第1話 目覚め
『彼はヒーローに憧れた』
一条の光も通さない真っ暗な空間に、その少年はいた。
音もなく静寂が支配する中、何かに背を預け膝を曲げて座り込んでいる。6歳程の姿をしているが、暗闇に染められてその身体はただただ黒い。
全身スーツに派手なマスク、大きなマントをつけたおもちゃの人形を顔の上方に掲げている。
『ヒーローは大切な人を守るため、別の自分に変身する』
少年は鼻息を荒くし口角をじわじわと上げ、鼓動を高鳴らせる。もしも光が僅かにでも差し込めば、その上がった頬が赤く染まっているのだろう。少年の身体はそれほどの興奮に包まれていた。
少し目線を下げ、ごくりと唾を飲み込む。静かな緊張感が興奮した身体に混ざっていく。
浅く呼吸を整え、じわじわと目を見開いていく。その目に覚悟が宿った時、大きく口で息を吸い、勢いよく見上げてはっきりとこう言った。
「君の名前は、何ていうの?」
人形を揺らす、その手は少し汗ばんでいた。少年にとって、長いような短いような緊張の時間が流れる。
静けさが暗黒に再び広がる。
──瞬間、少年は目を見開き全身を震わせた。
「リターンっていうんだ…かっこいいね」
『彼が変身したのは、ヒーローであったのだろうか』
***
その男の名は、本山拓也という。
身長は高めで181cm、身体は鍛えられていてがっしりしており、面長の顔をしている。キリッとした眉は焦げ茶色の瞳が持つ目力を強め、唇は少し薄くスッとしていて、髪型は黒髪ショート。
男の夢は、警察官であった。『人を守る』──そんなヒーローに憧れた。
男には、大切な幼馴染であり1歳年下の愛する彼女がいた。彼女は、12歳の頃に両親が交通事故で共に死亡してしまう。その後からは母方の叔母が後見人となり、小さな身体で深い悲しみの中、一人暮らしをさせられた。
男はそんな、孤独であった彼女を支えていた。
そして、現役で東京大学へと進学し、同時に彼女との同居生活を始める。4年後東京大学を出てキャリア組の警察官となり、エリートとして脚光を浴びた。
そんな順風満帆に思える男の人生には、人には言えない、とある秘密があった。
***
──彼はぼんやりと目を覚ます。
地下だと思えるほど薄暗く細い路地。左右は木材と石でできた住居のようなもので挟まれており、上は内側に湾曲してトンネルのようになっている。2つの建物の間、冷たい空間を少しだけ溶かすかのように、上から光が弱々しく差し込んでいた。
「(ん……)」
彼はその路地に突っ立っていた。ゆっくりと瞬きをし、人のいない路地を朦朧と見つめている。暗い道の奥の奥、美しい光で溢れる空間が先に見えた。
後方の少し遠くから、誰かの声が聞こえてきた。
「さ…さっきはありがとう」
幼い男の子だろうか、気弱そうな高めの声でボソッと言う。
「ん?…あぁ、気にすんな。悪いのはあいつらだ」
こちらも少年のような声だが、どこか筋の通った芯の強さを感じる。
「ねえねえ!あたしミーナ!あなたはなんていうの?」
女の子もいたようだ。溌剌として明るい声は、冷たい路地をじんわりと暖めているかのようだ。どうやら先ほど知り合った子がいるらしい。
「ミーナ……あ、えっと…僕は、ヨル」
「俺はミーナの兄貴分で、ケイってんだ。よろしくな、ヨル」
子供たちの声が近づいてくる。彼はまたしてもゆっくり瞬きして、路地の奥をぼうっと見つめながら、おぼろげな頭で会話を聞いていた。
「あぁ、それよりさ!ステータスだよステータス!スキル何持ってるか教えてくれよ!あんまり俺ら以外のやつの知らねえんだ」
ケイは思い出したかのように、少し興奮気味にヨルに尋ねた。
「ス、ステータス?何それ…?」
「ええ!?ヨル、ステータス知らないの?あたし知ってるよ!えっと、えっとね。ステータス見たい!って思ったら、見れるんだよ!ほら!」
「えと…な、なにもないけど」
ミーナは何やらヨルに説明しているが、あまり伝わっていないようだ。
「(ステータス…?見たい──なんだ、これ。性別、男…年齢、21歳)」
彼はステータスを見ることができたようだ。自身のものだけは見え、ヨルのように、他者には見えないということなのだろう。
