終章
「いいかげん使わないと、しけっちゃうと思うのよね」
夏休みも終わりに近い、八月後半。
今日も真海はえらそうに、以前霜が買った花火を突きだした。
お盆を越えたら、海で泳ぐとクラゲに刺される。
なので最近の真海は、もっぱらカヤックに乗っている。
浜には、愛用の赤いカヤックが置いてある。
最近は光崎の家に遊びに来るのに、バスではなくカヤックを漕いで、海からやってくるのだ。
「どうでもいいが、夏休みの宿題は終わったのか? ほら、絵日記とか」
「むかーっ。北門さん、馬鹿にしてる? あたしたちは高・二・で・す・け・ど?」
砂浜に立てたビーチパラソルの影で、涼香は数学の参考書を開いていた。
隣では霜があぐらを組んで、座っている。
晩夏とはいえ朝の十時の日差しはきつい。
濃い影が砂の上に落ちている。
「霜、この交点の位置ベクトルと線分比の問題が分からないんだけど」
「ふむ、数学か」
「教えてもらってもいい?」
涼香はノートとシャープペンシルを、霜にさしだした。
その二つを受け取った霜が、突然顔を赤らめる。
(え、どうしたの?)
慌てて涼香が覗き込むと、霜は口を押えて瞳を潤ませている。
「……いいものだな」
「何が?」
急に感極まっちゃって、どうしたの?
霜は数学のノートの表紙を、涼香へと向けた。
「きゃああああっ!」
「どうしたの? 涼香」
「だめ、真海は来ちゃダメ。絶対に見ないでっ」
頭から湯気が出そうなほどに顔が熱い。
涼香は慌てて霜からノートを奪おうとしたが、ひょいとのけられてしまう。
「これは記念として、俺がもらっておこう。額に入れてもいいし、お守り代わりに鞄に入れて常に持ち歩いてもいい」
ひぃ、と涼香はひきつった悲鳴を上げた。
「ほほう、面白そうじゃない。この真海さんも仲間に入れなさいよ」
真海までもが、霜の手からノートを取り上げる。
次に悲鳴を上げたのは霜だった。
「待て、返せ。それは俺の宝物だ」
「なになに? えーと」
ノートの表紙に書かれた文章を黙読していた真海は、肩を落としたと思うと、今度は天を仰いでおでこに手を当てた。
「このバカップル!」
「うっ」
「ごめんなさい。せっぱつまっていた時だったから」
霜と涼香は揃ってうなだれた。
なんて恥ずかしいことをしているんだと、怒られるに決まっている。
奉饌の儀の前に、もう霜に会えないかもと思って愛の告白を書いたのだった。
あまりにも恥ずかしくて、表紙を下に向けて置いていたら、いつの間にかそのノートに走り書きをしていたことすら失念していた。
「で、北門さんはこれを額に入れるのね」
「それはあくまでも冗談で」
「へーーえ?」
顔が怖いよ、真海。
「いいのよ、あたしが表紙を切り取って、額装してあげる。そうね、大学の北門さんの部屋に飾るといいわ。学生さん達からよく見える壁にね。ふふふ、楽しいわねー。レポートを提出に来た学生さんや、用事で入ってきた教授に見られまくるのよ。『おい、北門くん、それはなんだね』って尋ねられて、羞恥に打ち震えるといいわ。学生からは陰で『噂の女子高生からもらったらしいわよ。やっぱりロリなのね』って言われるといい」
素敵、ぞくぞくするわね、と真海はパドルを抱えて身をくねらせた。
違う意味で怖いよ、真海。
「そうだったわ、真海は妄想がたくましいんだった」
「ふふ、パラソルの下でいちゃいちゃするあんた達を眺めながら、この澄んだ自然、凪いだ海をカヤックで進むと、心が洗われるわね」
「……俺は、どこから突っ込んでいいのかもう分からん」
霜はため息をつきながら、ノートを自分の背後に隠した。
その時に、涼香と霜の指が触れあった。
とっさに涼香は手を動かそうとしたけれど、そうはさせじと霜に手を握られてしまう。
だから、真海におもちゃにされるんだって。
それでも、しっかりと握ってくる霜の手をふり払おうとは思わなかった。
ずっと橘の実を摘み、着付けをしてくれた霜の指。
今はもう黄金色の実はならないし、涼香も着物を着る必要はなくなったけれど。
この手を離したくはない。
涼香は、そっと霜の指と自分の指を絡めた。
時久を解放した後、志津香は謹慎と称して自ら座敷牢へと戻った。
涼香は勇気を出して、蔵に入り姉に会いに行った。
扇風機も何もない、空気の澱んだ暗がりの中で背筋を伸ばして正座をする志津香は、意志の力で己を律しようとしているかのようだった。
日が暮れてから、真海の希望通り花火をすることになった。
島影は暗く沈んでいるが、空はまだ夕暮れの名残がある。
海は凪ぎ、波は穏やかに砂を洗う。
「おいこら、須賀野。こっちに花火を向けるな」
「何言ってんの。ヒーローには火薬でしょ。爆発でしょ。ほら、ポーズをとりなさいよ」
きゃあきゃあと騒ぎながら、真海が霜を追いかけている。
涼香は手に持った花火を斜め上に向けて、宵の空を見つめた。
「時久さま。見えますか?」
ねぐらへ帰ろうとする美しい鳥は、白鷺だろうか。
「そういえば、涼香。数学の問題を訊いていたよな」
「うん、あとで教えてね」
新しい花火に火をつけた霜は、涼香の隣に並ぶと不敵な笑みを浮かべた。
あの仏頂面はどこへ行ったのかと思うほどに、この頃は表情が豊かだ。
「涼香、忘れたのか? 俺は文系なんだぞ」
腰に手を当て、玩具花火で遊びながら、霜はにやりと笑った。
【完】




