第65話 「見通された感情」
屋敷に入り人を探す。
エイジン様はこの時間はいない。お嬢様も学園にいるはず。
今はこの屋敷にはアニスさん一人がいて仕事をしている。
罠は作動しないしいつかのように侵入者がが来るような気配も感じなかった。
肩の力を抜いて安心しきってアニスさんを探している。
そして10分も経たないうちに、音が聞こえてきた。
この道の先にアニスさんがいる。時間的にも掃除をしている頃合いだろう。
アニスさんに対しては恐怖を抱かないことを祈りながら、恐る恐ると歩みを進める。
そして廊下の曲がったところで、見慣れているはずの姿をとらえる。
「あ……」
アニスさんがモップを持って床を掃除している。
慣れた手つきで掃除を進め、汚れが見る見るうちに落とされていく。
通常であれば惚れ惚れするようなその手際の良さを、僕は体を震わせながら眺めていた。
「ユイ君? ずいぶん早いお帰りですね。気晴らしはできましたか?」
僕に気づいたアニスさんが話しかけてくる。
口調も言葉も、僕のことを気に掛けている優しいものだ。
恐れを抱くなんて失礼にもほどがあるその態度に僕は、
「は……はい。多少、マシになりました」
紛れもない恐怖を感じた。
目の前の女性が怖い。
目を泳がせ、視線を合わせないようにする。
直視すればきっと僕は平静でいられない。
また息を乱し、最悪の場合倒れてしまうことが予想される。
ダメだ、アニスさんにそんな態度をとってはいけない。
たとえ怖くても、平静を装わなければいけない。
僕はもう誰にもいじめられたくない。傷つきたくない。
だから、誰にも嫌われるわけにはいかない。
「……ユイ君」
「な、なんですか?」
「ボロボロの服も気になりますが、ユイ君の体調、朝よりもひどいことになっていると思うのは、気のせいですか?」
「っ……!」
アニスさんには僕の心の機微なんか到底お見通しなのだろう。
人の心を読むことには誰よりも長けている。それゆえお嬢様ですらかなわないと思わせるほどの人だ。
そんな人に僕の考えを悟らせないなんて、不可能なことだった。
「帰る途中に転んじゃいました。そのせいで泥だらけになって、用意していただいた服もこんなにしちゃって……すいません」
「そんなものは別にどうだっていいんです。服なんて有り余るほどにあるんですから。それに、今のユイ君は見た目の傷よりも、中身の方が心配なんですが」
「そんな心配していただかなくても、ぼくはだいじょう……」
「どうして、私を怖がっているんですか?」
何か異変を感じ取った、そんなレベルではない。
アニスさんは僕のすべてを見透かしているようだった。
心が完全に折れたことが。
アニスさんを、人間を怖がっていることを。
「……それは」
口ごもる僕は心配そうに見つめるアニスさん。
心配されていることは目に見えてわかるのに。
この人は僕のことを思ってくれているのに。
僕は、人が怖くてどうしようもない。
「ユイ君、いったい何が……」
アニスさんが一歩踏み出せば僕は一歩後ずさり。
アニスさんが声を発すれば僕は体を震わせ。
アニスさんが手を伸ばして来たら僕は腰を抜かしてその場に座り込む。
一挙手一投足に過剰な反応を示し、アニスさんでなくとも怯えていることがわかるほどに、狼狽える。
「ハーッ、ハーッ、ハーッ……!」
呼吸が乱れる。うまく息が吸えない。
視界もぼやけて、前がよく見えない。
「ゆ、ユイ君、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄るアニスさん。
しかし急激に人との距離が近づき、僕はさらに混乱する。
胸の苦しみは増大し、胃の中のものを全てぶちまけそうなほど吐き気がする。
「ユイ君! ユイ君!」
慌てふためくアニスさんの声。
その声はだんだんと小さくなっていき、聞こえづらくなっていく。
それと同時に、視界が暗転し始めた。
体中の力が抜け、何も考えることすらできないようになってしまう。
そして、胸の中の恐怖だけを残し、僕の意識は暗闇の中へと落ちていった。