「通りまーす!」とミーナが言いながら、子供たちは後ろから、彼の左側を通り過ぎていく。
3人はみな黒髪で、ボロボロにくたびれた灰色の布きれのような服を纏っていた。小麦色の手足は細く、幼げな足を動かしながら裸足で歩いている。奥側に見える2人の子たちはとても小さい体躯で、5か6歳前後だろうか。一番こちら側にいる男の子だけ1段背が高く、10歳程に見える。
──その瞬間、ドスッと胸から刃が生えてきた。
「…え」
下を見ようとすると同時に、また別の刃が右側から首に食い込んでくる。どちらも黒に輝く濃紫色の美しい刃であった。
彼の声につられて、前を歩いていた子供たちが振り返ろうとする。
「俺なら、まだ治せる。お前…何だ。何故今、ここに現れた」
低く重い、そして何より身体を揺さぶるような力強い男の声がする。
「(な…ん……なにも、分からな)──ッング!?…ァ」
胸の方の刃をグリッと回しえぐられる。呼吸が荒くなり、耐え難い痛みに気絶してしまいそうになる。息をハァッハァッと吐きながら、ゆっくりと自身の貫かれた胸を見る。身に着けていたらしい、薄茶色の簡素な衣服の布地に、無色透明な液体がじわり、と広がっていく。その光景はまるで現実感がないようだ。
こちらを向いた子供たちはみな目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。その3人の視線は、彼でも美しい刃でもなく、力強い声の男の姿を見つめている。
「お前、子供大事にしてるよな」
張り裂けそうな痛みの中、揺さぶるような声が響いてくる。
その言葉を聞いた後しばらくして、1番こちら側の近くにいた少し背の高い子は何かを察したのか、恐怖と怯えに満ちた表情を浮かべた。身体が震え、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまう。しかし──
「お…ぉおおお前ら、走れええええッ!に、逃げるぞおおおッ!ほ、ほらッ!!」
呆然とし続ける幼い2人の手を強引に掴んで、暗い路地の向こう、光が満ちる方へと駆け出そうとする少年。得体の知れない深い恐怖の中、それでも大切な妹分と新たな弟分を守るために、少年は勇気を振り絞る。
この瞬間、小さな少年は、まさしくヒーローであった。
──その少年の細い首が、無音で斬り飛ばされる。
自身を貫く2つの刃は動いたようには見えなかった。
頭の存在しない少年から、無色透明の液体が勢い良く噴き出し始めた。どこか命の重みが感じられない、そんな感覚を彼は覚えた。
少年の身体は倒れこみ、液体が土の地面にどくどくと流れ落ちていく中、肌を刺し貫くような静寂が流れる。
「…あ…ぇ……おに…ちゃん…?」
少女は何が起こったのか分からず、身体の力が抜けたのか後ろにへたり込む。もう1人の少年は、全身を石のように硬直させ、目をじんわりと潤ませながらカタカタと震えていた。
「さあどうする、どうしようもないヒーローさんよぉ」
冷徹な男の声が頭を揺さぶってくる。首に食い込む黒紫の刃に、じわじわと力が入れられる。限界が近いのか、視界がかすんできた。
「(……ヒー、ロー?)」
その言葉を聞いて、かすかに何か違和感を感じた。
一拍置いた次の瞬間、もう1人の少年の首も斬り飛ばされる。
液体が噴き出し、命を失った小さな身体がドサッと倒れこむ。
残された少女はヒュッ、ヒュッ、ヒュッと過呼吸になり、肩をひどく揺らしながら、恐怖の表情でこの世を去った、兄貴分だった頭を呆然と見つめ続ける。
大きく見開かれていた少女の眼、真ん丸な瞳が歪んでいく。明るい茶色の虹彩が、天からの薄暗い光を受けながら、くるりと光沢を放った。
──大粒の涙が、右の瞳から1つ溢れる。
呼吸の荒れはひどくなっていく。
その光景をかすんだ視界で見つめながら、彼はぼんやりと、だが確実に思考を始めていた。
「(ヒーロー…なんだ、この違和感は。なにか、そう……まだやらなくちゃいけないことが……僕には……)」
「ならいいさ」
──低く重い声と同時に、少女であったものの首から、透き通るような液体が噴き出す。
斬り飛ばされた小さな頭は、涙に濡れながらも光を失った瞳で、彼を見つめるように転がっていた。




