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遺形の承継者  作者: Skorca
第2部
35/35

35.攻勢

「ご指示の通り、カーラントの短剣をお返しして参りました」

 部屋の隅で片膝をつき、頭を垂れたまま抑揚の無い声で男は報告した。

 中天を過ぎた陽光が差し込む窓辺にたたずみ、家令と共にその報告を受けたヴィーは軽く頷く。

「大儀でした。彼は何と?」

「は、御前ごぜんに感謝の意を述べられ、また助力の件については主の姫の意向に従ったまでのことにて、お気遣いはご無用にと仰せになりました」

「そうですか」

 ヴィーは簡潔に答えると、男から家令のほうに顔を向ける。

「さすがはカーラントの秘蔵っ子と言うべきですかね。見習いの身でありながらなかなか実戦慣れしているようですし、振舞いにもそつが無い――まったくあちらは人材に恵まれていてうらやましい限りです」

 ため息混じりに呟きながら、ヴィーは足下に視線を転じた。

 そこにはひげ面の中年の男が転がされている。両手両脚を縄で厳重に拘束され、口にも猿轡さるぐつわを噛まされていた。後ろ手に縛られたその手指は二本失われ、傷口の手当てもされず流れ出る血が、床を覆う敷きわらをじわじわと染めている。

「申し訳ございません……。間者の潜入を許すなど、この失態、いかようなお咎めも受ける覚悟です」

 家令が厳しい顔つきでヴィーに詫びた。

 ヴィーは首を振る。

「末端に入り込む間者を完全に防ぐなど、そもそも無理な話でしょう。――さて、せっかくリード殿が気を利かせて生かしておいてくれたわけですし、話を聞いてみましょうか」

 今度は家令が首を振る番になった。

「旦那様が直々に御下問なさるような相手ではございません」

 相手の制止にヴィーは苦笑混じりに肩を竦める。

「それはそうなのですけれどね。これから地下牢に引き渡して……などとやっている時間が惜しいのです」

「ですが……」

 なおも食い下がる家令に、ヴィーはにこりと笑ってみせた。

「まあ、今回は目をつむってください。……猿轡を取って」

 家令から草の男に向き直り、ヴィーは指示する。まるで聞く気がない主の様子に、初老の家令は仕方なく口をつぐんだ。

 傷の痛みからか、芋虫のように身体をよじりもがき続けていた男は、口の自由を取り戻すなり悲鳴にも似た声でわめき始めた。

「どうかお許しを……お綺麗な旦那様! なんでも……なんでも喋りますんで」

 ヴィーは小首を傾げる。

「『お綺麗な』って、ここでわざわざ付けるものなのですかね?」

 男の前でわざとらしく無邪気な表情を作って家令を振り返ると、家令は慎ましく咳払いをした。

「やんごとない、ということを申し上げたかったのでしょう」

「ふうん? ……さて、なんでも話すと言いましたね?」

 家令の言葉に納得したともしないとも答えず、ヴィーは再び男の顔を覗き込む。男は必死に何度も頷いた。

「言いやした! お、俺の知ってることなら……!」

「そう。では貴方にディルを殺すよう命じた貴族の名は?」

 単刀直入な質問に男は戸惑った顔になる。

「貴族……? いや……俺は繋ぎの奴から依頼されただけで……どのお貴族様の命令かなんてのは……」

 その様子に、ヴィーは予想通りの反応を得たとばかりに頷いた。

「ええ、貴方が知るわけもありませんよね。質問を変えましょう」

 態度は柔和な世間()れしていない貴族の若様、という風情でありながら、それ以上の掴みどころがないヴィーの様子に、男は無意識のうちに表情を強張らせる。

「これまで貴方は何人ほどの人を殺してきたのでしょうか?」

「……は?」

 てっきり今回の依頼についての尋問が続くとばかり思っていた男は、意表を突かれて目を見開いた。

 ヴィーはあくまでにこやかな表情を崩さない。

「人殺しを実績の無い人間に依頼するはずがありません。それが本業かは知りませんが、少なくとも貴方は殺人に対して抵抗が無い人種でしょう。……それで、どれほどの人をあやめたことがあるのですか?」

 男はごくりと唾を飲み込んだ。

 人のさそうな笑みを浮かべつつ剣呑な質問を繰り出すこの相手が、見た目通りの人物でないことは明白だった。

 こんなことを訊いてくるということは、この屋敷に潜入し使用人を殺害しようとしたという行為より、自分の能力について興味があるのだろう、と男は推測する。

(なんだ、この若様は俺を使いてぇのか)

