回帰
「アニア……、どうかしたのか?」
書類の山を成す事務机で、難しい顔をして書類とにらみ合っていた彼女に、声をかける。
それを聞いて初めて気付いたというように顔を上げたアニアは、俺を見て頬を緩めた。そしてさりげなく、今まで見ていた紙を机の引き出しへしまい込む。
「どうも? 条約に調印してから、書類仕事が多くてね……。あたしは前線に出て指揮取ってる方が、性に合ってるんだけど」
苦笑い気味に朱印を取り上げて、手近な書類にそれを押す。
面倒がっているわけではないのだろうが、気疲れが溜まっているのかもしれない。変わってやりたいところだが、一将軍の俺ではなにも手伝ってやれることがなかった。
戦争は終わり、時代は変わりつつある――いや、変わったのだ。
これから、世界は少しずつ平和に向かっていくのだろう。何れアニアも、俺も用済みで、どこかで隠居生活でも強いられるのかもしれない。
だが、それでもいいかと思う自分もいた。
「なあ、今度久しぶりに、街に出ないか? 机に向かってばかりじゃ気が滅入るだろ」
そんなことを言って、軽いデートでもするつもりで誘ってみたりする。
すると案の定、彼女はそんなことに気付きもせず、満面の笑みを浮かべて言った。
「そうだなあ、他の連中も皆誘って、ぐるりと回るか。使い道のない給金がたんまり残ってる、私がパーっと奢ってやろう」
人の気になど気付きもしないアニアに、俺も苦笑いで返すしかない。
それでもやはり、何故か胸はすっとしていた。これから平和になれば何度でも、そんな機会はあるだろうと思えて、肩の荷が下りたような気さえする。
今度の週末は、皆で出かけよう――二人きりの時間など、またいつでもいいさと。
そう思えて、心から、平和を喜んでいたのに。
そんな機会は、もう二度と訪れることはなかった。
☤
「おおぉぉおおおおああああああっ!」
迫る武装兵のハルバードを、裏拳で弾き飛ばす。グローブの上から纏う神力が、この黒の国の硬質な金属にも悠々と打ち勝つほどに、腕全体の膂力と性質を改変しているのだ。
今この両腕は、かの剛腕で知られる魔物トロルよりも力が強く、鍛錬された金属も圧し折り、岩盤を砕いても堪えないほどに強靭になっている。纏う黒い神力は、俺の怒りを模す炎のように揺らめき、辺りにその光の欠片を散らしていた。
聖女に近づこうとした兵士の胸に拳を付きこみ、その金属鎧をへし曲げる。勢いを付け過ぎたか、宙に投げ出された相手は派手に地面に跳ね、石柱に激突して動かなくなった。
それを見て怯んだ別の兵の足を、低く横に払った腕で掬い上げる。無防備な腹を真上から叩き付けてやると、その身体が勢いよく落ちた衝撃で、老朽化しつつあった地面に勢い良く亀裂が走った。
バキバキと派手な音と共に広がる亀裂に、兵士の口元から零れた血が流れ込んで行く。殺してはいないはずだが、骨の一つ二つは折れてしまっているかもしれない。かといってこれ以上手を抜く気もなく、俺は間合いを測り周囲から様子を窺ってくる兵達に殺気を向けた。
――彼等に罪はない。
そんなことは分かっていた。全てループトンと、その取り巻きたちの策略だということは、他でもない俺が良く知っている。だが、ここにいる全ての兵は結局、あの男の戦争を推すやりかたに合意しているのだ。
「ここに立って、鎧と武器を身に纏う意味が、わかっているんだろうな……?」
威圧するような台詞に、言葉は帰ってこない。ただただ警戒心を張り巡らせる者達が、得物の届くギリギリの間合いをはかろうと、距離を詰めては離すばかり。
焦れる俺は、白い鎧の騎士に向けて叫ぶ。
「聖女様は任せたぞ! 俺は暴れさせてもらう!」
それを聞き、周囲に群がる敵をその巨剣で薙ぎ払った騎士は、無言のままに頷いてみせる。俺は地面を踏み抜き、目の前の兵士を目掛け拳を振り上げた。
彼等は、知らない。
俺や、あの聖女や、白い鎧の騎士や、そのお付きの見習いが、この国を敵に回しているのと同時に。
彼ら自身が、平定を望む世界そのものを、敵に回しているということに。
だが、やがて気付くだろう。
無能で我儘な独裁者の首が地に落ちた、その時に。
自分達が、如何に馬鹿なことをしていたのだろうと。
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