序章
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。 ——湯川秀樹『目に見えないもの』
瀬戸内の小さな漁港。坂の街として知られる街がある。
駅の南口を降りて、線路沿いを東に進むと踏切の向こうに有名な映画で知られる「光明寺下の跨線橋」が見えてくる。長いスロープを登り、跨線橋を渡って山へと足を踏み入れると、そこからはまるで迷路の様に複雑に入り組んだ路地が続く。ひたすらに坂道と階段を上り続けると、登頂者へのご褒美として、美しい景色が堪能できる。
そこからは、青くきらめく海の道と遠く霞む四国の山々が広がる。ここはこの町の観光の定番で、人々は思い思いに南側の景色を楽しむのだ。
賑わいを見せる南側と打って変わり、北側の山中はひっそりと静まり返って行きかう観光客もまばらだ。その山中に、時代から取り残された古い洋館があった。
明治の頃に豪商・西ヶ花家によって建てられたその邸宅は、ある出来事を境に、生きた人間を一切拒絶するようになった。
当初、中に入ろうとする者は、ドアをこじ開ければ入れるだろうと高をくくっていた。
しかし、どんな強固な工具もドアに傷一つ付けることができなかった。
強行突破の試みは、次第に狂気を帯びていき、窓ガラス割って中に入ろうと試みた。当時の職人が手吹きで一枚一枚作りあげた、二度と手に入らない貴重な大正ガラス。それを割ろうと金槌を振り下ろした男は、ガラスを傷つけるどころか己の手首を負傷する結果に終わった。
さらに事態はエスカレートし、ついにはダンプカーで突っ込むという暴挙にでたが、突っ込んだダンプカーの方が鉄くずと化して大破する一方で、館の方は無傷のまま、静寂を保っていた。
最後の手段として爆薬による破壊も検討されたが、当然、役所からの許可が降りるはずもなかった。
結局、利用できない土地と建物は、持て余した所有者によってあっさりと役所に寄贈された。
寄贈に際しては、所有者側の周到なロビー活動が展開され、建物は瞬く間に「国の有形文化財」として登録された。この「お墨付き」が、後の役所にとって大きな呪縛となる。
役所にしてみれば、利用できない「厄介者」を掴まされたのが本音であったが、文化財を無下に扱うわけにもいかず、渋々受理する形となった。
寄贈当初は、その豪奢な外観を、市のパンフレットに度々掲載した。反響は大きく、新たな観光地として期待は高まったが、期待に胸を膨らませて訪れた観光客から「中に入れない」という苦情が相次いだことで、広報への露出は極端に減っていく。
今やこの「開かずの洋館」は、国の有形文化財として、市の財政を圧迫するお荷物となってしまい、人々の記憶から急速に忘れ去られていった。
かつてそこで起きた、忌まわしき出来事の記憶と共に。
「魔女の館」と言う名を残して。
*
ぼろくさいアパートがある。住んでいる俺がいうのだから、間違いない。
この街は土地が少ない。だから、限界まで山を削って、人の住める領域を増やしてる。
このアパートはその先駆けとも言える。
近くに「開かずの洋館」がなければ、アパート完成直後には誰もが先を争って入居を希望したに違いない。
ここにアパートを建てた不動産会社は、何も分かっていなかったのだ。 「有形文化財」という、体裁ばかりの言葉に踊らされてこの土地を買わされた連中には、同情を禁じ得ない。彼らはあの洋館の「本当の呼び名」を知らなかったのだ。
この街に古くから住む者なら、あの館の話をしただけで例外なく震え上がる。
やれ「かつて館の前で凄惨な虐殺があった」とか、やれ「窓の向こうから、死んだはずの若い女がこちらを覗いていた」とか、やれ「あそこに住んでいた姉妹は、魔女だった」など
「館」の言葉すらこの街では禁忌なのだ。
結果として、当初は高値で募集されていたこのアパートは、際限のない値下げを繰り返すことになった。 ここに留まっているのは、あの洋館の呪いよりも日々の困窮を恐れる、訳アリたちの吹き溜まりとなった。