 そう思った彼の顔から、緊張が消えていく。手先から伝わる傷の痛みまで薄らぐ気さえした。

(そりゃこんなでかい家のお貴族様だ。消したい邪魔な人間だって山ほどいるわな。使用人なんざいくらでも替えが利くんだろうしよ)

 潜入先で凶行に及んだうえにそのすべてを屋敷の主人に知られてしまった、という絶体絶命の状況から、一転して活路が見出せそうであると考えた男は、薄ら笑いを浮かべて饒舌じょうぜつに語り出した。

「へへ……ご当主様もお人が悪い。幾人か、なんてのは忘れちまいましたが、両手じゃ足りねぇのは間違いありやせん。お望みとありゃあ、報酬さえはずんでくだされば……」

 男の読みが当たったのか、若者の微笑が消えることはなく、むしろじっとこちらの話に耳を傾けているようだった。男は勢いづいて言葉を続ける。

「本当は目立たねえで潜入して、周りに分からねぇように標的を消す、ってのが得意なんで。ただ今回はとにかく急げ、亡骸も寄越せって面倒な話だったもんだから、このまま姿をくらませるつもりで仕掛けまして……。なんでもう面の割れたこの屋敷にゃいられませんが、ご所望とあればお望みの場所に潜ってなにがしかのお役に立ちますぜ。指は減っちまったが正面から戦うわけじゃねえ、なんとでもなりますわ。へへ、ご安心を。老人や女子供、赤子だろうとり好みはしねぇんで」

 ヴィーはふむ、とひとつ頷いた。

「貴方のディルに対する言動はおおかた草に報告させましたが……実際に話を聞くに、私の推測通りの人物のようですね」

「へえ……どうです? お役に立てそうで?」

 いまいち分からねえ反応するな、と内心で首を傾げながら、男はび笑いを浮かべてヴィーを見上げる。

「そうですね…… 貴方の特技については生憎あいにく、間に合っているのですが、貴方自身は役に立ちそうです」

 ヴィーは穏やかな笑みを口許に貼り付けたまま、男を挟んで向こう側にいる草に手振りで合図をした。

 相手の言葉の意味を理解する間もなく、男の喉が進み出た草に掻き切られる。

 吹き出した血は特有の臭気を振り撒きながら、あらかじめふんだんに重ねられていた敷き藁に滴り落ち、吸い込まれていった。

 ヴィーは顔色も変えずその様子を見つめていたが、やがて見開いた男の目から完全に光が失われると、初めて表情を消してため息をつく。

「お怒りですか、旦那様」

 早々に間者の命を絶つよう命じたヴィーに、家令が静かな声で尋ねた。

 国内きっての大家を預かる老練の彼にとって、眼前で繰り広げられた光景は特段動揺するようなものではない。しかしその家令から見て自らの息子より歳若い主人の心境がどうであるか、普段離れて暮らしている彼には、完全に把握できてはいない自覚があった。

 ヴィーは首を振る。

「腹を立てていないと言えば嘘になりますが……。私がいる場所でこんな真似をされては、見逃すわけにもいかないでしょう。残念ながら個人的に温情を与えるべき事情も益も見つかりませんでしたしね。ただ悪人とはいえ、依頼主の名も知らされない者に手を下すのは忍びないものです。……それより、見つかりましたか?」

「はい。こちらがこの者が持参した紹介状です」

 家令はしわの目立つ手で一枚の羊皮紙を差し出した。

 ヴィーはそれを受け取ると窓の方に向けて広げ、目をすがめる。

 窓から差し込む陽の光に透かされ、羊皮紙に走る不規則な繊維の影が浮き上がった。注意深く陰影を探ると、紙の厚みがところどころ不自然に変化しているのが見て取れる。薄くなっている箇所のいくつかに、本来の文面とはまた別の文字の跡があった。

 貴重な羊皮紙は公的文書に用いるものであっても、再利用されるのが常である。不要となった文書の紙面を削り、その上から新たな内容を書き込むわけであるが、時折深層までインクが染み込み、以前の内容が判読可能であることも少なくなかった。 

(さすがに出所を辿れるような再使用紙パリンプセストは使わないか)

