才媛と、誰もが頭を抱える放蕩息子。あれの存在を知ったときには王は『息子とも孫とも世代が違ったことを神に感謝する』と思ったほどだ。
「正直なところ」
王は苦々しく笑った。
「ナサリオほど都合のいい人材も珍しい」
「あなた」
王妃が呆れたように笑う。
「本人が聞いたら泣きますよ」
「泣くほど理解が出来ているなら、余もここまで苦労せぬ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。笑いが収まると、王は再び真顔に戻る。
「シガンダ公爵には酷な話だった」
「ですが、オラシオ殿は受け入れられました」
「公を優先できる人物だからな」
息子可愛さで目を曇らせることをしなかった。ナサリオに領地経営の才能が乏しく、それ以前に意欲が皆無であること、このままでは家が傾き領民が困難に見舞われること、それを誰よりも理解している。
だからこそ、フロレンシアという才女を迎えたいと願った。その思いは、王の計画とも一致したのである。
「尤も」
カルメンシータは少しだけ表情を曇らせた。
「フロレンシアちゃんには本当に申し訳ないことをしました」
従姪のフロレンシアを王も王妃も可愛がってきた。幼いころは登城する父に伴われて城に上がり、王妃や王太子、王子たちに可愛がられていたのだ。愛らしく利発でそれゆえにちょっと生意気で、そんなフロレンシアを皆が娘のように妹のように愛し、実の兄弟たちに警戒されたこともあった。
「ああ……」
王も頷く。彼女は何も悪くない。ただ優秀だった。
孫である王子が産まれたとき、当時10歳だった彼女は言ったのだ。『お兄様とわたくし、弟がこの子の御代をお支え致しますわ!』と。跡継ぎではない第二子であれば宰相にもなれたであろう才能を持っていた。女でさえなければ。それほどに優秀でありすぎた。
その才能ゆえに、国の未来を背負う役目を与えられてしまったのである。
「せめて」
王が静かに言う。
「余が責任を持とう」
「はい」
「彼女が領地を治めることを、王が認める」
それは密かな王命。まだ誰にも公表されない未来。しかし、その未来こそがやがて王国を少しずつ変えていく礎となることを二人は信じていた。
「弟のシルベストレが姉の代わりに宰相を目指しております。きっとあの子が宰相になって真っ先にやるのは、姉の付けた道筋を未来へ繋ぎ完成させること」
微笑みながらカルメンシータは未来を予測する。パウリノも笑い、同意した。あの姉が大好きな従甥は姉の苦労を決してそのままにはしないはずだ。恐らく遅くとも孫の治世には女性の継承権が認められることになるだろう。
エチェバルリア公爵邸。王都の中心部に位置する壮麗な屋敷の執務室では、フロレンシアが父イグナシオと兄モデストを相手に1枚の設計図を広げていた。
「こちらが新たな灌漑水路の案です」
細く白い指が地図の上を滑る。
「現在の川筋ですと、下流域は毎年のように水不足になります。こちらへ分水路を設ければ、農地の拡張も可能になります」
「ふむ」
イグナシオは腕を組み、図面を眺める。隣ではモデストが感心したように頷いていた。近隣の男爵家が経営破綻したため立て直しを国王に命じられ接収した領地。その領地の改善案を模索していたところである。
「なるほど。水門を一つ追加するだけで済むのか」
「はい、その代わり、堤防を少し高くする必要があります」
「費用は?」
「初期投資はかかりますが、10年で回収できます。ただ、飽くまでもそれは我が家の経済基盤があってこそのもので、旧男爵家では厳しかったかと」
即答だった。数字も根拠も全て頭に入っている。イグナシオは満足そうに笑った。
「採用しよう」
「有難うございます、お父様」
フロレンシアは深々と頭を下げる。その姿を見ながら、モデストは苦笑した。
「父上」
「なんだ」
「やはりフロレンシアを嫁に出したくありません」
「私も同感だ」
「兄様」
フロレンシアが困ったように笑う。
「何度も申し上げていますでしょうに」
「解っている」
解っているからこそ惜しいのだ。
「本来ならお前にはエチェバルリア公爵家で私を補佐して欲しかった」
「以前も仰ってましたね」
「あれは本心だ」
モデストは真っ直ぐ妹を見る。フロレンシアには領地経営の才があり、本人も意欲を見せていた。だから、イグナシオもモデストもフロレンシアを外に嫁に出す気はなかった。領政官としてモデストの補佐の役を正式に与えるつもりで準備していた。結婚はフロレンシアが望む者とさせ、その者に分家を立てさせるつもりでもいた。
初めは女というだけで忌避していた領政官たちもフロレンシアと仕事をするうちに彼女を認め、やがて彼女が将来の上司となることを楽しみにし始めた。公爵領内に限っては、女性だからと能力を制限されるような悪習が徐々に払拭されていっていたのだ。
