2章8話 牛丼の匂いと距離感
母親のことへの問いを含んだ詩音への梅さんの言葉に、俺は少しだけ止まる。
咄嗟に、別に無理しなくてもいいからなと告げようとする思いと、そろそろ少しはいいんじゃないかという考えが俺の中でぶつかりあった結果だった。
詩音の母親、つまりは奏音、俺の7つ歳の離れた姉。
俺達に詩音を預けて今どうしているのかを詩音は知らなかったし、手紙にも理由は無かった。ただ、それ以上に詳しく聞こうとしなかったのは、タイミングの問題もあるが、詩音のことを慮ってのことだ。
この家に来た時、詩音は懸命にいい子であろうとしていた。それは他に行く宛が無いことを理解しているということでもあり、そして、母親である奏音の言葉をしっかり聞いて守ろうとしているということだ。
だからこそ、そんな詩音を見ていればわかることがある。
詩音はよく育てられていた。躾という言葉で表していいのかはわからないが、少なくとも俺の中で、姉は子育てを疎かにしてはいなかったと思っている。
それどころか、沢山の愛情を注いでいたのではないだろうか。
小学二年生というものの平均は流石にわからないが、文字の読み書きや宿題をやる生活リズム。好き嫌いはないわけではないが、目立った我儘も言わない。
それに何より、人の痛みをきちんと想像できて、そのために自分の能力を使えるやつだった。
だからこそ、何も言わずに詩音を一人で来させたことには理由がある。そして、何も言わずとも、"お願い"されたのであれば、それを聞くのは、弟である俺の役目だろう。
俺と姉貴にとっては、家族というものは、姉弟というものは、そういうものだった。
物心がついたときには施設にいたから、同情されるほどには不幸だとは感じたことはない。比較対象という意味では、姉がいて、事故により両親を亡くし引き取り手がいなかったという経歴はましなものだったから。
そこにいた沢山の家族の中でも、姉貴は血縁というのもあってやはり特別だった。何より明るくて、利発で、奔放で、無駄にという枕詞がつくほどに前向きでいつも引っ張っていってくれる存在。
そして、そんな良い姉だったから、姉貴が一人で家を飛び出して戻ってこなかった時には、正直驚きよりも先に納得と、少しの安心があった。
そうか、俺はもう足手まといではなくなれたかと。
「梅さん」
一瞬のことのはずなのに、思考がどこかに飛んでいってしまっていた俺を、祖父さんの短い言葉が引き戻した。
「ごめんごめん源さん、それに詩音くんもね、別に無理はしなくていいんだ。寂しいと思うのもそれを気遣うのも普通だしね……ただ、きっかけというのも必要なものかなと思ったじじいのお節介だよ」
それに梅さんはそう言って、皆が詩音を見つめる。
「えっと?」
詩音が少しだけわかっていないような顔をして、俺の方を見たので、俺は迷いながら答える。
「つまりはな、最初の方で詩音に姉貴、つまりは詩音のお母さんのことを聞いてから、あまり聞けてなかったろ? その、やっぱ急に知らない場所で知らない人間と住むことになったし、寂しいだろうからと思って俺等も聞けてなかったんだけど、だからってそういう話題を避け過ぎちゃ不自然だろ…………ってことっすよね?」
最後は答え合わせのように質問になったが、梅ちゃん先生は頷いて。
「えっと、寂しいけれど、寂しくないし、僕は大丈夫だよ? 梅さんもおじいちゃんたちも、ありがとう」
詩音はそう呟いた。
「ふむ……なるほど確かになぁ。詩音、お前はほんとに少し、聡すぎるなぁ」
松のおやっさんがそう言って、再びわしわしと詩音の頭を撫でた。
俺もそう思う。我儘を言われたらもしかしたら困ってしまうし、いい子でいてくれることに助かってしまってもいるけれど。でも、大人が子供に甘えている状況なのはあまり良くはないなと思っている。