 紙面に残る元の文字に何らかの手掛かりはないかと見てみたものの、早々にそれは諦める。

 紹介状自体は特に不審な点は無い。しかしどうやらこの書状の作成元は、書面に記載されている王都内の教区聖堂ではなく、まったく別のところであるらしかった。

 書面の文字のわずかな癖に、ヴィーはおぼろげながら見覚えがある気もしたが、優秀な書記が筆跡を操ることに長けているのはよく知られている。となると証拠として持ち出すには弱いと言わざるを得なかった。

「アブラス殿はずいぶんと()()()書記を抱えておいでのようです」

 ヴィーの呟きに家令が眉を上げる。

「アブラス卿……と申しますとディルの元主人の?」

「ええ」

「……男爵家がこの家に間者を放つなど……」

 他の有力家門ならばともかく、リリーの末端の家が宗主たるソーン伯家に対してそのような真似をするとは、と家令は眉をひそめたが、ヴィーは首を振った。

「アブラス殿の間者ではないでしょう。潜入の時期からして、この者自身はおそらくフレーズ家の意向で差し向けられたのだと思います。ただ、そこにアブラス殿が手を貸したのは間違いない」

「ではフレーズ卿の指示で? しかし先ほどの使者の話からいたしますと、フレーズ卿がこの者に凶行を命じたとは考えにくいと存じますが……」

 腑に落ちないという顔の家令にヴィーは頷いてみせた。

「ええ、ローゼルひとりならやりかねませんが、マダーが付いている以上、彼が私の領域へ直接手出しすることは何としてでも阻止するはず。ただ、そうなるとアブラス殿にはローゼルから切り捨てられるかもしれないという恐れが生じる」

 その場合、ディルが彼の屋敷で偽造されたメリア署名を目にしているという事実は、アブラスにとってあまりに都合が悪い。

「ディルの亡骸を要求したのも、顔を見て間違いなく本人だと確認したかったのでしょう。それにここに遺体も殺害跡も残らなければ、行方知れずではあっても殺されたとまでは断定できなくなりますし。……となるとアブラス殿の指示である線が濃厚です。彼は潜入に協力するていを装いつつ、自身もこの者の繋ぎを握っていたのかもしれません。叔父とはいえ、何の利もなくローゼルに協力はしないでしょうから」

「では、この者を証人――いえ、証拠として、アブラス卿を糾弾なさると?」

 果たして可能か、と不安を滲ませる家令の問いに、ヴィーは首を振った。

「真っ当な手段を取ってやる必要はありません。ここでの私には時間がないことを承知で、あちらも強引な手を使ったのでしょうしね。そもそも――」

 そこでヴィーは言葉を切り、嫣然えんぜんと微笑んだ。

「真偽がどうであれ、()()()()()()()()()()()()()()ということを、リリーの面々はそろそろ肝に銘じるべきです。私もこれまで、彼らにそれをきちんと理解させる努力が足りていませんでしたね。なんでもリエール卿に言わせると、私の思考は蜜も恥じ入る甘ったるさだそうなので……」

 そこまで言うと、自身の言葉に異論ありげな顔をする家令から敢えて背を向け、羊皮紙を持ったまま窓の近くに用意させた書物机まで歩いていく。ペンを取り羊皮紙の裏面に何事か書きつけると、ヴィーは紙面のインクを少しの間乾かしてから、控えている草の男に渡して静かに命じた。

「夜半を過ぎたら、これをこのむくろと共にアブラス殿の屋敷に投げ入れなさい」



 フレーズ伯家に逗留中のウィロウ卿が、当主ローゼルの執務室に呼び出されたのは、前回彼の方がこの場に乗り込んだそのすぐ翌日のことだった。

「貴殿の意向についてグネモン殿より回答があった」

 ローゼルは気怠けだるげな顔つきを隠そうともせず、呼びつけたウィロウ卿に告げた。

「望み通り、会談に応じるということだ」

 ウィロウ卿は相手の不遜な態度にいささか気分を害した様子であったが、伝えられた内容に気を取り直し、鷹揚おうように頷いてみせる。

「それは重畳ちょうじょう。して、いつ頃お会いすること叶いましょうや?」

 どこか弾んだ様子の相手に、ローゼルは重々しく答えた。

「早速、本日に」

 ウィロウ卿は唖然として目をみはる。

「なんですと……?」

 面食らった彼は思わずそう漏らしたが、自身の動揺をローゼルに見られた気まずさに表情を引き締め、咳払いした。

「グネモン卿はお話が早い御仁でございますな」

 感心するような口振りでそう言ってみたものの、内心は穏やかではない。

 何しろ、グネモン卿との接見をローゼルに要請してからまだ一日経つか経たぬかというところだ。彼の希望が先方に伝えられたのは早くて昨日の夕刻か、はたまた今日になってからだろう。それがその日のうちに来いなどと、迅速な対応と言えば聞こえがいいが、手厚く迎えるつもりがないという姿勢がありありと見える。

