前夜
あの寂れた小さな教会の前に戻ってきたとき、既に月が頭の上まで登り、爛々と月光を落としていた。僕は先生が聖女との話し合いをしている間に一通り街を回り、人々に聞き込みをしてきたのだ。
そしていまこの国の、大まかな現状を把握した。まだ世界の機微になど精通していない自分でもわかるほど、この黒の国の行く末は不安定になっているらしい。
なんでも、今はもう既に終戦を迎えた大戦乱の最中、白、青、赤、黄――名立たる国々が疲弊し、もう戦いをやめようと訴えるなか、唯一強く反発したのがこの黒の国であったらしい。結果として赤、青、黄の三竦みと、白、黒の両端の国が各地を代表として条約に調印し、戦争が終わったとなってはいるが、黒だけは頑なに最後まで、戦うべきだと主張していた。
現在、軍を取り仕切っているループトンは当時将軍として調印の場に居合わせていたようだが、その怒り様といえば、人伝に聞いた情報だということを踏まえても酷かった。部下を殴る蹴る、陶器を壊し書類を破り、獣のように怒り狂っていたという。
当時の軍の代表だった人物が不審死を遂げたのも、その後釜に納まった彼の仕業だと、民衆も薄々は感づいているらしい。だが、大口開けてそれを声に出せば、即刻処刑されかねないような政治体制が既にできてしまっているがために、もう誰も今の国の流れに逆らおうとはしないのだ。
戦争に執着するループトンは、政治の代表者を丸めこみ、既に王を気取って暴政を振っている。
彼がその気になれば、近場の小国などすぐに黒の国の傘下に納まってしまうだろう。
そして遠くない未来、それは必ず行われる。
「止めなければいけないと思います。武装国家であるこの国が肥大化すれば、他の国は黙っていないはずです。鎖国によって石材の排出を制限し、武装を整えて、戦争の準備をしているのではないかと邪推される」
教会を取り囲む森の中の道で、僕ははっきりと思ったままのことを先生に伝える。
先生は一つこくりと頷いて、前を向いた。相も変わらず、何を考えているのかよく分からない、物静かなたたずまいである。
「ループトンは、そうやって同盟の国から受ける牽制を狙っているのかも……。事を荒立てて大事に仕立て上げられれば、戦争を始める大義名分ができますから」
自分で行って、背筋が凍るようだった。
今ようやく訪れた平和を平然と壊されれば、世界は本当に取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。そんな気がしてならなかった。
――止めなければ。
初めこそただの観光気分だった僕だが、この国の実情を見て、そう心に決める。
「明日、城に出向くんですよね? ……僕も、一緒に行きます」
夕暮れに、あの聖職者の男になす術もなく弾き飛ばされてしまった剣の、柄を握る。
役には立たない、どころか、もしかすれば足を引っ張るような真似をしてしまうかもしれない。僕はまだどこをとっても、あの聖職者にも、先生にも、足元にさえ及んでいないのだ。
それでも、自分で見出し、自分で戦わなければいけない。
黙々と歩みを進める、先生のあの大きな背中を、超える為に。
☤
ループトンからの書簡を、聖女は目にとめることさえ無く、暖炉の中へと放る。
燃え盛る火の中で、緩やかに消えてゆく高級な紙を眺めていると、俺の中で一つ、苦い思い出が蘇った。雲の垂れこめる薄暗い夜、中庭で黒焦げたあの人の亡骸を見つけたその瞬間、俺は全てに裏切られたような気がして――。
今でも時たま、夢枕に立つ。
あの夜何もできずにのうのうと逃げ延びた自分を、責めるように、蔑むように、まだ若い俺が見下してくる。それが堪らなく俺の胸を締め付け、起きた時決まって俺は、あの人の名を呼んでしまう。
「アニア……」
胸から下げる十字架を握り締め、その冷たさに唇を噛む。
復讐の時は、来るのだろうか。
暖炉の火を見つめるばかりの聖女の口元に見えた微笑の意味を、俺はまだ知らない。
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