2章9話 少しの勇気とすれ違い
頭上には薄っすらと雲がかかり、朝日が柔らかな光を投げかけていた。早めに登校した山本悠太は、窓際の自分の席に座って山の方を見つめていた。
今日は授業参観があり、お母さんとおばあちゃんが来てくれる。いつもと違うからだろうか、今日は朝は早く目が覚めてしまって、いつもの時間よりずっと前に家を出た。普段はもっと遅くに来るから、教室に一番乗りは初めてだった。
(母さん、来たらどんな顔するかな。ちゃんと勉強しているところ、見てくれるかな)
誰もいない教室で、少し落ち着かない気持ちを紛らわせるように、窓ガラスに手のひらを当てる。冷たい。けれど、悪くない。山間部に位置するこの街は、昼間は走って汗をかくほど暑いのに、朝と夜はとても寒い。
特に昨日は暑かったのに、今朝はまるで冬のように冷え込んでいる。
そして、悠太がふと近くの山並みに目を向けた時、それに気づいた。
薄い白い帯が、山の中腹から立ち昇っているように見える。最初は霧かと思ったが、線のように細く立ち上るその様は、いつものもやとは違って煙のようでもあった。
(あれ、もしかしてこれって…………火事?)
慌てて、誰もいないのに周りを見渡す。先生に言わなきゃ、と思いながら、でも職員室までは結構遠かった。
別に見なかったことにしてもいいかも。そんな事も思うが、一度火事かもしれないと思った心はそう簡単に知らないフリに向かってくれなかった。
(もし火事なら大変だよな。119番だっけ。……でも、もし間違いだったらどうしよう。いたずら電話だと思われるかも)
もう一度だけ見た。
まだ煙は立ち上っているように見える。
(…………よし)
お母さんも言っていた。誰かが困ってたら、恥ずかしくても助けてあげたほうがいいよ、と。
悠太は防犯用にと持たされているキッズ携帯を取り出して、電話をする。
「――――――」
コール音が意外と長かった。
え、大丈夫かな。ドキドキする心でそう思っていたら、女の人の声が聞こえて、少しだけ安心する。悠太はしどろもどろになりながら、応対してくれる人に聞かれるままに答えていった。
「…………ふう」
小学校の名前と自分の名前を言うのに、こんなに緊張したことがあっただろうか。
でも、やり遂げた気がして、悠太はほっとしながら再び外を見た。
太陽の光が先程よりも明るくなってきている気がして、ちらほらと廊下からも声が聞こえてくる。
その時だった。再び窓の外を見ると、さっき見えていた“煙”がふわりと形を崩し、朝もやに溶けるように消えていく。
(え…………?)
それから、隣の席の絵美が登校して声をかけてくるまで、悠太は山に視線を向けたままだった。
◇◆
かつて通っていた頃からは一度耐震工事による補修が入り様変わりしているが、それでも花壇など記憶に引っかかる部分は沢山ある。
詩音の転入の時や最初の登校の送迎などでは来たことはあるが、小学生達が普通にいる時に小学校に入るのは久しぶりで、俺はついつい辺りを見回してしまった。
そして、朝から少しそわそわしているのがバレバレなじいさんと共にスリッパに履き替えて詩音の教室へと向かう。
「楽、授業は無いのか?」
「今それを聞くのかよ。まぁ今日は事情も事情だし、欠席で同じ授業でてる友達にノートは頼んでる」
途中まで無言で歩いてきたくせに、いざ小学校の中に入ると落ち着かないのか話しかけてきたじいさんにそう答える。健一に授業参観に行くから二コマ目と三コマ目は行けないというと、くっくっと笑われた後で快諾してくれたのだ。
そして、ようやく教室に着くと、少し空気がおかしい感じがした。
「ざわざわとしておるな。気のせいか?」
じいさんも同じことを感じたのか、そんなことを口にする。
そして時計を見ると、配られたプリントに書かれていた授業時間になろうかというのに、席についていない生徒が多く、まだ川島先生もいなかった。
穏やかなように見えて怒ると怖い先生だったが、休み時間でも生徒たちを見守っていたような記憶があるし、何かあったのかと思って詩音を探すと、絵美と絵夢と二人の母親と一緒に何かを話している。
「あ、楽さん、おじいちゃんも」
近づくと、詩音がこちらに気づいてそう言った。
トラさんの一件で詩音のことも気にかけてくれている犬村のおばさんに挨拶をする。
「詩音、なんか少しざわついてるみたいだけど、どうかしたのか?」
「……うん、それがあまり僕らもわからないんだけど」
俺の疑問に、詩音が少し心配そうに窓側の席を見て、続くようにして絵美と絵夢が言った。
「悠太がね」「職員室に呼び出されて連れて行かれちゃった」
どうやら、授業参観が始まるという話をしている時に先生の元に人が来て、その後生徒たちに少しだけ待っておくように告げると、悠太くんというクラスメイトを連れて職員室の方にいったのだという。
それだけでは状況が掴めず、何があったのかと首を傾げていると、そこまで待たない間に川島先生が戻ってきて、謝罪の後に普通の授業が始まった。
ただ、詩音を含めて生徒たちはどこか上の空の部分もあり、俺はそんな中でも通常通りの空気に戻そうと穏やかに授業を進める先生を懐かしい目で見ながらも、一つ空いた席が気になるのだった。




