第91話 ナイン・デル・ワードマン
それは和成がエウレカへ修行のため移住してから、三週間が経とうとしていた時のこと。気候が夏へと近づき、日中を出歩くには勘弁したい季節のことである。
「お土産を買ってきました」
「――ん」
目の下に深くクマが刻まれた不健康そうな顔のまま、和成が渡す菓子折りを研究員サファイアは受け取った。
「まったくいいご身分である。なんせ朝帰りばかりなのだからね」
寝不足なのだろう。その言葉には棘がいくつか混じっていた。
彼女は基本的に、気分の浮き沈みが激しい。躁鬱のケがあるとナインが言った(翻訳された)ように、落ち込む時は底の底まで落ち込み、調子に乗る時は雄山や法華院並みに調子に乗る。今までに何度かそういったことはあった。その際に和成が冷水を浴びせかけ、またそれとなく励ましたこともある。
「別に俺は酒を飲んでませんよ。商談相手の愚痴に付き合いながらお酌していると、何時の間にかそれぐらいの時間になるだけですし」
ただ今回のそれは、常時と比べても落ち込みが酷い様子であった。
「そんなことを言いながら・・・・悪い気はしてないのではないかね?聞けばその竜人は豊満な体の持ち主だそうではないか。スキンシップが多くなる中で鼻の下でも伸ばしてるのではないかね」
初めの方は夕方に出かけて日付が変わる前に帰ってこれたのだが、次第にジェニーの愚痴を聞きながら酌をしていると拘束される時間が長くなり、朝方になってようやく帰れるという状況になっているだけである。
しかしそう言われると、和成には反論が難しい。
欲情という概念を今一よく理解していない子供なので、別にいやらしい下心のようなものはない。ないのだが、それを正直に話して信じて貰えるかどうかは別問題であることは理解している。
そして子供だからこそ、男性に対して固定観念を所持していそうな女性を説得させられる言葉が分からない。
機嫌の悪い女性に対してどう言葉をかければよいのか、など、だいたいの男性は分かっていないことも分かっていない。
「――竜人族の怪力だと、体の一部でも掴まれたら下手に抵抗するだけで怪我をします。そうなったらお互いに嫌なので、相手が完全に酔い潰れるまで脱出できないだけですよ。そしてそれを達成するのに一晩くらいかかるんです」
結局、正直に話すぐらいの選択しか取れなかった。
「ふぅん、言い訳かね?言い訳していいわけ?だいたい君もまんざらではないとか思い始めているのではないかね」
それは事実だ。和成がまんざらでもないのは間違いない。
拘束時間が延びれば、それだけ自分が必要とされている気がする。
「ジェニーさんには良くしてもらっている恩がありますから」
剣呑な視線を向けるサファイアに、あくまで和成は冷静な態度で対応する。
彼女が不機嫌でいる理由を察しているためだ。
和成は週に二回ほどある商談の日は一晩徹夜することがほぼほぼ決まっているため、予め時間を見つけては昼寝をして寝だめしているのだが――それを寝不足気味かつ神経質になりカリカリしているサファイアの隣でする場面が幾度もあった。
和成にできた研究中の空白の時間―彼女の研究が行き詰りかけた結果起きる、増大した手出しできない暇な時間―をうまく活用しているのだが、彼女からしてみればいい気はしないだろう。良好な人間関係のためとはいえ。
そして彼女の不機嫌の理由は、おそらくそれだ。
(ただここで、寝不足と不規則な生活リズムのせいで自律神経が乱れて情緒不安定になってるんですよーなんて言ったところで、煽る結果にしかならない)
「サファイアさんは、酒は嗜まないんですか」
「興味が無いのでな」
その言い方は言葉を吐き捨てるようで、目がらんらんと血走っていた。
かなり寝不足と情緒不安定が目にキテいる。
和成は気分転換に外でも行きませんか――とでも言おうかとも思ったが、彼女が研究室の外へあまりで歩きたがらないことを知っているのでその言葉は口にしまったままになる。
研究者サファイアが自分の研究室から出る時は、生活に必要な行為のためか研究に必要な行為のためなどの最低限だけである。初日は堂々と和成を迎えに来たが、その時に見せた態度はそれが最初で最後であった。
それは何故か。
おそらく彼女は、極力人と会いたくないのだ。
もっと言えば、他の研究員と顔を合わせることを極度に嫌っている。
和成はそう考えている。
だからこそ最低限しか研究室の外には出ず、その際も人が少ない時間帯を選んで外出していた。和成が食堂へ誘っても早朝か深夜以外では応じようとしない。それも、何かしらの理由付けがなければならない。
その理由を彼女もその兄であるナインも口にしてはいない。
しかし、和成の察しの良さがあれば想像はつく。
たとえば衣服。
サファイアは何時も、黒を基本にした魔女が着るような胸元が開いたワンピースを身に着けている。対してナインが身に着けているのは、エウレカから研究員へ支給される足首までも覆う白いローブだ。隅々に魔術の印が記され一級品である。