いい塩梅なんてものは、わからないが。
そして、詩音は松さんの乱暴で優しい手にくすぐったそうに笑うと、ぽつりぽつりと話してくれる。
「お母さんね、疲れた時は肉だーって言って、牛丼よく食べてた。小学生になってからは保育園とは違ってお迎えじゃなくなったんだけれど、帰ってきたときにね、袋を持ってるかどうかでわかるの。だから、楽さんがさっき牛丼って言って、部屋にもその匂いがしてるの懐かしいなぁって思った」
未だに俺の中では、お迎えに行く母としての姉貴は想像できない。いや、できるようでいて、違和感があるとでも言えば良いのかもしれないが。
だが、丼ものが好きな姉が、疲れた顔で牛丼の袋をぶら下げている図は不思議と現実味を持った想像としてやってきた。
「相変わらず料理下手なのは治ってなかったか?」
俺がそう言うと、詩音がさっきおじいちゃんたちも言ってたけどそんなにだったの?と笑いながら聞く。
何せ、俺が小学生の時分から料理をするようになったのは、好きだったからの前に必要に迫られたというのもあったくらいだからな。
「あ、でも普段からずっと牛丼ばかりじゃないよ? 料理はあまり上手じゃないってお母さん自分でも言ってて、チンして食べれるおかずを二人でスーパーで選んだりしてた。ただね、お弁当には手作りの卵焼きをいれるんだーって言って、沢山練習してくれたりもしてたんだよ」
『もう無理! 楽、あんたなんで子供のくせにそんなに綺麗に焼けんのよ!?』
『いや、姉貴が不器用過ぎるんだろ……それにああ! 最初は書いてる通りに作ろうよ』
あの姉貴がお弁当の卵焼きを練習か、そう思って笑いが出た。
そんな俺を不思議そうに見て、詩音が続ける。
「楽さんのことは、いっぱい教えてもらったんだよ。だから、僕もいつか楽さんのご飯が食べたいなって思ってた。……お祖父ちゃんのことはそんなに話してくれなかったけれど、僕に字を教えてくれる時はね、おじいちゃんのことも教えてくれた」
「……ただ、最近、凄く考え込むこととかが多くて、時々、時間とかも忘れちゃうこともあってね…………凄く何かを怖がってるのがわかって、僕はどうしてあげたらいいかわからなくて。そんなある時、お母さんがここに行くようにって、ごめんね、大好きだよって言われて――――」
詩音がぽつりぽつりと話す内容は、流石に時系列はあっちにいったりこっちにいったりだったが、なるほど姉貴だなと思う話ばかりで。
「そっか、話してくれてありがとな、詩音。ったく、姉貴ももう少しちゃんと伝えてくれよな……自分の息子寂しい思いさせてよ」
「うん、寂しいし、会いたい。それに心配。だけど……」
「うん?」
「どうしてお母さんが僕をここに向かわせたのかは凄くわかるなって」
「そっか」
そこで、夕方の鐘が鳴って、詩音がふと思い出したように言った。
「あ、もうこんな時間だ。僕宿題やらなきゃ……それに楽さん、授業参観のプリントもらってきた」
それに、空気が回想から現実へと戻る。
「あぁ、授業参観か。学校としては大事な行事だからねl……源さんに楽も親代わりとしてきちんと見に行ってあげなきゃねぇ」
梅ちゃん先生が言って、俺が頷くと。
詩音が思い出したように言った。
「ふふ、そう言えば授業参観のお話があってね、おじいちゃんも楽さんも、見に来てくれたら嬉しいな、ふふ、一年生のときはね、お母さんはどうしても仕事で来れなくて、実は初めてなんだ、誰かが見に来てくれるの」
それを聞いて、俺はじいさんをふっと見る。
じいさんもこちらを見ていた。
お互いに言いたかったのだろうことは目配せで伝わる。
必ず行くから、風邪なんぞひくんじゃねえぞ、と。