このアパートには、父とふたりで暮らしていた。小さい頃「怖い」とぐずったことがあり、その時父はただ悲しい顔を浮かべて俺を抱き抱えてくれた。
智恵子さんと父が再婚して、4年が経つ。そして父が蒸発して3年が経った。
今は、妹のあいとあいの母親の智恵子さんの3人でこのいわくつきのアパートで暮らしている。
夏休みが始まって、居なくなってしまった父の机で、夏休みの課題をこなしていると、智恵子さんがやってきた。
「学歩さん、夕飯の買い物にいってくるから、その間、あいを見ていてもらえるかしら、くれぐれも、お隣にはつれて行かないでね」
お隣とは、例の館の事だ。智恵子さんは未だに怖がって、娘のあいが館に近づくのをよしとしていない。 以前、智恵子さんに訊いたことがあった。
「引っ越しは考えないの?」
「こぶつきふたりだと、大変でね。それに、あの人がひょっこり帰ってくるかも知れないでしょ」
そういって笑ってた。俺にはその表情に哀しみが混じっているように見えた。
「学歩さん?」
「……はい、分かりました」
俺はそういってあいの世話を請け負った。
玄関先で智恵子さんを見送る。
「じゃあ、お願いしますね。あい、おにいちゃんの言う事をきいてお留守番お願いね」
「はーい」
あいは、両手をめいっぱい高く伸ばして返事をする。
智恵子さんを送り出した後、俺はあいに、「ボールあそびでもしようか」と外につれだした。
しばらく、ボールを転がしてあいの相手をしてると、見慣れた男がやってきた。
ぴっちりした黒いズボンに、中心に太陽を擬人化した派手なTシャツ。その上から紺のシャツを羽織ってる男――白井だ。
2階に住む遥さんに色目を使おうとやってきたのだろう。
しばらくすると、ゆうきと真珠が帰ってくるのが見えた。
「来てるぞ」
とゆうきに目配せをする。
「あいつ、また来てるのか」
ゆうきは露骨に眉をひそめた。
しばらくすると、一度は建物に入ったはずのゆうきが、凄まじい勢いで階段を駆け降りてきたのだ。
「おい! 」呼びかける俺の声に、ゆうきが門のところで足を止める。後から真珠が慌てた様子で追いかけてきた。
「お兄ちゃん、急に走らないで! 」
息を切らす真珠を背に、ゆうきの顔は引き攣っている。俺はただ事ではない気配を感じ、二人に問いかけた。
「何があったんだよ」
「ドアを開けたら白井が出てきて、私達を追い出したの」
息を整えながら、真珠が理由を話した。
「玄関開けようとしたら、直ぐ白井が出てきて、2000円渡してさ。『しばらく遊んで来いって』」
「なんか悔しくてさ」
「兄ちゃん、もらったお金投げつけて走り出すんだもん」
「そっか」
「さわがしいわね」
不意に横から声がした。香帆だ。俺と同い年で中学まで一緒だったが、今は別の、いわゆる「いいところ」の高校に通っている。奨学金が出たようで、街では才女と噂されている。もちろん肯定的な噂だけではなく、一部の人達は眉をひそめて「魔女じゃないのか」と囁いてる。
「あいちゃん、大きくなったんじゃない」
香帆があいを抱き上げる。その姿に、一瞬だけ見とれてしまう自分がいた。
「昨日も見てるじゃないか」
俺は条件反射的に突っ込みを入れる。
「細かいなあ、学歩は」
「うるさい」
「もう、夫婦のじゃれ合いを見せつけないでくれる」
半べそを掻いてたゆうきに少し笑みが戻りつつあった。
「「夫婦じゃない」」
俺と香帆の声が重なる。
「やっぱり、息ぴったり」
ゆうきの軽口に、俺は少し照れ隠し気味に提案した。
「お、元気でたか、久しぶりにキャッチボールでもするか」
「いいね。行こう」
「男どもは子どもだね」
「ね」
後ろで、香帆と真珠がいつもの事だねとあきれていた。
こうして、いつものメンバーが揃った。 この場所がどれほど忌まわしい洋館の隣であろうと、この五人が集まれば、俺たちは無敵なのだ。
この時の俺は、まだ本気でそう信じていた。