また、気になったのは彼女の名前だ。サファイアは自分を吾輩と呼び、人に自分の名前を教える際はサファイア、あるいはワードマンと苗字しか口にしない。
決してフルネームを口にしないのだ。
例えば超賢者スペルの場合、そのフルネームは名・称号・姓になる。
その孫であるナインの場合は、名・称号・姓。
エウレカでは、フルネームは名前・称号・姓の順で並ぶ。個人の名前。特定の条件を満たした者が、名乗ることを許される称号。そして一族で共有する姓。
ただ和成は、今までの生活でサファイアが持つ称号を聞いたことがない。
そして二週間以上かけて少しずつ調べた結果、デルの称号を名乗ることが許される条件に辿り着いた。
デルとはつまり日本語の“出る”であり、“突出している”ということ。他者と比べて抜きんでいるということ。『意思疎通』のスキルが何故そのように訳したのかは不明だが、それはいったん脇に寄せておく。
そこから転じてエウレカでは、デルの二文字は学問において優れた実績を持つ者に送られる称号となっていた。
その情報にサファイアがエウレカの中央機関から研究員用のローブを支給されていないことを合わせれば、大枠が見えてくる。
つまり彼女の研究は、公には全く評価されていないのだ。
☆☆☆☆☆
「――という結論に達したわけですけども、何か訂正はあるでしょうか。ナインセンセイ」
機嫌を直すことは出来なかったため、諦めてサファイアのもとからナインへの協力を理由に退散した(逃げ出した)和成は、内在魔力量を増やすための処置をされながらナインへ尋ねる。
彼が発明した『魔力注入』の魔法陣を用いて、外部から魔力を注入し定着させるという実験があるのだが、その被検体となっているのだ。ただ魔法陣の中でじっと座っているだけなので、話す時間が大量にあり暇で仕方がない。
それに、まずは情報を集めなければ動けない。
「いや、ないよ。それが実際のところだ」
「じゃあ更に重ねますが、ひょっとしてサファイアさんって魔法が使えないんですか?」
「・・・・何故そう思ったのかな?」
「スペル先生とナインセンセイは『賢者』の『天職』を有しています。しかし彼女は『魔獣使い』で、それも『天職』ではない」
『職業』にもまた属性と同じように適性というものが存在し、その適性が一定以上の高さで合致している場合に『天職』として現れる。有する『職業』が『天職』の場合にのみ発現する固有能力も多く、『哲学者』の『天職』を有する和成の『至高の思考』と『ミームワード』がそれにあたる。
つまり彼女は『賢者』への適性がない。
また『天職』ではないため、『魔獣使い』への適性も高くはないのだろう。
レベルを上げれば簡単に強くなれるこの世界で、モンスターの被害がなくならないのはそういった理由もある。レベルを上げるにはモンスターを倒す必要があるが、和成がそうであるように戦闘能力に欠ける『職業』持ちは必ず一定数存在する。
女神の召喚が和成というイレギュラーがありながらも信仰が揺らがないのは、その和成すらも含めて、非戦闘職持ちもいるとは言え、全員が『天職』持ちであったからという側面もあるのだ。
「それにナインセンセイの研究の――魔法の才能がない者の魔法習得の体系化が、暗にサファイアさんを示しているように思えてならないんですよね」
「――正解さ。ワタシがその研究を始めたのは、それに成功すれば誰もが自衛の手段を持てるようになり、モンスターの被害を減らせると考えたから。……けど、その裏には妹にも魔法を習得させてあげたいって願望があるのは、間違いない」
ブゥゥゥゥンン。
パソコンの起動音のような低温が響いた。魔法陣を魔力が流れる音だ。
ナインの心が揺らいだからだろうか。
「その成果が、今、君に使っているこの魔法陣の発見だ。魔力の波長が合わない者へ対しても魔力を供給できるようになる魔法陣を、偶々見つけてね。これがあれば回復魔法なしで魔力を回復させられる。『定着』させることがまだ不完全だから、緊急の際に元々ある程度魔力がある人の、緊急事態が終わるまでのつなぎにしか使えないけどね。そして、それでワタシはデルの称号を貰えた」
「ふむ・・・・スペル先生の数々の研究と比べると、そこまで大したものじゃない気がするんですが」
「お祖父様と比べられるとそれは誰でもそうだよ―と言いたいところだけど、実はそうだ。和成クンの身体情報を読み取り保存した、魔導機械を開発したラベンさんがいるだろう。あの人と比べればワタシの研究成果は大したものではない。必要な知識も能力も、かけた時間も労力も桁が違う」