 ウィロウ一門が背後にいると分かっていながら、フレーズ家に対して非協力的な振舞いに及んだことといい、やはり軽んじられている、と彼は確信した。

 しかしそんな相手の様子など意に介さず、ローゼルは淡々と続ける。

「グネモン殿は多忙の身だが、貴殿も国許くにもとに戻る都合がある以上、先延ばしにはできぬであろう。ゆえに無理を申して時間を割いてもらったのだ。あちらの返答では、貴殿のために空けられる時間は日没前の半刻のみとのこと。もう陽も高い。当家の馬車を用意するゆえ、早々に仕度なされるがよい」

 矢継ぎ早に伝えられる内容に内心焦りながら、ウィロウ卿は表面上は平静を装い懸念を示した。

「……よろしいのですかな? かような昼日中ひるひなかにこちらからグネモン邸に馬車を出しては、人目につくのではありますまいか」

「無論、直接は出せぬ。当方からは一度王宮に向けて出立していただこう。そこであらためてグネモン邸に向かうことになる」

 王宮と聞き、ウィロウ卿は落ち着かなげに視線を彷徨さまよわせた。

「……私は内密にこちらに参った身ですぞ。宮廷に顔を見せるわけには……」

「主宮に近付かねばよいだけであろう」

 ローゼルは何を言い出すのかとでも言わんばかりの顔になる。

「外宮に侯爵家の迎えの馬車が来る手筈てはずとなっている。出入りも多い場所ゆえ、素知らぬ顔でそちらに移れば問題はない。むしろ夜陰に紛れて動こうとするほうが、余程各家の密偵の耳目を集めよう。――何か不服なことでもお有りか?」

 ウィロウ卿はなおも緊張の面持ちを崩さなかったが、ようやく口を引き結んで頷いた。

「……致し方ありませぬな」

 不承不承という顔つきの相手を横目にローゼルは椅子から立ち上がり、話は終わりだとばかりにウィロウ卿に背を向ける。

「侯爵家との繋ぎはマダーに一任してある。王宮までは彼が随行する。――これ以上当家が貴殿に協力できることは無い。恙無つつがなくグネモン殿との会見を終えられることを祈っている」

 背中越しにそう告げると、相手の言葉も待たずにローゼルはこの場から去っていった。



(若造……無礼な若造めが! 小国の一貴族が身の程をわきまえぬ……! それともこれがこの国のウィロウに対する態度なのか。カンファーそのものがかように我らをあなどっておるのなら、エレカンペインとしても捨て置けぬ。グネモン卿にも、我がウィロウの威勢をしかと刻みつけねばならぬな)

 ウィロウ卿は自身にあてがわれた客棟に戻りながら、内心で気炎を吐く。

 グネモン卿が陰謀への協力を途中で放棄した身であることを考えると、こちらの申し入れに対する対応はあまりに誠実さに欠けていた。むしろあちらが出向いて許しを請うくらいのことであろうに。

 第一、グネモン侯を筆頭とするカーラント家は、この国でウィロウ同様王家の外戚という立場だが、その前身は爵位も持たない下級騎士の家柄である。

 ウィロウも先祖を辿たどれば郷士に過ぎないと言われるにせよ、一族の当主がカウスリップ全域を領有し、伯爵位を得たのはカーラントが台頭するよりずっと以前の話だ。

 建国当初からの権門であるリリーに成り上がりという目で見られるのはともかく、カーラントから同様に見下される道理は無い。まして、カンファーは母国エレカンペインの庇護を受ける立場にある。同じ王家の外戚と言っても、そもそも両国が対等な関係ではないのだ。

(まあ、よい。筋書きは大幅に変わったが、グネモン侯との対話が成せれば、ソーン伯失脚にも劣らぬ成果を王妃にお届けできよう……。むしろあの頼りないフレーズ伯など、はじめからグネモン侯への繋ぎにのみ使えばよかったのだ)

 いささか不本意な形ではあるが、対面さえ叶えばどうとでもなる。フレーズ卿の策から途中で降りたのも、グネモン卿が利に敏いがゆえだというのであれば、かえって好都合かもしれなかった。