3年前にシガンダ公爵令息との婚約が結ばれた際には一部の領政官たちが『うちの姫執政が盗られる!』と騒いだほどだった。尤も隣領であるために次期シガンダ公爵の評判は聞いており、『あの盆暗じゃ姫執政に白羽の矢が立つのも仕方ない』『姫執政がお力を発揮できるように根回しするぞー!』と盛り上がっていた。そして領政官や役人の草の根運動の成果か、既にシガンダ領府には一定数のフロレンシア派が存在するらしい。
「妹だからではない。お前ほど領地経営に長けた人材はそうはいない」
「買い被りですわ」
「いや」
イグナシオが首を横に振る。
「お前の提案で実現した事業が、既にいくつあると思っている」
新しい農法、水路整備、牧畜の改良、商人との共同事業。そのどれもが成果を上げていた。
勿論、領外では現公爵であるイグナシオ、或いは次期公爵であるモデストの功績となっている。しかし、領内では皆が知っている。その発案者が誰なのかを。
「……だからこそ、辛い」
父は静かに呟いた。
「国のためとはいえ、お前をあの婚約者の許へ送り出さねばならぬことが」
執務室に沈黙が落ちる。フロレンシアは静かで、しかし強い意志を込めた視線で父を見る。
「お父様」
「なんだ」
「そんなお顔をなさらないでくださいまし」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「これはエチェバルリア公爵家のためでもあり、王国のためでもあります」
「しかし……」
「それに」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「領地経営はできますでしょう? しかも、自分の名で」
その言葉に父と兄は顔を見合わせた。
「……そうだったな」
「王命ですもの」
フロレンシアは肩を竦める。聊か令嬢らしくない所作ではあるが、家族の前では問題ない。
「シガンダ公爵領を預かることもお役目の一つです」
そう。この部屋にいる3人は知っている。この婚姻の本当の意味を。国王パウリノ三世は密かに命じていた。ナサリオが爵位を継ぐとき、公爵としての地位は与える。だが、領地の裁量権はその妻であるフロレンシアに委ねることを。
勿論、表向きには『公爵夫妻が共同で治める』という形になる。男尊女卑の強い国内で、いきなり女性が領主になるとは言えない。だから一歩ずつ。まずは領主補佐或いは領主代行。少しずつ、人々の常識を変えていく。
その最初の一歩がフロレンシアだった。
「正直」
モデストが苦笑する。
「ナサリオ殿が真面目に領地経営を始めたら困るな」
「兄様」
「本音だ」
イグナシオも頷く。
「あれこれ口を出されるくらいなら、遊んでいてくれたほうがまだいい」
「同感です」
フロレンシアも思わず笑った。ナサリオに才能があるなら話は違う。だが、現実はそうではない。才能もなければ意欲もない。彼が遊び歩き、仕事を押し付けてくれたほうが、領地は安定する。何とも皮肉な話だった。
その日の夜。フロレンシアの私室では、いつものようにマカリアがお茶を淹れていた。
「はい、お嬢様」
「ありがとう」
二人きりになると、自然と表情が和らぐ。
「今日はお父様たちとお話しされたんですよね? どうでした?」
「また、兄様に『嫁に行かずに補佐官になれ』って言われたわ」
「あはは」
マカリアは声を上げて笑う。
「若様、本当にお嬢様大好きですもんね」
「困った兄でしょう?」
「でも解ります」
紅茶を差し出しながら頷く。
「あたしだって、お嬢様が他の御屋敷へ行くなんて嫌です」
「リア」
「だから」
少しだけ真面目な顔になる。
「絶対、一緒についていきます」
「ええ」
「お嬢様一人じゃ心配です」
「ありがとう」
フロレンシアは微笑む。学院では他人。屋敷では主従。そして本当は、誰よりも信頼できる親友。
「リア、わたくし、少しだけ楽しみなの」
「何がです?」
「領地経営よ」
マカリアは笑い、揶揄うように尋ねた。
「結婚生活じゃなくて?」
「ええ」
「そこ即答なんですね」
「だって、結婚生活は楽しみじゃないもの」
二人は顔を見合わせる。そして同時に噴き出した。
「まぁ、お坊ちゃまは放っておいても遊び歩きますよ」
マカリアは肩を竦める。
「でしょうね」
「だったら、お嬢様は好きなだけ、領地経営できます」
「そのためにも」
フロレンシアはゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
「ナサリオ様には、仕事よりも楽しいことを見つけていただかないとね」
その言葉に、マカリアは意味深な笑みを浮かべた。
「ええ。そのためにも頑張ります」
二人の視線が重なる。まだ学院生活は続く。卒業まで、あと1年足らず。そして卒業から1か月後には結婚式。
その日から、二人が練り続けてきた計画が本格的に動き始める。
尤も、それを知る者はまだ、ごく限られた人々だけだった。