「しかし、必ずしも頭が良くなければ世界に革命をもたらせない訳でも、時間をかけた研究の方が偉いって訳でもないでしょう。偶然の発見による革命は俺の世界にも例は沢山ありますよ―というか、偶然でない発見の方が少ない気がします。発明だとか研究だとか、そういったものの進歩は1%の閃きによるところが大きいでしょう。それに80年前に瞬間移動の魔法を確立したスペル先生が、お金や身分や内容に関わらず研究者が自由に自分の研究ができる場所を作ろうと、私財を投じて出来たのが学術都市エウレカじゃないですか。ここは研究が生み出す金銭的な利益だとか有用性よりも、学術的な意義を評価する場所でしょう」
「――それはあくまで建前さ。デルの称号を名乗るにふさわしいと判断するのはエウレカの中央機関だからね。年に一度の大発表会でその審査に通らないといけない。だから直接的に儲けがすぐ出そうな研究が、評価される傾向にあるんだよ。エウレカは研究成果を他国に売ったりして生計を立てているからね。
まぁそれ自体は、学者に都市の運営や経営を任せたらお金がいくらあっても足りないし、数年でつぶれるから仕方ない。ワタシは自分の研究成果に関してさっきは卑下するようなことを言ったが、自分が積み重ねた努力に自負もあるし誇りだってある。けど、この世に完全な客観というものはない。中央機関の審議会が、ワタシが超賢者スペルの孫であり『賢者』の『天職』持ちでもある――という点から評価が甘めになっていた可能性はある訳だ。その道のプロの評価と、ずぶの素人の評価は違う。素人がプロの権威を全く受けないで評価するなんてことは不可能さ。彼らは彼らで、また別のプロではあるんだけどね。
そして逆に、超賢者スペルの孫でありながら『賢者』ではなく、その上、魔法を全く使えないサファイアの評価が自然と下降してしまうということもは―どうしてもあるんだよ。元々サファイアの「ステータス差によって起こる現象を計算式によって求める」研究は、客観的な証明が不十分で、研究としても不完全だったのもあるしね。それは一応、この世界の外側にいる君からの情報で改善されてるけど」
和成はステータス的にはまっさらな状態だ。身体能力に関係するステータス値が全て1で、日本にいたころと身体能力に変化がない。それはつまり、和成の運動能力こそ、ステータスの補正を受けていない能力の基準とみなせるということ。
しかし和成がいない時、当たり前だがその基準はなかった。
ステータス値が全て1である者の運動能力が、果たしてステータスの補正がかかっていない素の能力であるのか、証明が不完全であった。
だからこそスペルは熱心に福利厚生まで整えて、和成をエウレカへ招いたのだ。
「お祖父様からしてみれば、孫娘の研究の手伝いをしたかっただけなんだってことは分かるよ。お祖父様自身、計算式で現象を解き明かし、“相対的に見えるステータスの補正は実は、絶対的なものである――という仮説の証明”に乗り気だったしね。ただ、そう受け取らない人は一定数どうしてもいる。超賢者スペルの孫でありながら『賢者』ではなく、その上、魔法を全く使えないのが妹だ。その2つに対するコンプレックスに、自分だけデルの称号を名乗れないことへのコンプレックス。
更には研究が認められデルの称号を貰っても、お祖父様の援助のおかげだとか七光りだとか言われて、それが自分の成果でないと思われること。
そしてそのことを自分で認めかけていること。
それらが集まったせいで、サファイアはコンプレックスの塊だ。
だから研究室の外にも出たがらない。疎外感を感じてるんだろうね。
実際は和成クンのように、サファイアがどの『職業』だろうが興味がない人の方が多いんだけどね。特に此処エウレカで、研究に没頭するタイプの人種だとかは。ここだと『賢者』でない人も、魔法が使えない人も、普通にいる。立派に研究者をやってる。そこまで気にすることではないと思うんだけど」
「まーそういうことの区別がついたり、或いは評価しない人もいることを割り切れたりするのは、生まれ持ったものが関わってきますからね」
何となく悪意を持っているかいないかに気づくことが出来る。或いは、それを気にしないで生きていける。前者がナインであり、後者が姫宮だとするなら、対してそれが苦手なのが、サファイアや四谷のようなタイプなのだろうと和成は考える。
つまりは、人の悪意の見分け方と信頼できる人の選び方が、今一よく分っていないタイプだ。
「敵と味方の区別をつけるのが苦手で、味方に傷つけられることを恐れるあまり、味方を作ること自体を拒み始める。だから自然と人と距離を取るようになる」
「まさしく今のうちの妹だね。前はそうじゃなかったんだが――なぁ和成クン、何とかならない?聞いた話だと、王城で色々と人の相談に乗ってたらしいじゃない」
「愚痴を聞いてあげるぐらいのことしかしてせんよ」
「それで構わない。だから、何とか妹の鬱憤を晴らさせてほしいんだよ」
「――じゃあまぁ、やれる範囲でやってみます」
「そうか!」
ぐぇぇぇ。
ナインの感情が昂ったために過剰魔力が供給され、和成が魔力酔いを起こし嘔吐したのはその直後のことであった。