「マダーが同行するという話であったが……彼の姿が見えぬぞ」

 かくなる上は一刻も早くグネモン邸へ向かい、話すべきことを話さねば……とウィロウ卿は気がはやる。忙しなく左右に視線を走らせながら、先導するこの屋敷の家令に尋ねた。

 家令は歩調を緩めてわずかに振り向き、慇懃いんぎんに答える。

「マダー殿はグネモン侯爵家の馬車を迎えるため、外宮におもむかれています。貴方様のお支度が整うまでには戻りましょう」

 ウィロウ卿はふむ、と軽く頷き、落ち着かない手つきで顎を撫でた。

「慌ただしいことよ」

「左様で……」

 滞在している部屋に戻ると、すでに数人の従僕と侍女が礼装の用意を整え待ち構えていた。

 男爵であるウィロウ卿は、格としては王国政府の上級役人や王騎士に該当する。その装いは、金糸の使用が許される領主身分の上位貴族に比べれば地味であるが、生地や仕立て、それに細々とした装飾に至るまで、いずれもその財力を裏付けるような一級品揃いだ。

 その姿に、経済基盤が脆弱ぜいじゃくな地域を多く抱えるエレカンペインの宮廷では、名門と言いつつ貧窮する貴族たちから羨望の目を向けられることもしばしばであった。

 父祖伝来の一張羅でどうにか体面を取り繕っているような貧乏貴族も少なくない。そのようななか、到底彼らには手が届かない高価な品々で身を固めることは、ウィロウ卿が身分を超えて相手を圧倒するための有効な手段だった。

 問題は、今彼が訪れているカンファーは、母国よりはるかに裕福であるという点である。

 つまりエレカンペインでは敵無しに近いウィロウの財力が、ここではそこまでの優位性を示せないのだ。

 近頃凋落(ちょうらく)の兆しが見え隠れしてきているとはいえ、長年政治的にも経済的にも王家を支え、この国で最も格式を誇るリリー一門に属するフレーズ卿が、明らかにウィロウ卿に対して敬意が欠けている様子なのは、その証左であろう。

(ふん、財力と一口で言おうと、この国の貴族と我らとでは財源の性質も規模も違うというに。……ソーン伯を追い落とすこともできなんだあの若造に、それを語ってみたところで意味はなかろうがな)

 身支度を整え、再び家令の案内で用意されたフレーズ家の馬車まで向かうと、騎士マダーがそこに控えて いた。

「では、一度王宮まで参ります。どうぞお乗りを」

 実直そうな顔の騎士はそう言って一礼する。

 自身の従者を伴いウィロウ卿が乗り込んだ馬車は、重厚な造りの箱馬車だった。目線より高い位置に小さな明り取りの小窓が付いているが、扉を閉めてしまえば中は暗い。目が慣れるまでは手許も危ういくらいであったが、外から姿を見られない構造は、今のウィロウ卿には都合が良かった。

 暗がりに眼を凝らしつつ、彼は斜め向かいに座る老いた従者に尋ねる。

「例の書簡は持っておろうな?」

「はい、旦那様。こちらにお持ちしております」

 かさりと、従者が自身の懐を探る音が耳に届く。

「切り札は多い方がよいからな」

 頷きながらウィロウ卿が呟くのに重なって、外からマダーの出立の掛け声が聞こえ、ほどなく馬車は動き始めた。



 王宮の外宮で、ウィロウ卿は滞りなく案内された馬車に乗り換える。グネモン邸に向かうという今度の馬車も、フレーズ邸のものより地味な外見ではあるものの、基本的な造りは変わらない箱馬車であった。

 ここまでの道行きを指揮していたマダーとはここで別れることとなった。それこそフレーズ伯の腹心である彼が、白昼堂々グネモン卿の屋敷に随行できるはずもない。

 そろそろ傾き始めた日差しが小さな窓から差し込み、ウィロウ卿は眩しさに目を細める。やがて馬車はゆっくりと進み出したが、逆光で外の様子はまるで見えなかった。

 伝わるのは道からの振動と馬の蹄の音、そしてきしむ車輪の音のみだ。

「まったく……厄介な時間に招くものよ」

 ウィロウ卿は不快げに顔を顰める。

 馬車は幾度か方向を変え、しばらくしたところで徐々に速度を落とし、ゆっくりと停止した。

 ようやく到着したか、とウィロウ卿は小さく息をつく。

 しばしののち、外から扉が開かれた。

 先に降りた従者に身体を支えられつつ地面に足を降ろす。彼が顔を上げると、そこには幾人もの従僕が並んでいた。彼らを従えた家令とおぼしき老齢の男が、滑らかな所作で進み出ると、品良く一礼する。

「ようこそお越しくださいました。主人あるじの許までご案内いたします」

 彼は簡潔に告げると、ウィロウ卿が口を開くより先につと身体の向きを変えた。そのまま正面にそびえ立つ荘厳な佇まいの屋敷に向かって歩き出す。

 出迎えの人数に比して、いささか素っ気ないとも言える態度に釈然としないものを感じつつ、ウィロウ卿は黙ってその後ろについていくことにした。今後の自身の栄達を賭けた場を前に、ここで些末なことに文句をつけている場合ではない。

 歩を進めながら、屋敷の内装にそれとなく目を遣ったウィロウ卿は、隅々まで贅を凝らした調度や壁を飾る見事な綴れ織り(タペストリー)に内心目を瞠った。

 単に豪奢で高価なだけのものであれば、むしろウィロウ卿は見慣れており、それだけでは特段の感慨も抱かない。しかしここに並ぶいずれもが、入念な手入れによって保たれた美しさと共に、年経たものにしかかもし得ない、近寄り難い気配を放っていた。そもそも、この屋敷に流れる空気全体から、圧倒されるような威厳を感じる。

 ウィロウ卿は驚くと共に意外に思った。

 隆盛極まるとはいえ、新興であるカーラントの屋敷ともなれば、どちらかというと骨董品より目新しいものに囲まれているのではないかという、漠然とした先入観があったからだ。

(何を臆することがある。グネモン卿が客人の威圧のためにこれらを手に入れたというだけのことであろう。その証拠にこの家所縁(ゆかり)の紋が刻まれたものなどひとつも無いではないか)

 ウィロウ卿はそう思い直し、雰囲気に飲まれまいと胸を反らす。

 似たような立場にあるということは、考え方にも通じるものがあるということだ。新興勢力の貴族が何に腐心するかといえば、古参の貴族たちのあなどりをいかに避けるかという点である。

 ウィロウ卿が自身の装いに込める狙いと、この屋敷のしつらえの意図は恐らく同じものに違いなかった。

 そうと看破してしまえば何ほどのこともない。ウィロウ卿はすっかり威勢を取り戻し、屋敷の奥深く、眼前に開いた扉の向こうに意気揚々と踏み入れた。

 通されたのは三階分ほどが吹き抜けになった大広間だった。高い天井からは巨大な縦長のつづれ織りが左右に吊るされ、まるで城のような威容を見せている。

 正面の壁の手前に彫刻の施された衝立ついたてがあり、ウィロウ卿を先導してきた家令がその奥に向けてうやうやしく声を掛けた。

「旦那様、お連れいたしました」

 家令の態度から、その相手は間違いなくグネモン卿であろう――と、ウィロウ卿は気を引き締めて同じ方向を凝視する。

 その間にも、彼の背後では馬車を出迎えた使用人たちが続々と入室していた。

 なぜあの十人近い人数が、律儀にここまでついてきたのか、とウィロウ卿は心の片隅で疑問に思ったが、そのようなことよりこれから姿を現すであろう相手の方に、ほとんどの神経を集中させる。

 ほどなく、衝立の影から一人の人物が現れた。

 それが老人ではなく、一見してさして華美でもない騎士の装束に身を包んだ若者であることに、ウィロウ卿は驚く。

 グネモン卿の側近の騎士が主を先導しているのか? と彼は無意識のうちにこの状況に対して自分なりの説明を付けようとした。しかし正面に立ち、あらためてこちらを真っ直ぐに見据えた相手が、この国では珍しく、また自分にとっては馴染みのある金の髪をしていることに気付き、愕然とする。

「ば……っ」

 馬鹿な、と思わず叫びそうになった。狼狽うろたえる卿の様子などまるで意に介さず、相手の若者は一度この場の全員の顔を、静かな面差しのまま見渡した。それからあらためてこちらに視線を戻すと、ゆっくりと口を開く。

「皆、大儀でした。――さて、ウィロウの使者殿。ここがどこか、そろそろお分かりになりましたか?」

 顔色も言葉も失うウィロウ卿の耳に、先ほど通ってきた扉の閉まる音が、無情に響いた。


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